第99話 玉座へ至る叛逆の道
十一の月十八日、正午前――
王都エーデルシュタットの南門に、ローゼンシルト公爵家の軍旗が翻った。
セレスティーヌ・ベネディクタ・ローゼンシルトは、三十騎ほどの精鋭を従えて王都に入城した。
主力――およそ五千の兵は王都外に待機させ、セレスティーヌと少数の騎馬兵のみが城門を潜った。
「ローゼンシルト公爵だ!」
「公爵様が来てくださった!」
「救国軍から王都を守ってくださるんだ!」
飢えと不安に蝕まれた王都にとって、勅に応じた唯一の公爵の到着は、まさしく救いの光だった。
バルモアに救援物資を送った慈悲深き女公爵が、今度は王都を守るために駆けつけてくれた。
その物語はセレスティーヌが一歩も動かずとも、勝手に民の口から口へ広がっていく。
セレスティーヌは馬上からたおやかに微笑み、沿道の民に手を振った。
その装いも紫紺のドレスの上に白銀の胸甲と、白く細い腕には精緻な装飾が施された小手が嵌められている。
純白の外套が馬の背に流れるように広がるその姿は、民衆の目にはまるで殉教のために剣を取った聖女のように映った。
南門から王宮広場までの大通りを進むうちに、群衆はさらに膨れ上がった。
窓から身を乗り出す者、子供を肩車して見せる者、中には跪いて祈りを捧げる者までいた。
セレスティーヌはその全てに微笑みを返しながら、馬の歩を緩めた。
急ぐ必要は何もない。できる限りこの聖なる行進を長引かせればいい。
全ての王都の民が自分の姿を目に灼きつけ、心に刻むように。
※
王宮前広場に到着したセレスティーヌは馬を降りる。
白い外套がふわり翻り、純白の翼のように広がった。
広場の中央に立ち、護衛を整列させる。
初冬の風が茶髪を揺らす。
宮殿の正門から使者が歩み出てきた。
宮内府の文官。手には羊皮紙であつらえた勅書の巻物を携えている。
セレスティーヌは使者を待ち受け、優雅に一礼した。
「ローゼンシルト公爵、ご到着を歓迎いたします。陛下より救国軍と名乗る賊軍討伐の勅書をお渡しいたします」
文官が巻物を広げ、大声で読み上げた。
王命の文言が広場に響く。
『バルモア救国軍を名乗る叛徒は王国の秩序を乱し、臣民の生命と財産を脅かす逆賊である。朕はローゼンシルト公爵に対し、王国の秩序回復のため、逆賊討伐の全権を委任する――』
全権を委任する――つまりは戦の全てをセレスティーヌに委ねるということ。
彼女は漏れそうになる笑みを噛み殺し、神妙な面持ちで勅書を受け取った。
群衆が、賊徒を討つべく王から選ばれた聖女を静かに見守っている。
セレスティーヌは勅書を受け取った。
巻かれた勅書を丁寧に広げた。
菫色の瞳が、勅書の文面を一行ずつ追っていく。
まるで一字一句を噛み締めるかのように。
そして――
両手で、縦に裂いた。
二度、三度と、細かく切り裂いていく。
群衆がどよめいた。
女公爵を王都の救世主だと信じた老女が祈りの姿勢のまま固まっていた。
文官は何が起こったのかわからず、ぽかんと口を開けていた。
セレスティーヌは引き裂いた勅書の破片を丸めると、無造作に地面に放り捨てた。
勅書だった塵は、冬の風に吹かれ石畳の上をころころと転がっていった。
「この勅書には――」
セレスティーヌの声は静かだった。
静かだが、沈黙の広場にはよく通る声だった。
怒りも激昂も嘲笑もない。
ただ淡々と事実を述べる声だった。
「民を飢えさせた王の名が記されている」
誰も声を発しない。
何を言われたのか、ただ信じられないと目を瞬かせているだけ。
「――四大公爵の筆頭を失い、国は飢え、民は死に、そして今も飢えた民が王都に迫っている。その全てを招いた王がこの勅書に名を刻んでいる」
セレスティーヌは一歩前に出た。
群衆が——いや、広場にいる全ての人間が、息を止めていた。
「民を守れぬ王の命に、いかなる価値があるというのか」
静かに、しかし毅然とした声が響いた。
恫喝でも宣戦布告でもなかった。ただの問いかけ。
民を守れぬ王に、価値はあるのかと。ただそれだけ。
「私は反逆のために来たのであらず。この国の――王都の民を守るために馳せ参じた。――王命に従うためではなく」
その言葉が広場に落ちた瞬間、城壁から角笛の音が鳴り響いた。
それはローゼンシルト公爵家の兵に発せられた合図だった。
一つではない。二つ、三つ、四つ――南門の方角から次々と響く合図の音。
外で待機していたローゼンシルト軍の主力が、開かれた門から雪崩れ込んできた。
隊列を組んだ重装歩兵が大通りを駆け抜け、騎兵が脇道に散開し、王宮へ続く全ての街路を封鎖していく。
王都の守備兵は呆然と見送るしかなかった。抵抗する者はほとんどいなかった。
数日前まで王の勅に応じて参陣する味方だと信じていた軍勢が、一転して王宮を包囲する側に回ったのだ。
広場の民衆は悲鳴を上げるどころか、声もなく立ち尽くしている。
何が起きているか理解できないまま、ただ立ちすくんでローゼンシルトの軍旗を見つめている。
セレスティーヌは振り返りもしなかった。
軍に短く指示を出す。
「王宮を制圧せよ。抵抗する者には容赦は不要。ただし文官は殺すな。特に宮内府長官ランドルフ・ハウザー卿には傷一つ負わせるな」
※
王宮の制圧はほとんど抵抗なく終わった。
近衛兵こそ練度の高い部隊だったが、数で勝るうえ精鋭を揃えたローゼンシルト軍の前には鎧袖一触でしかない。
近衛兵は混乱の中で散発的な抵抗を試みたが、それぞれが少数で分断されており組織的な防衛線を構築できないまま各個撃破された。
突入してから一時間とかからず、王宮の大半はローゼンシルト軍に制圧された。
抵抗の意思を無くした王宮の廊下をセレスティーヌは優美に歩く。
不幸にもジークハイトに忠実だった近衛の死体を跨いでいく。
途中で宮内府の部屋があった。
宮内府長官ランドルフ・ハウザーが、数名の文官と共に執務室に立て籠もっているようだった。
兵士が扉を蹴破ると、ハウザーたち文官は何も武器を持っておらず両手を上げて降伏した。
白髪の老官僚の顔に恐怖はなく、ただ深い疲労と諦観だけが浮かんでいた。
兵士がハウザーを立たせ、手を後ろ手に縛ろうとした時、セレスティーヌが執務室に入ってきた。
兵士を手で制し、ハウザーの前に歩み寄る。
「ハウザー卿、お怪我はございませんか」
セレスティーヌの声は穏やかだった。
まるでサロンで挨拶をするかのような物腰。
ハウザーは静かに頭を下げた。
「……お気遣い痛み入ります、公爵閣下。いえ――何とお呼びすべきでしょうか」
「今まで通りローゼンシルト公で構いませんわ。あなたの実務の腕は、次の秩序でも必要です。どうかお力をお貸しいただけませんか」
命令ではなかった。
だがこの状況で断れるはずもなかった。
ハウザーは長い沈黙の後、深く一礼した。
「……この老骨が役に立つのであれば」
「ありがとうございます。手荒な真似をした非礼はお許しを。あなたの部下にも手は出しませんので、ご安心ください。引き続きこの執務室をお使いになって」
セレスティーヌは微笑み、純白の外套を翻し踵を返す。
扉を出る直前にハウザーが声をかけた。
「……公爵閣下。陛下を、どうなさるおつもりですか」
「王としての最後の務めを果たしていただきます」
それだけを告げて、セレスティーヌは謁見の間へ向かった。
その意味をハウザーはすぐに理解するも、言葉には出せなかった。
※
謁見の間は、荒れていた。
近衛が最後に抵抗した場所だったのだろう。数体の遺体が転がり、赤い絨毯にはさらに赤い染みが広がっていた。
高い天井から差す冬の陽光が、広間を斜めに切り裂いている。
その光の中に、玉座があった。
そして玉座の前に――ジークハイト・アルベリヒ・エーデルガルドが立っていた。
立っていたというべきか立ち尽くしていたというべきか。
王冠は頭から斜めにずれ、王装も乱れている。
王権を表す儀礼剣はどうやら一度も鞘から抜かれることなく、ジークハイトの腰に垂れ下がったままだった。
射し込む陽光のなかをセレスティーヌが歩いてくる。
女公爵としての優美なドレスと白銀の胸甲と小手。そして白い外套。
甲冑に身を固めた武人ではなく、あくまでも貴婦人の姿で王の前に現れた。
ジークハイトがセレスティーヌを見た。
碧い瞳が、信じられないものを見るように見開かれた。
「ローゼンシルト……なぜ……お前は、余の勅に応じたではないか……!」
声が震えていた。
だが、それでも王の威厳は保とうとしている。
セレスティーヌは玉座の五歩手前で立ち止まり、一礼した。
「ええ、応じましたとも、陛下。王都を守るために参りました。――あなたからこの王都を取り戻すべく」
「待て……待て、ローゼンシルト。話を――話をしよう。余は王だ。余の命に、お前は従うと誓ったはずだ。信仰の守護者の名にかけてと――」
セレスティーヌは腰の短刀を抜き、絨毯の上を滑らせるようにジークハイトの足元に投げた。
からん、と澄んだ軽い音を立てて、短刀が玉座の前に転がった。
「陛下。最後のお務めです」
穏やかな声だった。
しかしその穏やかさが、却って残酷な宣告として響いた。
「自害なさいませ。せめてエーデルガルドの王として、最後の矜持をお示しになってはいかがですか」
セレスティーヌの声に、一瞬――ほんの一瞬だけ、本物の期待が混じった。
せめてこの男が、最後くらいは王の顔をして死んでくれるなら。
王冠を奪う者として、奪うに値する王冠であってほしいという矛盾した祈りにも似た感情だった。
ジークハイトは足元の短刀を見下ろし、そして顔を上げた。
金髪碧眼の美しい顔が、恐怖と屈辱で醜く歪んでいた。
「余は——余は王だぞ!」
裏返った声で、それでも腰の剣を抜けない。
絶望的な状況を認識しながらも、自分が死ななければならないという事実を受け入れられなかった。
「余はエーデルガルドの王だ! 貴様のような——貴様のような女が! 余に——指図するな!」
折れかけた枝にしがみつくような虚勢。
セレスティーヌは微動だにしなかった。
菫色の瞳が、ただ静かにジークハイトを見ている。
「そうですか」
淡々と、まるで何の感慨もなく呟いた。
王として最後の矜持も示せなかった男に、投げかける言葉はなかった。
「俺が……俺は――ただ……!」
怯えるだけの青年が、玉座の前にしゃがみ込んだ。
兄の死に望まぬ王冠を被せられ、誰にも頼れず、誰も信じられず、虚勢だけで玉座にしがみついてきた青年。
「うっ、うぁぁぁぁぁぁぁぁっ!!!」
青年は短刀に手を伸ばすことなく、身を翻し、無様に逃げ出した。
よろめきながら、何かに縋るように手を伸ばしながら、背中を向けて。
その姿には、かつて民を見下ろした王の面影は欠片もなかった。
二歩、三歩と足を踏み出した後、足がもつれて倒れた。
セレスティーヌは溜息を一つ吐いた。
小さな、本当に小さな溜息だった。
失望ではなかった。ただ、予想通りだったという確認だった。
それでも——ほんの僅かに期待していた自分がいたことを、認めざるを得なかった。
腰に佩いた長剣を抜き、もぞもぞと這い回る青年に穏やかに歩み寄る。
腰が抜け、床を這いまわる青年の背中は、あまりにも無防備であまりにも小さかった。
セレスティーヌの長剣が弧を描いた。
冬の陽光を切り裂くように、一閃。
「ひっ、やめっ――!」
その背中を袈裟懸けに切り裂いた。
血飛沫が舞い、王冠がからからと音を立てて転がる。
セレスティーヌの瞳に後悔の色はなかった。
純白の外套に血飛沫が点々と付着する。
セレスティーヌは剣に付着した血を振り払い、鞘に収め言った。
「――作戦完了。市街では略奪を一切禁止し王都の治安維持を最優先に行うこと。そして王都の民が最初に受け取るのは剣ではなくパンです」
王を斬った剣を手にしたまま、民にパンを配れと命じる。
それがセレスティーヌ・ベネディクタ・ローゼンシルトという女の在り方だった。
善意も野心も、同じ手の中にある。
民を慈しむ心も、王を殺す刃も、彼女の中では矛盾なく同居していた。
数百年の歴史を誇るエーデルガルド王家は、この日をもって絶えた。
最後の王は玉座から逃げ出し、背中を斬られ、無様な死を遂げた。
新しい時代が何をもたらすのかは——まだ誰にもわからなかった。




