第98話 王命、届かず
十一の月十三日。
王都エーデルシュタット王宮、謁見の間。
冬の陽光が差し込む高い窓の下に、深紅の絨毯が敷かれその中央に玉座が鎮座する。
その玉座の前で跪き頭を垂れる初老の男の姿は、おおよそ謁見の場に相応しいものではなかった。
バルモア領に隣接する小領を治めていた初老の領主――フリードリヒ・レーベリング男爵は、泥と煤にまみれた外套を纏い、髭は数日分伸び放題で、とても一介の領主とは思えないみすぼらしい姿を晒していた。
数日前、バルモア領から救国軍と名乗る武装集団が押し寄せてきた。
バルモアの地で何があったかはレーベリング男爵も把握していた。
公爵を惨殺した暴徒どもが、周辺の領地にまで牙を向いてきたのだ。
彼らは最初こそ「同胞に協力を」と穏やかに要求してきた。
しかし、穀物価格の急騰とバルモア大火の影響で、レーベリング領も十分な備蓄は残っていなかった。
それをこのような暴徒崩れに渡せるわけがない。男爵は要求を拒否した。
救国軍は拒否を待ってましたとばかりに領内の村落を襲い、略奪と放火を繰り返した。
『見ろ! お前たちの領主は我が身可愛さに同胞を見捨てた! こんな領主に付き従う必要はない! 俺たちと共に王都に進軍し、王に正義を問おう!』
村を焼く一方で、救国軍は『悪いのは貴族たちだ』と繰り返し喧伝した。
家を焼かれ、食糧も奪われた領民に残された手段は、生き延びるために救国軍に加わることだけだった。
救国軍は村を焼き、家を焼き、縋るものを無くした民に「王が悪い」「貴族が悪い」という憎しみの矛先だけを与えていく。
「――陛下、お願いでございます。どうか、どうか兵をお遣わしください」
レーベリング男爵の声は枯れていた。
家族と僅かな手勢だけで屋敷を脱出し、三日三晩馬を飛ばし、途中で馬を乗り潰し、最後は徒歩で王都の門を叩いたのだ。
「奴らは村を焼き、倉庫を漁り、抵抗する者は……もはや私の手には負えません。陛下の御力をお借りしなければ、あの地の民は……」
言葉が途切れた。
初老の男の目から涙が落ち、絨毯に小さな染みを作った。
玉座に座るジークハイト・アルベリヒ・エーデルガルドは、その光景を見下ろしていた。
金髪碧眼の美しき若き王は、つまらなそうに足を組み玉座の肘掛けに肘を置いて頬杖をつく。
「レーベリング男爵」
ジークハイトの声は冷たかった。
男爵はひくりと体を震わせた。
「そなたは領主であろう。王から預かった土地と民を守る義務を負う者であろう。それが——賊徒の襲撃で、領地を捨てて逃げ出してきたと?」
レーベリング男爵の顔が蒼白になった。
唇を震わせ、言葉を探す。
しかし、何を弁解しても自分が領地と領民を捨てて逃げたことは変わらない。
それでも、絞り出すように男爵は言った。
「陛下、私は——」
「余が問うているのはここへの経緯ではない。なぜ戦わなかったのかと聞いている。そなたには兵がいたはずだ。砦があったはずだ。それを捨てて逃げ出したのか? それが領主の務めか?」
謁見の間に居並ぶ廷臣たちが、息を詰めていた。
レーベリング男爵は床に額をこすりつけんばかりに頭を下げた。
「申し訳ございません……しかし陛下、陛下の御威光のおかげで我々のような小領は長く平穏に過ごすことができました。泰平の世にあって兵を養うよりも、その分を民の暮らしに充てることが領主の務めと考え……兵は僅かしか……」
「平穏だったから備えをしなかった? それが領主の言い訳か。泰平の世であっても万が一に備えるのが統治者の務めであろう。泰平に甘えて備えを怠った。その怠慢の報いを今そなたは受けているのだろう?」
遠回しにレーベリング男爵は王のせいにした。
王の治世が優れていたからこそ、領主が自衛の兵を減らしたのだと。
だが所詮は稚拙な言い訳、すぐに王に見透かされた。
ジークハイトは苛立ちと同時に、この惨めな初老の男を詰めることで自分の権威を再確認していた。
こうやって格下の人間を見下ろしている時だけ、この玉座が自分のものだと安堵する。
「陛下」
静かな声が、謁見の間に割って入った。
玉座の脇に控えていた宮内府長官ランドルフ・ハウザーが、一歩前に出た。
白髪の老官僚は、先王の時代から宮内府を預かる古参だった。
ジークハイトにとっては煙たい存在だが、この男がいなければ宮廷の実務は回らない。
「レーベリング卿のご報告は、極めて深刻な内容を含んでおります。救国軍と名乗る暴徒が近隣領を蹂躙し、その勢力を拡大しているということは、やがて王都にも脅威が及ぶ可能性がございましょう。卿へのご判断の是非は後日改めてお沙汰なさるとして、まずは事態への対応を急ぐべきかと」
ハウザーの言葉に、他の廷臣たちも同調するように動いた。
ジークハイトの眉がぴくりと動く。
正論だ。ゆえに正しく不快だった。
この老人は常にそうだ。正しいことを正しい口調で言い、それによって王の言動を制限しようとする。
意図してやっているのか、それとも本当にただ実務上正しい判断を述べているだけなのか。
どちらにしても気に入らない。
「――わかっておる」
ジークハイトは短く言い放った。
わかっている。わかっているとも。
暴徒がバルモア公爵を殺し、今や武装勢力となって王都に迫ろうとする。
何の手も打たないままではその先にあるのが何か、考えたくなくてもわかる。
「諸侯に勅を発する。バルモア救国軍を名乗る叛徒の討伐を命じる。我が王権に従う全ての諸侯は、王国の秩序を守るために兵を挙げ王都に参陣せよ。——これは王命である」
廷臣たちが頭を垂れた。
ハウザーが「直ちに勅書を起草いたします」と応じ、書記官に目配せをした。
レーベリングは床に膝をついたまま、「ありがとうございます、陛下」と震える声で言った。
ジークハイトは頷いた。これで反乱は一掃されるだろう。
王が勅命を下せば諸侯は兵を率いて王都に集結する。
そして無謀な反乱者どもは王の威光の前にあっけなく踏み潰される。
そうなるはずだ。
――そうならなければならないのだ。
――本当に?
魚の小骨が喉の奥に引っかかったような不安が、ジークハイトの胸を刺した。
――本当に諸侯は、王の命に従うのか?
あの晩餐会以降、ジークハイトは周囲の視線が変わったことを薄々と感じていた。
諸侯たちが、常に自分を試すような目で見ている。
現に、バルモアの穀物投機に端を発する王都の食糧不足に対してジークハイトは周辺諸侯へ食糧の供出を命じたが、何かと言い訳を並べて供出を渋っている者がいる。
今の王都は北のゼーヴェルト公爵から食糧を融通してもらい、ハウザーたち行政官の手腕で何とか食糧不足をしのいでいる。
だがこれは裏を返せばゼーヴェルト公爵に実質的に王都の生命線を握られているようなものだ。
あの成り上がり者の公爵はどこまで信用できるのか。ジークハイトには見極めがつかなかった。
ゆえに――今回の救国軍討伐への勅令は、諸侯たちの真意を探る試金石でもあった。
本当に諸侯は王命に従うのか。それとも――
考えるな。考えるな。
余は王だ。勅を発した。従わぬ者は逆臣だ。
それだけでいい。それだけでいいはずだ。
※
勅は王国全土に発せられた。
教会の聖声盤を通じて全教区に通達され、同時に早馬が主要な諸侯の元に勅書を届けた。
数日後、ジークハイトは執務室で届いた返書を読んでいた。
ゼーヴェルト公爵からの返書は、形式だけは完璧だった。
恭しい書き出し、陛下への忠誠を誓う定型文。
『北方海域の治安維持のため、現時点では兵を動かすことが困難でございます。海賊の活動が活発化しており、領内の防衛に全力を注がねばなりません。事態が落ち着き次第、改めて陛下のお力添えができるよう準備いたします』
「ふ……ざけるなぁっ!」
ジークハイトは返書を机に叩きつけた。
海賊などここ数年ろくに出没していないことくらい、宮内府の記録を見れば明らかだ。
建前だけで編まれた王命への明確な拒否の言葉だった。
ブラックウォール公爵からの返書はゼーヴェルトのそれよりも短く、そして誠実だった。
『陛下の勅命、謹んでお受けいたします。しかしながら、ブラックウォール領もまた穀物不足による領内の不安定化に直面しており、全兵力を王都に向けることは領民を見捨てることと同義であります。現時点で派兵可能な戦力はございません。深くお詫び申し上げます』
ブラックウォールは誠実な男だ。公爵の中ではもっとも王命に従順なはずだった。
ブラックウォールは嘘を吐かない。吐かないからこそ、派兵をできない理由は明白で余計に苛立った。
――まずは王都こそ最優先で守るべきではないのか。自分の領など問題ではない。
他の中小領主からの返書は、大半が届いていなかった。
届いた数通も、ブラックウォールと同様の『自領防衛のため』という理由での辞退だった。
沈黙はさらに雄弁だった。返事すら寄越さないということは、もはや王命を無視しても構わないと判断したということだ。
アッシュフィールドからも返書は届いていた。
ブラックウォールと同様の趣旨——自領の防衛と食糧統制を理由とした辞退。
ジークハイトはその書面をろくに読みもせず、他の辞退の書状と一緒に投げ捨てた。
田舎伯爵の判断など、今の彼にとってはどうでもよかった。
誰も来ない。
誰も、来ない。
ジークハイトは椅子の背にもたれ、天井を見上げた。
いつの間に自分はこんなにも軽い存在になってしまったのだろう。
あの婚約破棄か? それとももっと前から?
コンコン、と執務室の扉が控えめにノックされた。
「陛下、ローゼンシルト公爵からの返書が届いております」
ハウザーの声だった。
ジークハイトは身を起こした。
受け取った封書を開く。指先が僅かに震えていた。
書面に目を通した瞬間、ジークハイトの目が見開かれた。
『陛下の勅命、謹んでお受けいたします。ローゼンシルト公爵家は王国の秩序と陛下の御安寧を守るため、速やかに兵を整え、王都エーデルシュタットに参陣いたします。微力ながらこの身を盾として陛下をお守りする所存でございます。信仰の守護者の名にかけて。――セレスティーヌ・ベネディクタ・ローゼンシルト』
来る、やはり王権は揺るがない。
ジークハイトの胸の奥で、安堵が広がった。
四大公爵の一角が勅に応じた。見捨てられたわけではなかった。
少なくとも一人は王命に従う者がいた。
「ローゼンシルト公爵が参陣する。——よくぞ応じてくれた」
声に喜色が混じっていた。
ハウザーは一礼し、執務室を退出した。
※
数日前――ローゼンシルト領都フィオレンツァ。
ジークハイトからの勅書を読み終えたセレスティーヌは、静かに勅書を机に置いた。
菫色の瞳に、感情の波紋は見えない。
ただ、唇の端がかすかに——ほんのかすかに、持ち上がった。
王はようやく王として必要な署名をした。
ならばもう十分だった。
「マルグリット」
「はい」
「参陣の返書を。内容は——そうね、『信仰の守護者の名にかけて、この身を盾として陛下をお守りする』。このような感じでいいでしょう。大げさなほうが陛下はお喜びになるわ」
マルグリットは一瞬だけ主の顔を見つめ、それからペンを取った。
「軍の準備を。フィオレンツァの常備兵に加え、峠道の守備隊も引き抜きなさい。ローゼンシルト家が動員できる最大兵力を、可能な限り速やかに整える」
「峠道の守備を外しますと、アルカ聖教国との境が手薄に——」
「構いません、教皇庁が我が領に攻め入ると思いますか? 私たちは一日でも早く王都に辿り着き、陛下の御前に跪く必要があります。できるだけ急ぎなさい」
「かしこまりました」
セレスティーヌは立ち上がり、窓辺に向かった。
窓の外は冬の陽光が、フィオレンツァの街並みを照らしている。
「マルグリット。この勅に応じる公爵は、おそらく私だけでしょう」
「なぜそうお考えに?」
「ゼーヴェルトは最初から王家に忠誠などない。あの男にとって勅はただの契約切れの紙切れ。バルモアはもう存在しない。問題は——ブラックウォール」
セレスティーヌの声が、僅かに鋭くなった。
「あの公爵家は領内の食糧不足で手一杯のはず。だから常識的には動けないし、動かない可能性が高い。けれど——」
マルグリットは黙って聞いていた。
「王の婚約破棄で辱められた娘の父が、それでも王命に応じて参陣する。もしそんな物語が王都で語られたら——それは私がどれだけ物資を積んでも買えない政治的資産になる。辱めを受けてなお忠義を尽くす武門の公爵と、危機に駆けつけた信仰の守護者。並べば後者が霞むわ」
セレスティーヌは振り返った。
菫色の瞳が、暖炉の光を受けて妖しく揺れる。
「だから先に入る。最初に王都の門をくぐった者が次の秩序の中心に立つ。ブラックウォールが動こうが動くまいが、先に入ったという事実は覆らない」
セレスティーヌは微笑んだ。
長らく信仰の守護者としての名誉を受けてきた聖女の微笑み。
だがその奥にある光は、何よりも冷たく、そして鋭く燃えていた。
マルグリットは兵の動員に向けて退室した。
一人になったセレスティーヌは、窓の外に目を向けた。
北の空。王都がある方角。
まだ見えない城壁の向こうに、怯える若き王がいる。
溺れる者が差し伸べた手を掴むように、彼は自分を迎え入れるだろう。
その手が喉に回ることも知らずに。




