第97話 奪ったのではない、取り返したのだ
十の月下旬。
バルモア救国軍と名乗る武装勢力は、ゴルトフェルトのバルモア公爵城を本拠として暫定政府を名乗っていた。
もっとも――政府というにはあまりにも粗末で稚拙な集団だった。
公爵の居城は、死体だけを片付けた廃墟も同然だった。
大広間の絨毯には乾いた血の染みがこびりつき、誰も掃除をしようとしなかった。
広間を飾る歴代公爵の肖像画は全て粥を炊く薪として燃やされ、豪奢な家具も斧で叩き割られ薪へと変わっている。
調度品は略奪されるか叩き壊されるかして、かつての優雅さの欠片も残っていない。
唯一機能していたのは厨房と、地下の備蓄倉庫だった。
――それも、長くは保たなかったが。
指導部と言えるものはニコラス・ドレフュスとオスカー・テュラム、そしてマティアス・プレストン司教の三名。
ニコラスが民衆の声を束ね、オスカーが武装した民兵をかろうじて統制し、マティアスが精神的な支柱として祭り上げられている。
足の長さが全て違う三本足の椅子。揺らげば簡単に倒れてしまいそうな危うい組織だった。
最初の問題、食糧の問題はすぐに起こった。
城の備蓄倉庫には確かに穀物があった。
城門が開かれた日、民衆は歓喜とともにその穀物を手にした。
だがそれは数千人の暴徒が数日で食い尽くす程度の量でしかなかった。
焼け残った畑からの収穫と配給量を絞ることでなんとか食い繋いではいるが、備蓄は日を追うごとに減っていく。
穀倉地帯は灰の野原。市場は未だ停止している。
否――正確には大火の後、一瞬だがグランファーレンの商人たちが食糧を売りに来たことがあった。
しかし、困窮に付け込んだ法外な値で、焼け出された者が到底買えるものではなかった。
そんな商人たちも暴徒がバルモア公爵を惨殺したと知るやいなや、荷をまとめて早々に本国に引き上げてしまった。
これでバルモアに食料を売りに来る商人はいなくなった。
グランファーレン側の国境は流民を防ぐべく厳しく封鎖されており、バルモアは孤立無援の地と化していた。
※
オスカーは城の大広間で、元部下と民兵の隊長格を集めて会議を開いていた。
荒らされた広間に長机を置いただけの作戦会議室。
そこに座すオスカーの表情は険しかった。
「これまで食糧を切り詰めてきましたが……あと五日分がいいところです」
元第三部隊の副官だった男が報告した。
オスカーが城門を開けた時、彼の部隊の大半は上官に従い暴徒を通した。
事が終わった時、第三部隊も暴徒に囲まれあわやという状況だったが、ニコラスの説得により全員無事だった。
ニコラスは城門を開けたオスカーを“英雄”と称え、救国軍と名乗る民兵を率いることになった。
指揮官級の軍務経験者の彼がいなければ、救国軍は早々にただの略奪者集団になっていただろう。
彼の統率で、かろうじて救国軍の規律は保たれていた。
「五日か……苦しいな」
オスカーは苦虫を噛み潰した顔で腕を組んだ。
五日。それが過ぎればこの城に立て籠もった民兵が飢える。
飢えた人間が何をするかは、ついこの間オスカー自身がその目で見たばかりだ。
「東地区の住民からの供出を行うしかありません」
ゴルトフェルトの西地区のほとんどが焼け落ちていた。
大火を免れたのは比較的富裕層が多く住む東地区。
住民はまだ自分たちの家に住み、わずかながら蓄えも持っている。
その蓄えを“供出”してもらう。
あくまで強制ではなく、“お願い”として説得する。
もっとも、公爵を殺し武装した民兵の“お願い”を断れる者はいないだろうが。
「やるなら規律を保て。必要な分だけを頂くんだ。決して暴力を振るうな」
「ハッ、あいつら俺たちと違って金持ってるだろ。西の貧乏人はみんな焼け出されたのに東の金持ちはのうのうと家に住んでやがる。そこまでへりくだる必要あるのかよ」
会議に参加していたニコラスが、吐き捨てるように言った。
その言葉に周囲の人間も「飢えてる側がなんでそこまで気を遣わなきゃならない」「東の奴らも食えねえ思いをしろ」などと怒りを露わにする。
――この流れは不味い。オスカーはそう感じた。
「ニコラス、気持ちはわかるが東地区の人間だって家が焼かれてないだけで、生活は決して楽じゃない。俺たちは救国軍だ。東の住民も俺たちの同胞だということを忘れるな」
「わかってますよ隊長。丁重に、丁重に、子供をあやすように“供出”の“お願い”をしますよ」
ニコラスは軽薄に笑い、オスカーに向かって敬礼した。
供出はその日のうちに始まった。
民兵たちは隊を組んで東地区の通りを巡回し、一軒ごとに戸を叩いてゆく。
『バルモア救国軍です。暫定政府の決定により、非常時における食糧の供出にご協力ください』
オスカーが書いた台本を手に、民衆を説得する民兵たち。
丁寧で、礼儀正しく、圧力を感じさせないはずの言葉。
断られれば素直に引き下がるつもりだった。
だが扉を開けた住民の目に映るのは、公爵軍の武器庫から持ち出した剣や槍を手にした男たちだった。
そんな人間を前にして誰が断れよう。
住民たちは進んで食糧を差し出した。その顔は恐怖と諦めの表情だけだった。
※
供出と並行して、もう一つの問題が浮上していた。
投機に関わった商人たちへの報復。
大火前から穀物価格は異常なほど高騰していた。
民衆はそれの犯人を必要としていた。
穀物を買い占め、値を吊り上げた商人ども。
その怒りは、大火を生き延びた商人たちに向けられた。
倉庫街は全焼したが、東地区にもいくらかは商人たちの倉庫や店があった。
東地区に店舗を構える中小の穀物商が、最初の標的になった。
民兵の一団が店に押し入り、物資を“接収”した。
店主は抵抗したが、殴り倒されて終わった。
報告を受けたオスカーは顔をしかめた。
だが、止められそうになかった。
「隊長……住民からの供出だけじゃ足りません。商人の倉庫にはまだ物がある。あれを接収すればしばらくは保ちます」
民兵の一人がそう進言する。
その言葉にオスカーは長い沈黙の後に言葉を絞りだした。
「……商人の在庫を接収する。ただし暴力は最小限に抑えて物だけを持ち出せ。それを破った者は俺が処罰する」
建前としては規律を保った命令であるが、ただの略奪の追認だった。
無秩序に略奪を重ねるよりは指向性を持たせて略奪の対象を選定する。
おおよそまともな指揮官の言葉ではなかったが、救国軍の最低限の秩序を維持するためには仕方がなかった。
そう、仕方がないのだ。と、オスカーは自分に言い聞かせた。
※
聖堂の前の広場は、かつてマティアスが修道士たちと共に炊き出しを行っていた場所だった。
今そこでは炊き出しの鍋の代わりに整列された群衆の姿と、それに対して演説を行うニコラスの姿があった。
「みんな聞いてくれ! 商人どもの倉庫から麦と芋と干し肉を取り戻した! でも悪い! 今後のためにも数日に分けて配給することになった! 腹いっぱいに食える日が来るまで、もう少しの我慢だ!」
歓声が上がった。
ニコラスは広場の中央に立ち、両手を広げて群衆に語りかけている。
その姿は、かつてマティアスが粥をよそっていた時と同じ場所にいながら、全く異なる光景を作り出していた。
「これは盗みじゃない、取り返したんだ! あいつらが俺たちの麦で遊んでたんだろう? 麦の値段を吊り上げて、それに群がって金勘定に明け暮れて、結果どうなった? 街が燃えた! 畑が灰になった! 俺たちの家が、俺たちの仕事が、全部消えた! それなのにあいつらは東地区の立派な店でメシを隠し持っていた! 俺たちがひもじい思いで粥を啜ってる間にだ!」
群衆が唸るように同意の声を上げる。ニコラスはそれに応えて続ける。
「あいつらの倉庫にあった穀物は、元をたどれば俺たちが汗を流して育てた麦だ。俺たちが運び、俺たちが積み上げ、俺たちの手を通った物だ。それを勝手に使って値を吊り上げて儲けた。あいつらの富は俺たちの汗の搾りかすだ。それを取り返しただけだ。これのどこが盗みだ?」
聖堂の入口に立つマティアスの顔は蒼白だった。
ニコラスの言葉は嘘ではない。商人たちが投機で利益を得ていたのは事実だ。
しかしまるで大火の原因が商人にあるかのような口振りだった
マティアスは広場に歩み出て、ニコラスに声をかけようとした。
「ニコラス、少し話を——」
「おお、司教様! 来てくれたんですか! ほら見ろ、司教様もこの場に来てくださったんだ。女神の教えは明らかだ、飢えた者を見殺しにした者こそが罪人だ! 司教様もそう思われるでしょう!?」
群衆の視線がマティアスに集まった。
期待と熱気を帯びた数百の目が、彼を見ている。
マティアスは口を開いた。だが――声が出なかった。
たびたびニコラスは過激な主張を繰り返すことがあった。
見かねて諌めようとしたこともあるが、ニコラスはそれを自分の言葉に擦り替えてしまう。
否定すれば民衆の怒りが教会に向く。肯定すれば略奪を祝福したことになる。
どちらに転んでも、自分の言葉は暴力の燃料にされる。
「……ええ、飢えた者を救うのは、女神の教えです」
引きつった顔でそれだけを言うのが精一杯だった。
ニコラスは満面の笑みで頷き、マティアスの肩に手を置いた。
「聞いたか皆! 司教様のお言葉だ! 俺たちは正しいことをしている!」
歓声が広場を揺らす。
マティアスは逃げるように聖堂の中に戻るしかなかった。
※
十一の月に入った。
バルモア救国軍は近隣の小領主たちの領地に『食糧徴発隊』を送り始めた。
名目は依然と同様に同胞のために供出してほしいというものだが、実態は武力で脅しての略奪だった。
武装した数百人の民兵が隊列を組んで街道を進み、村や町に入る。
折からの穀物価格の高騰で疲弊している小領は、為す術もなく食糧を奪われた。
抵抗した村では火が放たれた。
それが公然と行われていることにマティアスも見るに見かねて、会議中のニコラスの元を訪れた。
「これは略奪と言わずして何と言うのですか! 飢えた民を救うために他領の民を飢えさせるとは言語道断! 彼らも同じ、飢えに苦しむ同胞ではないですか!」
六十数年の人生でここまで声を荒げたことはあっただろうか。マティアス自身でもわからなかった。
彼の怒りにニコラスは全く動じず、むしろ穏やかに微笑を浮かべ言った。
「司教様のおっしゃる通りです。彼らも同胞です。だからこそこの救国軍に加わってもらいたい。貴族に搾取される暮らしから解放されるべきなんです。俺たちは奪っているんじゃない。解放しているんです」
「解放!? 村を焼いておいて解放とは――!」
「焼いたのは抵抗した領主の館と貴族に媚びへつらう者だけですよ。同胞の家は焼いていない。俺たちは同胞と敵を区別しています。司教様こそ、敵と同胞を一緒くたにするのはおやめください」
――何を言っているんだこの青年は。マティアスは言葉を失った。
マティアスの、青年を咎める声が、青年によって都合よく捻じ曲げられる。
反論すればするほどニコラスは巧みに論点をずらし、マティアスの言葉の一部だけを切り取って自分の主張の補強に使う。
嘘は言っていない。都合よく『事実』を選び取って暴力を正義の衣で包んでいく。
オスカーは黙って聞くしかなかった。
すでにオスカーは門を開けた『英雄』ではなく、救国軍の『行政官』だった。
民兵の統制、食糧の分配、東地区の住民との折衝、近隣領への『徴発』の管理。
仕える者が、公爵から顔のない群衆に変わっただけだった。
※
十一の月、八日の朝。
早朝、礼拝の準備をしていた若い修道士が司教室の扉を叩いた。
応答はなかった。鍵もかかっていなかった。
恐る恐る開けると、冷たい朝の光の中で、マティアス・プレストン司教が梁からぶら下がっていた。
机の上に、短い書き置きが残されていた。
『女神よお許しください。私は彼らを正しい道に導けませんでした』
報せを受けたニコラスは走って聖堂に駆けつけた。
司教室に入り、降ろされた遺体の前に膝をついた。
肩が震えていた。
「嘘だろ、司教様……嘘だろ……」
涙がぽろぽろと落ち、咽び泣く声が漏れる。
ニコラスにとって、マティアスは恩人だった。
家も財産も焼けた自分に、最初に粥を差し出してくれた人。
家も財産も焼けた自分の名前を、最初に呼んでくれた人。
それはあの焼け跡の中で、人間として扱ってくれた最初の人だった。
ニコラスはしばらく動かなかった。
泣いていた。声を殺して、子供のように泣いていた。
やがて、涙が止まった。
ニコラスは立ち上がり、目を拭い、そして聖堂の扉を開けた。
広場に、マティアスの死を聞きつけた民衆が集まり始めていた。
不安と動揺に満ちた無数の瞳が、ニコラスを見つめていた。
ニコラスは広場の中央に進み出て、静かに語りかけた。
「……司教様は、死んだ」
静かな声で言った。広場が静まり返る。
「司教様は、俺たちのために祈り続けてくださった。大火の後、自分の食い物を削ってまで俺たちに粥をくれた。公爵に何度も何度も支援を求めた。誰よりも俺たちのそばにいてくれた」
声が震えていた。まだ涙は乾いていない。
顔の奥がつんと痛む。言葉が喉に詰まって出にくかった。
「なのに——あの優しい人は、追い詰められて死んだ。誰に? 俺たちを飢えさせた奴らにだ! 穀物で博打をやった商人どもに! 城門を閉ざした公爵に! 飢えた俺たちをほったらかした全てに! やつらが司教様を殺したんだ!」
ニコラスの声が、悲痛から激情へと変わっていく。
広場にいる誰もが身を乗り出すように聞き入った。
すすり泣く声が消え、熱狂の光が目に灯り始める。
「公爵を打ち倒した! 商人を裁いた! だがまだ足りない! この国にはまだ俺たちを飢えさせる元凶が残っている!」
群衆がざわめいた。
その中から声が上がった。
「大火前に麦の値がべらぼうに上がってたのは、東の田舎のアッシュフィールド伯爵が買い占めを始めたからだって話だ! 年明けから各地で穀物を買い漁ってたって、商人筋じゃ有名だったらしいぞ!」
「マジかよ!? じゃあ最初の元凶はそいつじゃねえか!」
「伯爵だか何だか知らねえが、貴族どもは結局自分のことしか考えてねえんだ!」
貴族への怒りが広場に満ちていく。
ニコラスはそれを噛み締めるように受け止めて、叫んだ。
「アッシュフィールドだか誰だか俺は知らねえ。だがこれだけは確かだ——俺たちを飢えさせた全ての奴らを、許さない!!」
ニコラスは広場の中央で拳を突き上げた。
群衆も一緒に拳を突き上げて、雄叫びを上げた。
「王都に行くぞ!!! 王様に聞きに行こうじゃねえか! なぜ俺たちを飢えさせた! なぜ司教様を見殺しにした! なぜ俺たちの声を聞かなかった! その答えを! 王の口から直接聞いてやる!!!」
広場が爆発した。
数千の声が一つの雄叫びに融合する。
「王都に行くぞ!!!」「王に答えさせろ!!!」「王を裁け!!!」「王を殺せ!!!」
声が声を呼び、怒りが怒りを増幅させる。
もはや誰にも止められない奔流となって、ゴルトフェルトの空を震わせていた。




