幕間 同志総書記長閣下の溜息
ヴァリャーグ連邦共和国の首都、ズヴェズドグラードはすでに冬の気配が色濃く漂っていた。
十の月の半ばだというのに、灰色の空からは細かな雪が舞い始めている。
この地に住まう者なら見慣れた灰の空、青い空は短い夏の間だけのものでほとんどの期間をこの鈍色に覆われる。
石造りの政庁舎の窓には薄い霜が張り、暖炉の炎だけが執務室に温もりを与えていた。
共和国革命党総書記長ヴェーラ・アレクセーエヴナ・アルマゾヴァは、執務机の上に広げた報告書を読み終え、静かに紙面を机に戻した。
深い海のような瑠璃色の瞳が、揺らめく暖炉の火を映す。
報告書は教会から党中央委員会に届けられ、彼女の元へと上げられたものだった。
ヴァリャーグ連邦共和国は公式には宗教を国家に従属させる立場を取っている。
だが教会の活動そのものを禁じたわけではない。政府の監視を受け入れることを条件に、エンテレケイア聖導教会は共和国内でも活動を許可されている。
表向きは信徒へのミサや施療などと一般的な活動と変わりはないが、実態としてはヴァリャーグ政府にとっても外国の情報を教会網経由で収集する窓口として機能していた。
――言わば、持ちつ持たれつの関係だ。
教会を弾圧し聖銃騎士の介入を招きたくない共和国と、弾圧を受けたという大義名分で国家相手に聖銃騎士を動かしたくない教会。そして教会は布教の足場を得、共和国は西側の情報を得る。
双方がそれを承知の上で利用し合っている。
今回の報告もその経路で届いたものだった。
エーデルガルド王国西部、バルモア領都ゴルトフェルトにおける大規模火災。
穀倉地帯の壊滅。飢餓の発生。
そして――民衆蜂起による、バルモア公爵家の滅亡。
ヴェーラは報告書を指で軽く叩いた。
よくある話だ、と言えばそれまで。
飢えた民が統治者を殺す。歴史の教科書を紐解けば、どの時代のどの国にも同じ話が転がっている。
十数年前、この国でも同じことが起きた。自分がその当事者だったことをヴェーラは冷静に思い返す。
――が、『よくある話』が自国の隣で起きたのであれば、それは『よくある話』だけで済まされないのが政治だった。
コンコンと、ドアがノックされる。秘書官の静かな声。
「総書記長閣下、ボリソフ局長がお目通りを求めております」
秘書官の声に、ヴェーラは「通せ」と短く答えた。
入って来たのは四十代の瘦躯の男、熊耳のヴェーラと違い狼の耳を持つ男だった。
アレクセイ・ボリソフ。党中央委員会対外政策局の局長。
出自は革命前にはすでに没落した、領地を持たない貧乏貴族だったとヴェーラは記憶している。
党是として全ての人民は平等である。それがかつて支配者階級だった狼であっても同じだ。
すでに没落した家の出とはいえ、狼の血統のボリソフは党内では肩身の狭い思いをしていただろう。
ゆえに彼は誰よりも党への忠誠と、党是への信奉を示していた。
――とは言うものの、彼の出世は実務経験よりも、党への忠誠が買われた結果と狼でも冷遇しないという政治的思惑が絡んだものであったが。
きっちりと撫でつけた髪と、折り目正しい軍服風の党服。靴は黒光りするほど磨き上げられている。
いかにも上司の前で良い印象を与えたいと考えている人間の身なりだった。
「失礼いたします、同志総書記長閣下。エーデルガルドの情勢について対外政策局として見解をまとめましたので、ご報告に参りました」
ボリソフは革表紙の報告書を恭しく差し出した。
ヴェーラは受け取ったが開かず、机の脇に置いた。
「要点を口頭で述べよ」
「はっ」
ボリソフは一瞬怯んだが、すぐに気を取り直して胸を張った。
この男がわざわざ総書記長に直接報告を上げてきた理由を、ヴェーラは概ね察していた。
功を上げたいのだ。大胆な提案で総書記長の目に留まり、出世の足がかりにしたいのだろう。
そういう人間を何百人と見てきた。
「はい。バルモアにおける民衆蜂起はエーデルガルド王制の限界を如実に示すものであり、我が共和国の革命理念が正しかったことを改めて証明するものであると考えます」
出だしから教条的で、党に忠誠を誓う官僚らしい中身のない言葉だった。
しかしヴェーラは相槌を打ち、先を促す。
「蜂起した民衆は『バルモア救国軍』を名乗り、武装勢力として組織化されつつあります。彼らは富と土地を独占する者どもの圧政に立ち上がった人民であり、我が革命の同志と言えます。対外政策局としては、この救国軍に対し物資および資金の支援を行い、エーデルガルド西部に人民の手による新政権を樹立させることを提案いたします」
ヴェーラは頷き「素晴らしい提案だ」と言った。
ボリソフは子供のように目をきらきらと輝かせ、総書記長の次の言葉を待つ。
「我らが革命の崇高さを隣国の人民に伝え、有産階級どもの軛から解放する。実に革命的模範行為で共和国の理念に適う行動だ」
「はっ、ありがとうございます、同志総書記長閣下! では早速、支援物資の調達と輸送経路の策定に――」
「それで――その先は?」
ヴェーラの声の温度が、一段と下がった。
灰銀色の髪の女は瑠璃色の瞳を細め、ボリソフを冷たく睨み据える。
暖炉の炎が揺れた。ボリソフの口が半開きのまま止まった。
「その、先……でございますか」
「救国軍とやらに物資を送る。仮にそれで彼らが暫定政府を打ち立てたとしよう。飢えた農民と主君を売った兵隊崩れの寄り合い所帯が、領地を統治する。さて――誰が行政を動かす? 誰が税制を整える? 誰が治安を維持する? 誰が外交を行う?」
ボリソフは答えに詰まった。
バルモア領に傀儡の革命政権を樹立して、それを共和国の衛星国にする。
まさに国是の実現だ。しかし、総書記長はその先を問うている。
「そ、それは――我が共和国から革命的顧問団を派遣し、指導することで――」
「顧問か、何人だ?」
「二十名ほどもいれば十分――」
「二十名の顧問で暴徒崩れの民兵組織を国家に仕立て上げると。大した手腕だなボリソフ局長。その手腕があれば今すぐにでも総書記長の椅子を譲ろう。どうだ? 私の代わりに党を率いてくれないか?」
ボリソフの額に汗が浮き始めていた。
ヴェーラは椅子の背にもたれ、淡々と続けた。
「行政官が要る。軍事教官が要る。食糧が要る。武器が要る。輸送手段が要る。それを――エーデルガルドを横断した西の果てまで送り届ける兵站が要る。途中にはエーデルガルドの王領と諸侯領がある。彼らに気取らずに民兵崩れどもを食わせる物資を二十名の顧問で運び込むか。素晴らしい手際だなボリソフ局長」
「そ、それは――」
「人員以前に資金がいるな。莫大な資金だ。それを誰の予算でやる?」
「き、共和国予算から――」
「国庫は無限の泉ではない。革命から十数年、この国はようやく経済基盤の再建に目処がつき始めた段階にある。有産階級に搾取された人民を飢えさせずに済む辛うじての経済的安定だ。それを隣国の暴徒を養うために使うと? ああ、貴官の財布から全て出すのであれば喜んで指令書に署名するが?」
「も、申し訳ございません、閣下。しかし、革命の大義として――」
「大義の話はしていない。算数の話をしている」
ヴェーラは机の上の報告書を指で軽くトントンと叩いた。
「仮にだ。百歩譲って全ての費用を賄い、全ての人員を送り込み、救国軍とやらを傀儡に仕立てることに成功したとしよう。次の問題だ。バルモアがどこに位置しているか、地図を思い浮かべたことはあるか?」
「西部の――穀倉地帯でありますが――」
「違う。グランファーレン帝国との国境沿いだ。ヴァリャーグ帝国が滅んだとしても、我が共和国は国是を抜きにしても、あれとは覇権争いを避けられない宿命にある」
ボリソフの目が見開かれた。
そこにようやく思い至ったらしい。
「我が共和国の息がかかった勢力が、グランファーレンの鼻先に誕生する。あの帝国が、自国の国境の向こうに我らの出張所ができるのを黙って眺めていると思うか?」
「それは……」
「思わないだろう。私も思わん。グランファーレンは即座に介入する。我々が送り込んだ顧問団や物資を口実にエーデルガルドへの軍事介入を正当化するだろう。我々のバルモア支援は、グランファーレンにエーデルガルド進出の口実を献上するに等しい」
ヴェーラは立ち上がり、窓辺に歩み寄った。
灰色の空の下、ズヴェズドグラードの街並みが霧に煙っている。
政庁舎の前の広場には革命を讃える巨大な石碑が立っていた。
「我が国にとって、エーデルガルドの最適な在り方は何か。わかるか、同志ボリソフ」
背を向けたまま問いかけた。
ボリソフは答えられなかった。
「緩衝国家だ。我が国とグランファーレンの間に挟まれたどちらにも寄りすぎない中立地帯。強すぎず弱すぎず、自力で安定を保てる程度の国家だ。それが我が国の西方戦略にとって最も都合がいい。ここまではいいな?」
「は、はい」
「よろしい、ならば――その緩衝地帯を自分の手で叩き割る提案をしたのが、今の貴官だ」
ボリソフの肩が小さく震えた。
「傀儡政権が成功すれば、グランファーレンが動き緩衝地帯が戦場になる。失敗すれば反共和国感情を焚き付けて敵対的な政権が生まれる。どちらに転んでも、我が国の西の盾が消える。かの国が独立時より維持し続けていた緩衝地帯を、暴徒の粥代のために差し出すのか」
沈黙が執務室を満たした。
暖炉の薪がぱちりと爆ぜた。
ボリソフは直立不動のまま、額の汗を拭うことすらできずにいた。
「……申し訳ございませんでした、同志総書記長閣下。私の浅慮でした」
やっと絞り出したボリソフの声が、震えていた。
ヴェーラは振り返り、彼をじっと見つめる。
「貴官は没落貴族の出だったな。革命前にはすでに困窮していた一族。しかし、革命後は狼の一族というだけで肩身の狭い思いをしてきたと聞いている。だからこそ、大義を広げたい、狼の血族でも革命に貢献できると示したい。その尊い志は評価する。だが、政治とは――そして革命とは、理想と熱意だけでは進められない。それを覚えてもらいたい」
ボリソフは俯いたまま頷いた。
「エーデルガルドへの干渉は禁止だ。しかし、情報収集だけは怠るな。エーデルガルドの内乱が誰の勝利で終わるかは、まだ分からない。現王家が生き延びるかもしれない。反乱軍が勝つかもしれない。諸侯の誰かが覇権を握るかもしれない。我々がすべきことは勝ち馬を選ぶことではない。どの馬が勝っても、勝者が最初に握手を求める相手が我が共和国であるように盤面を整えておくことだ」
ヴェーラは執務机に戻り、さらさらと書類に署名した。
書類をボリソフに渡しながら、彼に言った。
「これを対外政策局の全部署に回せ。バルモアへの支援に関する一切の計画を凍結。独断での接触を禁ずる。違反者には私が直接対処する。以上だ」
「はっ……承知いたしました」
ボリソフは指示書を受け取り、深く一礼して執務室を退出した。
扉が閉まり、足音が廊下の奥に消えていく。
一人になった執務室で、ヴェーラは椅子の背に深くもたれた。
瑠璃色の瞳が天井を見上げ、長い溜息が漏れた。
(――どうやら私が最も革命を信じていないらしいな)
かつてのあの日を思い出す。
革命軍の前線指揮官として皇宮に突入した時のこと。
あの日、革命軍の煽動によって膨れ上がった民衆の怒りは留まることを知らなかった。
彼らは皇宮に津波のように押し寄せ、皇帝と皇族は引きずり出され、その場で殴り殺された。
ヴェーラが部隊を率いて突入した時には、全てが終わった後だった。
本来なら皇帝とその一族を拘束し、人民裁判にかけて絞首台に送る手はずだった。
煽動された暴徒は近衛と小競り合いを起こし、その後革命軍が颯爽と入城して皇帝を拘束するはずだった。
だが現実は滅茶苦茶に荒らされた皇宮、いたるところに転がる顔もわからないほど叩き殺された死体。
結局、着ている服から皇帝とその家族らしき死体を探し出して、絞首台に吊るして勝利宣言をしたのだった。
ゆえに――あの死体全てが本当に皇族だったのか、革命政府の誰もが本当のところは知らない。
間近で皇帝一族の死体を見たヴェーラですら確証がないのだから。
一部の者は皇女だけは生き延びたと囁いている。
――もっともそんな噂を嘯く者は反革命分子として早々に粛清されたが。
結局――この革命は初めから誰にも制御できていなかった。
誰もが勝手に理想を掲げ、それに酔って正気を失っていた。
後から無理矢理つじつまを合わせて『人民による革命の偉業』という物語に仕立て上げただけ。
革命の正統性などどこにもないのだ。
総書記長の椅子を降りたいと思ったことは、数え切れない。
だが、降りた後の自分を次の総書記長が放置するはずがない。
椅子を降りた先にあるのは絞首台の階段だ。
――もっとも私を吊るす前に国が焼けるだろうが。
エーデルガルドの混乱は、まだ始まったばかりだ。
飢えた民の怒りはバルモアに留まらない。必ず王家に向かうだろう。
無能な王、既得権益に塗れた貴族、飢えた人民。
典型的な内乱の条件が揃っている。
だが、それはヴァリャーグが手を出す理由にはならない。
内乱は所詮、他所の家の火事だ。
火を消す義理はない。火を点ける利益もない。
ただ、火事場から何が焼け残るかだけを注意深く見ておけばいい。
ゆらゆらと暖炉の火が揺れ、ヴェーラの影も揺れる。
ズヴェズドグラードに、長い冬が来ようとしていた。




