第4話 砂漠の庭に必要だったもの
第4話 砂漠の庭に必要だったもの
ナジュム王国へ到着して三日目の朝、クラリスは宮殿の裏庭へ向かった。薄い砂色の長衣に生成り色の外套を重ね、髪は首筋へ風が通るよう高い位置で束ねている。朝食に出された焼きたての平パンを一枚食べきれず、残りを布へ包んで持ってきたため、腰の鞄から香ばしい胡麻の匂いが漂っていた。
夏の太陽はまだ昇ったばかりなのに、白い石畳からは熱が上がっていた。正面の中庭には白い砂漠百合と黄色い砂漠菊が咲いているが、宮殿の裏側へ回ると景色は一変する。かつては外国の薔薇や果樹が植えられていたという庭園には、枯れた枝とひび割れた土が広がっていた。
庭園の中央には大理石の噴水があった。水は止められ、水盤の底には風で運ばれた砂と乾いた棗椰子の葉が積もっている。その縁では、昨日見かけた灰色の猫が前足を伸ばし、水の代わりに石の隙間へ入り込んだ蜥蜴を狙っていた。
「ここへ毎日、水を運んでいるのですか」
クラリスが尋ねると、庭師長のハキームは額の汗を布で拭った。五十代半ばの小柄な男で、白い作業着の膝には緑色の染みがついている。彼の後ろには、年齢の異なる六人の庭師が水桶と道具を持って並んでいた。
「日の出前に四十桶、日が沈んでから四十桶です。それでも、外国から取り寄せた薔薇は半年ともちません」
「水を与えているところを見せてください」
ハキームが合図すると、若い庭師二人が大きな桶を運んできた。彼らは枯れかけた薔薇の根元へ水を勢いよく流す。水は硬い土へ吸い込まれず、泥を作りながら傾斜の下へ流れ、石畳の隙間へ消えていった。
クラリスは手袋をはめ、薔薇の根元へしゃがみ込んだ。表面は濡れているのに、指二本分ほど掘れば土は白く乾いている。土の匂いより先に、金属を舐めたときのような刺激が鼻へ届いた。
「この土には塩が多いようです。井戸水を少しいただけますか」
「水を飲まれるのですか?」
「飲みません。舐める方法もありますが、おなかを壊すと殿下に叱られそうですから」
若い庭師が笑い、木の椀へ井戸水を汲んだ。クラリスは細い紙を水へ浸し、変わった色を研究帳の表と比べる。ハキームは彼女の手元をのぞき込みながら、腰から小さな干し棗を取り出して噛んだ。
「井戸水にも塩分が含まれています。水そのものは、以前から同じ井戸を?」
「十年前までは北の井戸を使っていました。水位が下がったので、今は宮殿の南にある深井戸から運んでおります」
「薔薇が枯れ始めたのはいつですか」
「南の井戸へ替えてからです。ですが、外国の園芸師は、水が足りないから枯れるのだと言いました」
「それで、以前より多く与えるようになったのですね」
ハキームは帽子を取り、内側に挟んでいた布を直した。水を増やすたび、土の表面には白い粉が浮き、薔薇はさらに弱ったという。外国の園芸師は暑さを理由に帰国し、その後始末だけが庭師たちへ残された。
クラリスは枯れた枝を一本折った。乾いた音がし、枝の中には緑色がほとんど残っていない。祖母の庭でも、珍しい花を買っては土地に合わず枯らした時期があったことを思い出した。
「お祖母様は、花の札を捨てられない人でした。枯れた鉢にまで札だけ残して、来年こそ咲くと言っていたのです」
「咲きましたか?」
「いいえ。三年目に、土地に合わない花を苦しませるのはやめると言って、鉢を葱畑に変えました」
「葱は育ちましたか?」
「食べきれないほど育ちました。近所へ配っても残り、毎朝、葱入りの卵焼きを食べました」
庭師たちの間に笑いが起きた。クラリスは笑われたのではなく、祖母の葱の話を一緒に面白がってもらえたことに気づき、手袋についた土をゆっくり払った。ハキームも干し棗の種を紙へ包み、作業着のポケットへしまった。
クラリスは薔薇だけでなく、庭園全体を調べた。朝と昼で日陰の位置を記録し、風向きを見るため、細く裂いた布を枝へ結んだ。水がどこへ流れるのかを確かめるため、庭師と一緒に石畳を歩き、排水口の位置まで研究帳へ描き込んだ。
昼前には、薄青色だった長衣の裾が泥で茶色くなっていた。首筋へ貼りついた髪を結び直していると、宮殿の侍従が日陰へ昼食を運んできた。籠の中には、羊肉と香草を挟んだ平パン、塩漬け檸檬、冷やした西瓜が入っている。
クラリスは自分の分を受け取ったあと、庭師たちが作業を続けようとしていることに気づいた。彼らの昼食は少し離れた作業小屋に置かれているが、クラリスが調査をやめないため、誰も先に休もうとしない。実家で使用人が食事を待っていたことを思い出し、彼女は研究帳を閉じた。
「先に食べましょう。午後の話は、そのあとにしてください」
「妃殿下より先に休むわけにはまいりません」
「私は妃ではなく、客人です。それに、空腹のままでは何を聞いても忘れます。今日はどなたが一番早く食べ終わるか、競争にしましょう」
「私は歯が三本足りませんので、最初から不利です」
ハキームが真顔で言い、また庭師たちが笑った。全員で棗椰子の木陰へ移動し、石の縁へ腰を下ろす。クラリスは朝から持っていた胡麻パンも籠へ加え、若い庭師が持参した辛い豆の漬物を一つもらった。
午後、クラリスは宮殿の台所、浴場、洗濯場を案内してもらった。台所では野菜を洗った水が大きな排水溝へ流され、浴場では香油と石鹸を含む水がそのまま地下へ捨てられている。洗濯場の石床には白い布が何十枚も干され、湯気と石鹸の匂いがこもっていた。
洗濯係の女性たちは、クラリスが来ると慌てて濡れた手を前掛けで拭った。桶の横には昼食の残りらしい豆の煮込みが置かれ、表面には薄い膜が張っている。年長の女性は話してよいのか迷いながら、排水溝を指した。
「この水は、一日にどのくらい捨てられますか」
「数えたことはございません。大桶なら、二百杯では足りないと思います」
「洗剤は毎回同じものですか」
「王族用の衣服には香油入りの石鹸を使います。使用人の衣服は灰汁と無香料の石鹸です」
「分けて流すことはできますか」
「水路を二つにすれば可能です。ただ、なぜ分けるのでしょう」
クラリスは答える前に排水溝へしゃがみ込んだ。灰汁の濃度や油分を調べず、すぐに農業へ利用することはできない。それでも、宮殿で捨てられる水の量は、枯れた庭へ運ばれる井戸水より多い可能性があった。
「この水を、もう一度使えるかもしれません。もちろん、そのまま畑へ流すことはできません。砂、炭、砂利、植物の根を通し、安全を確かめる必要があります」
「洗濯した水で、花が咲くのですか?」
「咲かないかもしれません。だから、最初は小さな区画で試します」
洗濯係の女性は桶から白い布を持ち上げ、二人で絞った。水滴が石床へ落ち、クラリスの靴先にも飛んでくる。彼女は避けずに研究帳へ「一日分の排水量を計測」と書き加えた。
翌日から、クラリスは宮殿内の水を調べ始めた。飲料水、調理用水、浴場の排水、洗濯場の排水を瓶へ分け、日付と場所を記した札を結ぶ。居室の窓辺には水の瓶が並び、祖母の絵は置き場所を失って寝台脇へ移されていた。
サミーラが訪ねてきたとき、卓上には水質記録、昼食の食べ残し、半分ほど皮をむいた林檎が同居していた。クラリスは林檎を食べるのを忘れたまま、水へ浸した試験紙を見比べている。サミーラは書類鞄を置き、林檎の切り口が茶色くなっているのを見て腕を組んだ。
「クラリス様。殿下から、昼食を取ったか確かめるよう命じられております」
「取りました。林檎もあります」
「それは食事ではなく、放置された果物です」
「平パンを半分食べました」
「それでは、ベルフォード家にいた頃と変わりません」
サミーラは侍女へ新しい食事を頼み、クラリスの手から試験紙を抜き取った。しばらくして、香草を入れた鶏肉のスープと焼き野菜が運ばれてくる。クラリスはもう少しだけ記録をつけたいと頼んだが、サミーラは研究帳の上へ皿を置いた。
「食事は報酬ではありません。三日前にも申し上げました」
「それは殿下がおっしゃった言葉です」
「外務院では、重要事項を繰り返し伝えるのも仕事です」
クラリスは匙を取り、温かいスープを食べた。サミーラは満足そうに頷き、自分も焼き野菜を一切れつまむ。二人は洗濯場の排水と浴場の排水を別々に処理する案を話し合い、食後には空になった皿の隣へ計画の骨組みができていた。
一週間後、クラリスはザイードの執務室へ計画書を提出した。執務室には水資源に関する地図と建築図面が広げられ、窓辺には赤い砂漠薔薇が一鉢置かれている。ザイードは上着を椅子の背へ掛け、袖をまくったまま、冷めた茶を飲んでいた。
「宮殿の庭へ、これ以上外国の薔薇を植えるべきではありません」
クラリスが最初に告げると、ザイードは計画書から顔を上げた。入口のそばに立つ園芸担当官は、あまりに率直な言葉へ目を丸くする。クラリスは言い過ぎたかと思ったが、研究帳を開いて説明を続けた。
「薔薇が悪いのではありません。この土地と水が、あの品種に合っていないのです。井戸水を大量に与えるほど、土壌へ塩分が蓄積します」
「水を増やしたことが、枯れる原因になっていたのか」
「原因の一つです。水を減らすだけでも足りません。まず、宮殿から出る生活排水を段階的に浄化し、点滴用の管で根元へ少量ずつ与えます」
クラリスは砂、砂利、炭を重ねた浄化槽の図を広げた。油や強い洗剤を含む水は別に処理し、野菜を洗った水や、無香料の石鹸を使った洗濯水から試験を始める。庭には耐乾性の棗椰子やアカシアを植えて日陰を作り、その下で薬草と麦を育てる計画だった。
「失敗した場合の損失は?」
「試験区画一つ分の工事費と苗木代です。全体へ導入する前に、水質と収穫物の安全を確認します。失敗した理由も記録し、次の試験に使います」
「成功すると約束しないのだな」
「約束できるのは、都合の悪い結果も隠さないことだけです」
ザイードは計画書を最初から読み直した。予算、人員、試験期間、衛生検査の回数まで確認し、いくつか質問を書き込む。最後の頁まで進んだところで、彼の手が止まった。
「報酬欄が空白だ」
「宮殿へ置いていただき、衣食も用意していただいております。これ以上のものを受け取る必要はございません」
ザイードは計画書を閉じ、クラリスへ返した。拒否されたのだと思い、彼女の指が表紙の端を強く握る。紙が曲がりかけたところで、ザイードが低い声で言った。
「あなたの仕事には価値がある。報酬欄を空白にした契約へ、私は署名しない」
「ですが、成功するかどうかも分かりません」
「調査と計画に費やした時間は、成功したときだけ存在するものではない」
「私が金額を決めるのですか」
「そうだ。必要なら、同じ職務に就く技術者の報酬資料を渡そう」
クラリスは差し戻された計画書を抱え、居室へ戻った。報酬欄へ数字を書こうとしたが、自分の仕事へ値段をつけるたびに、ペン先が紙の上で止まる。ベルフォード家では、家族の仕事に金を求めるのは卑しいと教えられていた。
その夜、夕食には白身魚の香草焼きと、薄く切った橙を入れたサラダが出た。クラリスは魚を食べながら、自分が実家で処理していた仕事を一つずつ紙へ書く。外国との契約、帳簿管理、水路の修繕計画、使用人への給金計算まで並べると、紙は二枚になった。
翌朝、サミーラが持ってきた技術者の報酬資料と比べ、クラリスは一か月分の金額を決めた。実家で与えられていた小遣いの二十倍だが、同じ仕事をする専門職の報酬よりは少し低い。クラリスは震える手で数字を書き、もう一度ザイードの執務室へ提出した。
ザイードは金額を見ても、眉一つ動かさなかった。値切ることも、高すぎると笑うこともなく、すぐに署名して公印を押す。さらに、試験が成功した場合の追加報酬を自分の手で書き加えた。
「これは多すぎます」
「成果に応じた契約だ。あなたが昨日説明した方式を採用した」
「減らしていただけませんか」
「交渉理由は?」
「受け取るのが怖いからです」
「それは減額の理由にならない」
ザイードは真面目な顔で答え、計画書をクラリスへ返した。執務机の端には朝食で残したらしい干し無花果が一つあり、彼はそれをつまんで口へ入れる。クラリスは契約書に記された数字をもう一度見てから、自分の署名を加えた。
工事は宮殿の裏庭に、小さな浄化槽を作るところから始まった。石工、配管工、庭師、洗濯係、厨房係が集まり、それぞれの仕事でどの水を使い、何を混ぜるのかを話し合う。クラリスは最初から答えを決めず、現場の者が困っていることを一つずつ研究帳へ記した。
若い配管工は、点滴用の管へ砂が詰まる問題を指摘した。洗濯係の女性は、無香料の石鹸だけを使う曜日を決めれば、水を分けやすいと提案する。庭師長のハキームは、輸入したアカシアではなく、北部に自生する低木を使うべきだと言った。
「私の計画より、皆さんの方が、この宮殿の水をよく知っています」
クラリスが言うと、配管工は照れたように鼻の横をこすった。彼の昼食の包みからは、焼いた魚と辛い香辛料の匂いがしている。ハキームは工具箱の上へ置いた平パンを猫に狙われ、話の途中で慌てて取り戻した。
一か月後、最初の失敗が起きた。浄化槽を通した水を与えた試験区画で、薬草の葉が黄色くなったのだ。管理担当官は報告書からその区画を外せばよいと提案したが、クラリスは拒んだ。
「成功した区画だけを見せれば、次の畑でも同じ失敗をします。黄色くなった日、水量、洗濯場で使った石鹸をすべて記録してください」
「妃殿下の計画が失敗したと広まります」
「失敗したのは計画の一部です。隠した瞬間に、計画全体が信用を失います」
調査の結果、香油入りの洗濯水が誤って混ざっていたことが分かった。水路に色の違う札をつけ、担当者が一目で区別できるよう改善する。黄色くなった薬草も捨てず、回復するかどうか観察を続けた。
ザイードは毎週、試験区画を訪れた。豪華な礼装ではなく、砂色の作業着と革の長靴を身につけ、報告書と実際の土を見比べる。初めて泥を踏んだ日は靴底を滑らせ、危うく浄化槽へ片足を入れかけた。
「殿下、動かないでください。そちらはまだ固まっていません」
「先に言ってほしかった」
「赤い札を立ててあります」
「報告書を読んでいて見落とした」
「食事中だけでなく、歩いているときも書類を読むのをおやめください」
クラリスはザイードの袖をつかみ、乾いた場所へ引き戻した。手袋には泥がつき、その跡が白い作業着へ移る。クラリスが謝ろうとすると、ザイードは袖の汚れを見て小さく笑った。
「あなたも、食べながら研究帳を読むのをやめるなら考えよう」
「サミーラ様からお聞きになったのですね」
「毎日、報告を受けている」
二か月目には、アカシアの苗が新しい葉を出した。点滴管から落ちる水は土の表面を流れず、根の周りだけをゆっくり湿らせている。木陰になる予定の場所には耐塩性の麦と、香りの強い薬草の種がまかれた。
宮殿での試験結果を受け、都の外にある放棄農地の一部も試験農場として使われることになった。農地を離れていた住民たちは、最初こそ宮殿の思いつきだと疑った。しかし、クラリスが成功を約束せず、失敗した記録まで見せると、三組の家族が協力を申し出た。
三か月後の早朝、試験農場に薄い緑色が広がった。麦はまだ指ほどの高さだったが、乾いて白くなっていた土から、何列もの芽がまっすぐ伸びている。隣の区画では薬草が小さな葉を広げ、指で触れると爽やかな香りが残った。
クラリスは生成り色の作業着を着て、泥のついた手袋で葉の枚数を数えた。朝食に持ってきた豆入りの平パンは石垣の上に置いたまま冷め、灰色の猫がいつの間にか宮殿からついてきて、その隣で丸くなっている。農家の子どもが猫へ麦の穂を差し出し、母親にまだ実っていないと注意されていた。
「本当に、ここで麦が育つのですね」
協力した農家の女性が、芽を踏まないよう畝の間へしゃがんだ。彼女の手は乾燥してひび割れ、作業着の裾には何度も繕った跡がある。クラリスは麦の葉を一枚だけ指で支え、根元の土を見せた。
「まだ収穫できると決まったわけではありません。これから暑さが厳しくなりますし、水の安全検査も続けます」
「それでも、去年は芽すら出ませんでした」
女性は笑い、目元を手の甲でこすった。その隣で夫が点滴管の詰まりを確認し、子どもたちは麦の列の長さを競って数えている。朝日に温められた薬草から、青く苦い匂いが立ち上った。
試験農場を見学するため、都から大勢の人が訪れた。人々はクラリスを奇跡の妃と呼ぼうとしたが、彼女は浄化設備を作った職人、管を改良した配管工、水を分けた洗濯係、毎日土を確認した農家の名前を記録板へ掲げさせた。失敗した区画と、その理由も隠さず公開した。
「奇跡ではありません。水を量り、土を調べ、失敗したら原因を探した結果です」
クラリスが説明すると、見学者の一人が首を傾げた。もっと華やかな話を期待していたらしく、泥のついた管を見ても納得できない様子だった。クラリスは点滴管を外し、一滴ずつ水が落ちるところを見せた。
「一滴では少なく見えます。でも、根へ確実に届けば、桶一杯の水を地面へ流すより役に立ちます」
少し離れた場所で、ザイードはその様子を見ていた。クラリスは宝石を一つも身につけず、髪を布で覆い、頬には土の筋までつけている。けれども、人々は彼女の衣服ではなく、その言葉を聞くために集まっていた。
昼になると、農家の家族が豆と羊肉の煮込みを大鍋で作った。全員が木陰へ集まり、平パンをちぎって煮込みへ浸す。クラリスは自分の皿を受け取ると、隣に座った子どもから、形の悪い小さな胡瓜を半分もらった。
ザイードが隣へ座り、冷めた豆入りの平パンを持ち上げた。灰色の猫に端をかじられており、クラリスは慌てて取り上げようとする。しかし、彼は猫が触れていない側をちぎり、そのまま口へ入れた。
「王子殿下が、そのようなものを召し上がってよいのですか」
「食事は報酬ではない。猫と分けても、平パンは平パンだ」
「猫へ食べ物を取られないようにすることとは、別の問題です」
クラリスが猫を抱き上げると、前足についた泥が彼女の胸元へついた。ザイードは布を差し出しながら、肩を揺らして笑っている。クラリスは汚れを拭きながら、彼が声を立てて笑うところを初めて見た。
麦はまだ実っておらず、事業が成功したと判断するには早かった。それでも、乾いた畑には三か月前にはなかった緑があり、来年も試してみたいと話す人々がいる。クラリスは自分の仕事へ自分で金額を書き、その報酬で最初に何を買うか考えた。
新しい宝石でも、豪華なドレスでもなかった。水に強い研究帳と、自分の足に合う作業靴が欲しかった。誰かのためではなく自分の仕事を続けるために金を使うことを考えると、昼の熱気の中でも指先が軽くなった。
ザイードは隣で、泥のついたクラリスの手袋を見ていた。その手は誰かに命じられて動くのではなく、自分で選んだ仕事をしている。彼は何も告げず、薬草の香りが移った水をクラリスの杯へ注いだ。
クラリスは礼を言い、冷たい水を飲んだ。遠くでは点滴管から水が一滴ずつ落ち、麦の根元へ小さな濃い染みを作っている。それは奇跡ではなく、この土地で暮らす人々が、使える水と知恵を少しずつ集めて作った最初の成果だった。




