第3話 長女がいなくなっただけなのに
第3話 長女がいなくなっただけなのに
クラリスがベルフォード家を去った翌朝、食堂の卓には硬くなったパンと、昨夜の舞踏会で残った冷たい肉料理が並べられた。窓の外では、雨を吸った青紫の紫陽花が頭を垂れ、庭師が泥のついた靴で折れた枝を拾っている。大広間から片づけられた白薔薇は廊下の花瓶へ移されていたが、香水と酒を吸った花弁はすでに茶色く変色していた。
ロザリーは桃色の室内着に白い毛皮の室内履きを合わせ、眠そうに食堂へ入ってきた。昨夜は夜更けまで踊ったらしく、結い上げていた髪には銀色の飾り紐が一本残っている。彼女は椅子へ腰を下ろすと、パンを一口かじり、すぐに皿へ戻した。
「何よ、これ。石みたいに硬いじゃない」
「焼きたてを持ってこさせなさい」
母も薄紫のガウンの襟を合わせながら、後ろに立つ給仕へ命じた。顔には昨夜の化粧が少し残り、薔薇色の紅が唇の片側だけ濃くなっている。給仕は申し訳なさそうに頭を下げた。
「パン屋から、今朝の納品がございませんでした」
「なぜ来ないの?」
「先月分の代金が支払われていないため、入金が確認できるまで納品できないとのことです」
母は不快そうに眉を寄せ、冷えた鴨肉を銀の匙でつついた。蜂蜜の脂は白く固まり、昨夜は艶やかだった皮も縮んでいる。ロザリーは肉から顔を背け、木苺を飾った菓子を探した。
「菓子はないの? 昨日、たくさん残っていたでしょう」
「今朝、奥様がすべて処分するようにと」
「だって、一度客前へ出したものを使用人が食べるなんて見苦しいでしょう。新しいものを作らせればよいではありませんか」
「砂糖と卵の在庫がございません。乳製品店からの配達も止まっております」
給仕が答えると、母は彼をにらんだ。これまでは食材が少なくなる前にクラリスが在庫を確認し、取引店へ注文書を送っていた。支払日には請求書と納品書を照合し、代金を専用の口座から振り込んでいたが、母はその作業を見たことがなかった。
伯爵は新聞を広げ、食事の話には関心がないふりをしていた。ところが、給仕が未払いという言葉を繰り返すと、紙面を乱暴に折り畳む。卓に置かれた珈琲は昨夜の豆を薄く煮出したもので、彼は一口飲んだだけで顔をしかめた。
「クラリスは何をしていたのだ。支払いも済ませずに出ていくとは、最後まで役に立たない娘だ」
「ですが、あなたが昨日のうちに追い出したのでしょう」
「お前も賛成していたではないか。あれがいなくても使用人はいる。誰かに金を払わせれば済むことだ」
伯爵が給仕を見ると、彼はもう一度頭を下げた。しかし、給仕の仕事は料理や飲み物を食卓へ運ぶことであり、屋敷全体の会計ではない。書斎へ入る鍵も、銀行へ支払いを命じる権限も与えられていなかった。
「旦那様、誰にお支払いを任せればよろしいでしょうか」
「執事にやらせろ」
「執事長は、昨夜からお姿が見えません」
「呼び戻せ。今日は使用人への給金日だったはずだ」
給仕は答えず、折り畳んだ一枚の紙を卓上へ置いた。執事長は昨夜のうちに辞職願を提出し、未払いとなっていた三か月分の給金を商業組合へ請求していた。料理長、厩番、洗濯係を含む十二名も、同じ書類へ名前を連ねている。
「十二人全員が辞めるですって?」
母は椅子から立ち上がり、ガウンの裾で珈琲杯を倒した。薄い珈琲が卓布へ広がり、ロザリーは自分の室内着が汚れる前に椅子を引く。母は給仕へ布を持ってくるよう命じたが、いつも食堂を整える女中は、すでに使用人部屋で荷物をまとめていた。
その頃、セドリックは伯爵家の書斎で、クラリスが使っていた机を占領していた。赤い礼装から明るい青の上着へ着替え、卓上には甘い酒と燻製肉を用意させている。机の引き出しをすべて開けたため、請求書、蝋封の欠片、削っていない羽根ペンが床へ散らばっていた。
ロザリーは昨夜の銀色のドレスを脱がず、その上から薄い肩掛けを羽織って書斎へ入ってきた。裾には葡萄酒の染みがつき、月桂樹の刺繍へ菓子の砂糖がこびりついている。彼女はクラリスの椅子に座るセドリックを見て機嫌を直し、机の端へ腰を載せた。
「セドリック様、朝食がひどいのよ。お姉様が支払いを忘れて出ていったせいですって」
「わざとに決まっている。私たちへの嫌がらせだ」
「まあ。最後まで陰気な人ね」
セドリックは燻製肉を指でつまみ、書類の上へ脂を落とした。彼の前には、ベルフォード家と三つの外国商会との契約書が並んでいる。どれも共通語ではなく、西方語、北方語、ナジュム語で書かれていた。
「この程度の契約、クラリスでなくても処理できる。父上は、私がベルフォード家の事業を引き継げばよいとおっしゃった」
「さすがセドリック様ですわ。それなら、お姉様がいなくても何も困りませんね」
「当然だ。女一人が帳簿をつけていたくらいで、領地経営が変わるものか」
セドリックは西方語の契約書を手に取り、眉間へしわを寄せた。最初の三行までは読めたものの、その先には港湾使用料、雨季の運送割増、品質不足の場合の違約金が細かな文字で記されている。彼は意味の分からない単語を飛ばし、最後の数字だけを確認した。
「これは麦を一袋、銀貨十二枚で買う契約だな」
「お安いの?」
「市場価格より少し高いが、大した違いではない」
書斎の扉のそばで、辞職の準備をしていた執事長が咳払いした。彼はまだ制服を着ていたが、胸元の家紋章は外し、磨いた靴の隣に旅行鞄を置いている。セドリックは燻製肉を食べながら、彼へ契約書を突き出した。
「何だ。言いたいことがあるなら申せ」
「そちらは麦の購入契約ではございません。干ばつ時に備え、ベルフォード領の麦を西方へ輸出しないという優先供給契約です」
「銀貨十二枚と書いてあるではないか」
「契約違反があった場合、一袋につき銀貨十二枚を支払うという意味でございます」
セドリックの指から契約書が滑り落ちた。書面の余白にはクラリスの字で、今年は雨量が少ないため輸出停止の可能性あり、と書かれている。さらに、六月十五日までに収穫予測を先方へ伝えるよう、赤い線が引かれていた。
「今日は何日だ?」
「六月十五日でございます」
「それなら、今日中に返事をすればよい。収穫予測を持ってこい」
「毎年、クラリス様が各村からの報告を集計しておられました。今年の分は、まだ七村中四村しか届いておりません」
セドリックは舌打ちし、次にナジュム語の書類を取った。文字の形すら分からず、上下を逆に持っていることにも気づかない。ロザリーは肩越しにのぞき込み、絵を見るように首を傾けた。
「お姉様、本当にこんな文字を読めたの?」
「単語をいくつか覚えていただけだろう。意味など、商人に説明させればよい」
「先方は三日前に説明のための面会を求めておられましたが、旦那様が舞踏会の準備中だからと断られました。昨日が回答期限でございました」
執事長はそれだけ告げると、机の上へ書斎の鍵を置いた。長年使われた真鍮の鍵は片側が黒ずみ、持ち手に細かな傷がついている。クラリスは毎晩それを受け取り、翌朝、帳簿と一緒に返していた。
「お待ちください。あなたまで辞めたら、誰がこの書類を整理するの?」
ロザリーが呼び止めたが、執事長は旅行鞄を持ち上げた。鞄の隙間から、妻が作ったらしい縞模様の靴下がのぞいている。彼はセドリックではなくロザリーへ頭を下げた。
「それを担当されていたのが、クラリス様でございます」
執事長が去ったあと、セドリックは契約書を机へ投げた。ロザリーは床へ落ちた請求書を拾おうともせず、銀色のドレスの裾を踏んで小さくよろめく。そこへ伯爵が、金庫番を連れて書斎へ入ってきた。
「金庫を開けさせろ。使用人の給金を払う」
伯爵は壁際に置かれた鉄製の金庫を指した。金庫番が鍵を差し込み、重い扉を開ける。しかし、中にあったのは空の革袋と、昨夜使われなかった白薔薇の注文書だけだった。
「金貨はどこだ!」
「昨日、旦那様の命令でお出しいたしました。舞踏会費用として金貨七百二十枚、ロザリー様の婚礼準備金として三百枚でございます」
「別の袋があっただろう。北部水路と書かれた大きな袋だ」
「そちらが舞踏会へ使われました」
「では、税金として集めた金はどうした?」
「水路修繕費と同じ袋にまとめられておりました。クラリス様は移してはならないと申されましたが、旦那様が家長の命令に従えと」
金庫番の声が次第に小さくなった。伯爵は空の革袋をつかみ、内側まで裏返す。金貨の代わりに白薔薇の乾いた花弁が一枚落ち、床の請求書の上へ乗った。
「クラリスが分かりにくい場所へ金を隠したのが悪い。税金と修繕費を同じ袋へ入れる者があるか」
「袋は分かれておりました。旦那様が、両方とも一つの箱へ移させました」
「口答えをするな!」
伯爵が怒鳴ると、廊下から食器の割れる音が聞こえた。辞める女中が棚から皿を下ろしている途中で、手を滑らせたらしい。母は弁償させろと叫び、料理長は三か月分の給金から引くつもりなら組合へ追加で訴えると叫び返していた。
午後になると、北部水路の工事責任者が屋敷を訪れた。日に焼けた顔をした五十代の男で、泥のついた長靴のまま玄関へ入り、丸めた設計図を抱えている。母は絨毯が汚れると苦情を言ったが、男は靴を脱がなかった。
応接室には、昨夜の白薔薇がまだ飾られていた。暖炉には六月だというのに火が入り、香油を焚いたため、むっとする熱気がこもっている。ロザリーは長椅子で爪を磨き、セドリックは読めなかった契約書をクッションの下へ隠した。
「工事を始めるなら、明日の夜明けが最後です」
責任者は設計図を卓上へ広げた。北部の川から七つの村へ水を引く取水門には亀裂が入り、雨季の増水に耐えられないという。修繕しなければ門が崩れ、秋の種まきまでに水路を使えなくなる。
「工事を始めればよい。代金は収穫後に払う」
伯爵は簡単に答え、母が出させた冷たい果実水へ口をつけた。果実水は砂糖ばかり多く、底には溶け残った白い粒が沈んでいる。工事責任者は杯へ手を伸ばさず、伯爵を見た。
「石材も人夫も、先払いがなければ動かせません。昨年分の追加工事費も、まだ半分しか受け取っておりません」
「ベルフォード伯爵家を信用できないと言うのか」
「クラリス様が責任者だった間は、信用しておりました」
「もう一度申してみろ」
伯爵が卓を叩き、果実水がこぼれた。工事責任者はひるまず、昨年の支払記録を差し出す。そこにはクラリスが自分の持参金から不足分を立て替えた事実が記されていた。
セドリックは設計図を取り上げ、亀裂の描かれた部分を指でなぞった。水路についての知識はなかったが、伯爵の前で分からないとは言えない。彼は赤い線の引かれた部分を眺め、椅子へ深く座り直した。
「工事をしなければ、どの程度の損失になる?」
「七村の小麦と豆が育ちません。家畜用の水も不足します。冬までに、この舞踏会を十回開けるほどの金額が失われるでしょう」
ロザリーが爪磨きを止めた。自分の誕生日を非難されたと思ったらしく、唇を尖らせる。銀色のドレスはようやく脱いだものの、今日は薄桃色の昼用ドレスを着て、胸元に祖母の青い指輪を下げていた。
「では、舞踏会を開かなければ水路が直ったというの? 昨日は私の二十歳のお祝いだったのよ」
「舞踏会の是非を、私が申し上げる立場ではございません。ただし、修繕費が舞踏会へ使われたことは事実です」
「そんな話、お姉様から一度も聞いていないわ」
「七度、説明を受けている」
工事責任者は鞄から、同じ表題の書類を七通取り出した。いずれもクラリスが作成した修繕計画書で、提出日が異なっている。伯爵は一通目に「後日にせよ」、二通目に「急ぎではない」、三通目から七通目までには「却下」と大きく書いていた。
母は書類を一通手に取り、光へ透かした。端には夕食のソース、中央には伯爵の葉巻から落ちた灰が残っている。最後の一通には、舞踏会を優先するため工事を延期する、と伯爵自身の署名まであった。
「あなた、これに署名していますよ」
「クラリスが食事中に持ってきたから、ろくに読めなかったのだ」
「旦那様は、朝食時、昼食後、夕食時、就寝前のいずれも書類を受け取られませんでした。そのため、クラリス様は旦那様が必ず席に着かれる夕食時に提出しておられたのです」
工事責任者は七通の書類を揃え、伯爵の前へ置いた。部屋には香油の甘い匂いと、こぼれた果実水の匂いが充満している。白薔薇の花弁が一枚落ちても、誰も拾わなかった。
「明日の夜明けまでに、金貨五百枚をご用意ください。なければ、工事は中止いたします」
責任者はそう告げ、泥のついた長靴で応接室を出ていった。残された四人は、誰かが金を出すと言いだすのを待った。伯爵はセドリックを見て、セドリックはロザリーを見て、ロザリーは母を見たが、誰も財布を開かなかった。
同じ日の朝、ナジュム王国の宮殿では、クラリスが中庭に面した食堂へ案内されていた。彼女は薄青色の長衣に生成り色の上着を重ね、髪を低い位置で一つに結んでいる。借り物の衣服は肌触りが柔らかく、袖口には小さな棗椰子の葉が刺繍されていた。
卓には焼きたての平パン、香草入りの卵焼き、羊乳の乳酪、赤い西瓜、豆と鶏肉のスープが並んでいた。中庭では白い砂漠百合が朝日を受けて開き、噴水の縁では昨日の灰色の猫が尻尾を濡らしている。厨房から焼いた胡麻の匂いが流れてきたが、クラリスは椅子の横に立ったまま座らなかった。
「何か好みに合わないものがあっただろうか」
向かい側の席にいたザイードが尋ねた。彼は白い長衣の袖を肘まで上げ、今朝届いた報告書を読みながら、胡瓜を細かく切ったサラダを食べている。卓の端には食べかけの平パンと、飲み忘れてぬるくなった茶があった。
「いいえ。どれもおいしそうです」
「では、なぜ立っている?」
「まだ、何も働いておりません」
クラリスは卓上の料理を順番に見た。ベルフォード家にいた頃は、朝の支払いを終えなければ朝食に呼ばれず、取引先への返事が遅れれば昼食を抜かれた。昨日は飛行艇の中で食事を出されたが、長旅のための特例だったのだと考えていた。
「昨日は移動中でしたので、食事をいただきました。ですが、今日はまだ帳簿も確認しておりませんし、庭の仕事もしておりません。これほどの朝食をいただく理由がありません」
ザイードは報告書を閉じた。灰色の猫が卓の下から顔を出し、クラリスの長衣へ前足をかける。白い布へ小さな水の跡がついたが、彼は猫を追い払わなかった。
「食事は報酬ではない。生きるために必要なものだ」
「何もしなくても、食べてよいのですか」
「休むことも必要だ。食べずに働く者へ重要な判断を任せる方が、私は恐ろしい」
ザイードは空いている椅子を引いた。命令ではなく、座ってもよいと示しただけだった。クラリスはしばらく迷ったあと、椅子へ腰を下ろした。
「それでも、残してはいけませんよね」
「食べられる量だけ取ればよい。足りなければ追加すればよいし、苦手なら残してもよい」
「残しても?」
「西瓜の種まで食べろとは言わない」
ザイードが真面目な顔で答えたため、クラリスは種ではなく料理の話だと説明しようとした。しかし、彼の口元がわずかに動いたのを見て、冗談だったのだと気づく。クラリスは小さく息を漏らし、平パンを半分だけ自分の皿へ取った。
スープには鶏肉と豆のほかに、小さく切った人参と黄色い根菜が入っていた。匙を入れると湯気が上がり、乾燥檸檬と香草の匂いが鼻へ届く。クラリスは一口ずつ味を確かめながら食べた。
「明日の視察ですが、準備していただきたいものがあります」
「言ってみてくれ」
「郊外の井戸の水位記録、過去五年分の雨量、土壌の採取道具。それから、農地を離れた方々のお話を聞きたいです」
「分かった。サミーラに手配させよう」
「まだ役に立てるとは限りません」
「役に立つかどうかを確かめるために調べるのだろう?」
ザイードは報告書の余白へ必要なものを書き留めた。その字は王族らしく美しく整っているわけではなく、急いで書くため右上がりになっていた。書き損じた箇所を二本線で消す癖があるらしく、余白には黒い線が何本も残っている。
クラリスは卵焼きを一切れ取り、次に西瓜へ手を伸ばした。冷たい果汁が舌へ広がり、乾いた朝の空気で熱を持った喉を冷やしていく。窓の外では庭師が砂漠百合へ水を与え、灰色の猫がその水を横から飲んでいた。
「殿下。明日だけでなく、今日も何かできることはありませんか」
「では、宮殿の庭を歩くとよい。何も直さず、何も決めず、まず見るだけだ」
「見るだけですか」
「クラリス。働くことを禁じられるのと、休むことを選ぶのは違う」
彼女は匙を持ったまま、その言葉を何度も頭の中で繰り返した。実家では、休んでいるところを見つかれば次の仕事を命じられた。だから、何もしない時間は盗んだ時間であり、見つかる前に終わらせなければならないものだった。
朝食後、クラリスは中庭へ出た。白い砂漠百合の隣には、細い葉を持つ青い花が二輪だけ咲いている。庭師へ名前を尋ねると、彼はナジュム語で「夜明けの鈴」と呼ばれる花だと教えてくれた。
クラリスは花を摘まず、土の表面へ指を当てた。水は与えられているが、日差しを受けた表土はすでに乾き始めている。思わず改善方法を考えかけたものの、今日は見るだけだというザイードの言葉を思い出し、手についた砂を払った。
その頃、遠く離れたベルフォード家では、ロザリーが昼食に新しい菓子がないと怒り、セドリックが読めない契約書を暖炉へ投げ込もうとしていた。伯爵夫妻は互いに、金貨がないのは相手の浪費のせいだと言い争っている。北部水路の工事責任者は、人夫たちへ仕事が中止になるかもしれないと伝えていた。
クラリスはそれを知らなかった。知ったとしても、もう彼女が走り回って埋め合わせることではない。白い宮殿の庭で、彼女は初めて、温かい朝食を食べたあとの時間を自分の足で歩いていた。
中庭の時計が九時を知らせると、厨房から昼食の仕込みを始める音が聞こえた。包丁がまな板を叩き、豆を洗う水が桶へ落ち、料理人たちが今日の魚は塩が強いと話している。クラリスはその音を聞きながら、次の食事も働きと引き換えではなく運ばれてくるのだと、少しずつ理解し始めた。




