第2話 地獄への片道切符のはずでした
第2話 地獄への片道切符のはずでした
夜明け前に雨はやみ、街道の水たまりには薄い青空が映っていた。クラリスを乗せた馬車が港湾飛行場へ着いたとき、倉庫の屋根では濡れた鳩が羽を震わせ、荷運び人たちが眠そうな声を掛け合っていた。潮と石炭と魚の匂いが混じる中、露店の女が焼いた平パンを籠へ並べており、焦げた小麦の匂いが空腹の腹を刺激した。
クラリスは茶の瓶を返し、座席の下から旅行鞄を引き出した。中に入っているのは着替えが一着、祖母の遺産目録、家族による使い込みの記録、土壌と植物についてまとめた古い研究帳、それから祖母と二人で描かれた小さな絵だった。もう一着入っていた灰色の服は書類を詰めるために屋敷へ置いてきたので、紺色の仕事着を洗っている間は、残った一着で過ごさなければならない。
御者から旅費を請求されるのではないかと思い、クラリスは財布を確かめた。中には銀貨が四枚と銅貨が七枚しかなく、ナジュム王国までの運賃どころか、飛行場で食事を買えば半分ほど消えてしまう。ベルフォード家の金を管理していた彼女が自分のために使える金は、街の宿へ一泊するにも足りなかった。
「御者さん、申し訳ありません。馬車代は、ナジュム王国へ到着してからでもよろしいでしょうか」
「馬車代ですか?」
御者は目を丸くしたあと、慌てて帽子を脱いだ。昨夜は暗くて分からなかったが、彼の濃紺の上着には、ナジュム王国の金色の星が刺繍されている。御者は馬へ干し林檎を一切れ食べさせてから、クラリスへ向き直った。
「すべて殿下から頂戴しております。それに私は、飛行場までお送りするだけの御者ではございません。妃殿下が無事に到着なさるまで、同行するよう命じられております」
「妃殿下ではありません。私は第十夫人として迎えられる予定の、クラリス・ベルフォードです」
「私は難しいことは分かりませんが、妃殿下を妃殿下とお呼びするよう教えられました。間違っていたら、あとでサミーラ様に叱られます」
御者は困ったように頭をかき、馬の口元についた林檎の欠片を指で取った。クラリスは訂正を続けるべきか迷ったが、後ろでは次の馬車が待っている。彼女はひとまず礼を言い、濡れた石畳へ降りた。
クラリスは空港というものを、これまで書物の挿絵でしか見たことがなかった。広い敷地には翼を備えた飛行艇が何隻も停まり、船体の下では整備士が工具を鳴らしている。空を飛ぶための魔石から低いうなりが響き、荷物を運ぶ小型車の車輪が石畳の上で忙しく音を立てていた。
ベルフォード家から砂漠へ売られた娘に用意されるのは、家畜や木箱と一緒に乗る貨物便だと思っていた。少なくとも両親はそう信じており、父は別れ際に「船倉では鼠に食料を奪われないよう気をつけろ」と笑っていた。クラリスもそのつもりで、研究帳を守るための防水布だけは旅行鞄へ入れている。
しかし、案内された先には、金色と深緑に塗られた大型飛行艇が停まっていた。白い船体の側面には、三日月を囲む七つの星が描かれている。乗降口には深紅の敷物が敷かれ、その両脇には白い正装をまとった乗務員が並んでいた。
クラリスは足を止め、隣に停まっている小さな貨物艇を指さした。船体の塗装は剥がれ、木箱の隙間から鶏が顔を出している。昨夜のうちに何度も覚悟した光景に近いのは、どう考えてもそちらだった。
「私が乗るのは、あの貨物艇ではないのですか」
「鶏とご一緒になりたいのでしたら止めませんが、その艇は北の牧草地へ向かいます」
女性の声がして、乗降口から一人の女性が降りてきた。褐色の肌に黒い髪を持ち、深緑の長衣の上から金糸の帯を締めている。靴は装飾のない実用的な革靴で、右手には書類鞄、左手には蓋つきの銀杯を持っていた。
「初めまして、クラリス・ベルフォード様。私はナジュム王国外務院のサミーラ・ハディードと申します。殿下の命により、お迎えに参りました」
「初めまして。迎えに来てくださったことには感謝いたします。ですが、この飛行艇は別の方のために用意されたものではありませんか」
「いいえ。あなたお一人のために用意されたものです」
サミーラは迷いなく答えたが、銀杯から湯気が顔へ当たると、わずかに眉を寄せた。蓋を開けると、中には濃く煮出した珈琲が入っている。彼女は一口飲み、苦すぎたらしく、長衣の袖から角砂糖を二つ取り出して杯へ落とした。
「申し訳ありません。私は早朝の便に弱いのです。珈琲を三杯飲むまでは、外交官らしい言葉が出てこないかもしれません」
「今ので何杯目ですか」
「まだ一杯目です」
「では、難しい交渉は後にいたしましょう」
クラリスが答えると、サミーラは一瞬きょとんとしたあと、声を立てて笑った。クラリスも口元を緩めかけたが、すぐに旅行鞄の持ち手を握り直す。実家では冗談を言えば、愛想を振りまく暇があるなら働けと言われていたため、笑い方を途中で忘れてしまったような感覚があった。
乗務員がクラリスの鞄を受け取ろうとした。クラリスは反射的に胸へ抱え、二歩後ろへ下がった。鞄の中には財産目録と帳簿の写しが入っており、それを失えば両親の使い込みを証明できなくなる。
「自分で持ちます。これは私の荷物ですから」
「承知いたしました。では、お席までご案内するだけにいたします」
乗務員は無理に取り上げず、手を引いた。叱られもせず、面倒な女だと笑われもしなかったことに、クラリスはかえって戸惑う。サミーラは何も問いたださず、先に立って飛行艇へ乗り込んだ。
船内には柔らかな長椅子と、花模様を織り込んだ絨毯が備えられていた。窓際の小卓には薄桃色の芍薬が一輪飾られ、水滴の残る花弁から青い草の匂いがする。壁際には本棚もあり、ナジュム語で書かれた歴史書や植物図鑑が、飛行中に落ちないよう革紐で固定されていた。
クラリスが座ると、女性乗務員が濡らした温かい布を差し出した。昨夜から帳簿と鞄を握り続けていた指には、紙の粉と革の色がついている。クラリスが布で手を拭いている間に、食卓へ朝食が運ばれてきた。
焼きたての丸い平パン、豆と野菜を煮込んだスープ、胡瓜と白い乳酪のサラダ、蜂蜜を添えた干し無花果が並ぶ。大広間の残り物ではなく、最初からクラリスのために温められた食事だった。香辛料の効いた湯気を吸い込むと、腹が大きな音を立てた。
「どうぞ召し上がってください。苦手なものがございましたら、別の料理をご用意します」
「これは、到着してから働く分の前払いでしょうか」
「朝食です」
サミーラは二杯目の珈琲へ、今度は角砂糖を三つ入れた。彼女はそれだけで説明が足りると考えたらしく、自分の皿から干し無花果を取る。クラリスはスープを食べてよい理由を探したが、料理は冷め始めていた。
「食べても、本当に何かを要求されないのですか」
「パンを一つ食べるたびに契約書を一枚作成する国ではありません。もしベルフォード家では食事にも条件があったのでしたら、食後に詳しく伺います」
「仕事が終わらなければ、夕食を抜かれることはありました」
サミーラの指が止まり、つまんでいた無花果が皿へ戻った。彼女はすぐに怒りを見せず、珈琲の杯を置く。船内では魔石機関の振動が床から伝わり、芍薬の花弁が小さく揺れていた。
「ナジュム王国では、食事は報酬ではありません。少なくとも殿下の宮殿で、仕事と引き換えに食べ物を与えることはございません」
クラリスは木匙を取り、豆のスープを口へ運んだ。塩気は控えめだが、炒めた玉葱の甘みと香草の苦みが舌へ残る。温かいものが喉を通るたびに、昨夜食べた檸檬菓子の砂糖が少しずつ洗い流されていくようだった。
食事が終わる頃、飛行艇はゆっくりと地上を離れた。窓の下で街並みが小さくなり、ベルフォード領へ続く北の街道も雲の陰へ消えていく。クラリスは持ち帰った平パンの欠片を皿の端へ揃え、膝の上に手を置いた。
サミーラは書類鞄から契約書を取り出した。昨夜クラリスが署名したものと同じだが、こちらにはザイードの署名とナジュム王国の公印がある。さらに、ベルフォード家へ送った求婚状の写しと、クラリスの財産を保護する命令書も添えられていた。
「先ほどから私を妃殿下と呼んでおられますが、訂正してください。私は第十夫人として連れてこられただけです」
「あなたは購入されたのではありません。ザイード殿下から、正式な求婚を受けたのです」
「ですが、殿下には九人の奥方がいらっしゃると聞きました」
「一人もいらっしゃいません」
サミーラはきっぱりと言い、三杯目の珈琲へ手を伸ばした。今度は砂糖を入れずに一口飲み、ようやく目が覚めたように背筋を伸ばす。それから、別の調査書をクラリスの前へ置いた。
「ザイード殿下には、婚姻歴も婚約歴もございません。九人の妻がいるという噂は、半年前から国外で広められた虚偽です。殿下が国内外から持ち込まれる政略結婚をすべて断ってきたため、腹を立てた者が流したものと考えられています」
「父は、ザイード殿下から第十夫人を探しているという手紙を受け取ったと言っていました」
「そのような手紙を出した記録はありません。ベルフォード伯爵が仲介商から聞いた噂を、都合よく解釈したのでしょう。殿下は現在、その仲介商についても調査しております」
クラリスは求婚状の写しを読み直した。そこには彼女の語学力、会計能力、領地の灌漑計画について記されている。容姿や家柄ではなく、これまでクラリスが行ってきた仕事を評価して求婚したと、ナジュム語ではっきり書かれていた。
「なぜ殿下は、私の仕事をご存じなのですか」
「三年前、ベルフォード領とナジュム王国の商社が乾燥薬草の取引をしたことを覚えていらっしゃいますか」
「あの契約なら、私が担当しました。先方から届いた文書に誤訳があり、数量を訂正した覚えがあります」
「その商社は殿下が出資している会社です。誤訳を発見しただけでなく、輸送中に薬草が湿気ない梱包方法まで提案した女性の名前を、殿下は覚えておられました」
クラリスは窓の外へ顔を向けた。雲の上には白い光が広がり、翼の端が陽射しを受けて輝いている。セドリックは彼女が仕事の話をするたびに黙れと言ったが、遠い砂漠の国には、その書類を最後まで読んだ人がいたのだ。
昼を過ぎると、窓の下の景色が変わり始めた。緑の畑と森が減り、やがて赤茶色の山と黄褐色の大地が広がる。クラリスは植物図鑑を一冊借り、窓から見える乾いた谷と挿絵を何度も見比べた。
飛行艇が高度を下げるにつれ、巨大な建物が見えてきた。白い塔や青い硝子の建物が強い日差しを反射し、その間をまっすぐな水路と街道が走っている。しかし、都の外側には色の薄い土地が広がり、風に巻き上げられた砂が、放棄された畑の柵へ積もっていた。
クラリスは窓へ額が触れるほど身を寄せた。都の華やかさより、郊外に点在する枯れた木と、底の見える井戸の方が気にかかる。庭仕事を教えてくれた祖母は、葉より先に土を見なさいと何度も言っていた。
「サミーラ様、あの畑は、以前は何を育てていたのですか」
「麦と豆です。五年前から井戸の水位が下がり、三つの村が農業をやめました」
「水路は都まで届いています。それを分けることはできないのですか」
「都の水も不足しております。海水を真水に変える設備はありますが、費用が高く、農業に回せる量ではありません」
クラリスは旅行鞄から研究帳を取り出した。長年使った表紙には土の染みがあり、開けば乾燥させた葉の欠片が挟まっている。幼い頃、祖母と一緒に作った押し花が一枚落ち、サミーラが拾ってくれた。
「可愛らしい青い花ですね」
「矢車菊です。小麦畑のそばによく咲きます。お祖母様は雑草と呼びましたが、抜かずに残してくれました」
「ナジュムにも青い花はございます。ただ、水が豊富な北部でしか育ちません」
クラリスは押し花を元のページへ戻し、乾燥地の土壌について記した箇所を開いた。塩分の多い土、少ない水で育つ植物、蒸発を防ぐための覆土について、祖母と試した結果が細かな字で残っている。ただ、国の水事情を知らずに役立つとは言えないため、クラリスは研究帳を閉じた。
飛行艇が着陸すると、扉の向こうから熱い空気が流れ込んできた。ベルフォード領の湿った初夏とは違い、風は乾いており、石と香辛料を温めたような匂いがする。クラリスは紺色の仕事着の襟元を緩めたが、外へ出る前にサミーラが薄い生成り色の外套を渡した。
「こちらをお召しください。肌を隠す方が、かえって涼しく過ごせます」
「このように上等なものを、私が使ってよいのですか」
「あなたのために仕立てたものです。袖が合うか心配でしたが、いかがでしょう」
クラリスが腕を通すと、薄い布が日差しを遮り、肌に触れる風が少し柔らかくなった。袖口には銀糸で小さな葉が刺繍されている。ロザリーのドレスのような派手さはないが、歩くためにも働くためにも邪魔にならない衣服だった。
空港から宮殿へ向かう車には、冷たい水と塩漬けの檸檬が用意されていた。運転手は信号で止まるたび、布に包んだ豆菓子を一粒ずつ食べている。クラリスと目が合うと、彼は菓子の袋を差し出した。
「妻が作りすぎたのです。甘くありませんが、よろしければ」
「ありがとうございます。奥様にも、おいしかったとお伝えください」
豆菓子は硬く、噛むと胡麻と香草の味が広がった。クラリスは窓の外を見ながら時間をかけて噛んだ。街路樹の根元には白や桃色の砂漠薔薇が咲いていたが、一本ごとに細い管が通され、少量の水が根へ直接落ちる仕組みになっている。
宮殿は都の中央ではなく、郊外の高台に建っていた。白い石壁と青い屋根を持ち、正面の噴水は水を高く上げず、浅い水盤の中で静かに循環している。入口には豪華な赤い花ではなく、黄色い砂漠菊と白い香草が植えられていた。
クラリスが玄関広間へ入ると、冷たい石床から靴底へ涼しさが伝わった。天井は高く、風を通す細い窓から、乾いた風と香木の匂いが入ってくる。壁際では、灰色の猫が水鉢へ前足を入れ、侍従が布で床を拭いていた。
「殿下、妃殿下をお連れいたしました」
サミーラの声に、窓辺に立っていた男が振り返った。黒い髪に褐色の肌を持ち、白い長衣の上から深い青の上着をまとっている。胸元に宝石はなく、右手には農業用水に関する報告書が握られていた。
ザイードは書類を侍従へ渡すと、まっすぐクラリスの前まで歩いてきた。クラリスは教えられた礼法を思い出し、跪こうとする。しかし、彼の方が先に片膝をついた。
「長い旅をさせてしまった。ナジュム王国へ来てくれたことに、まず礼を申し上げる」
クラリスは何をされているのか理解できず、生成り色の外套の端を握った。王族の男性が、没落しかけた伯爵家の娘へ頭を下げている。背後では灰色の猫が水鉢を倒し、侍従が小声で名前を呼びながら追いかけていた。
「ザイード殿下、お立ちください。私はベルフォード家から、金貨三千枚で差し出された者です」
「違う」
ザイードは立ち上がったが、クラリスを見下ろさないよう一歩分の距離を取った。声は低く、表情も穏やかとは言い難い。それでも、セドリックのように相手を黙らせる響きはなかった。
「あなたの家族とは金銭の契約を結んだ。しかし、あなたの人生を買った覚えはない」
「それでは、金貨三千枚は何のために支払われたのですか」
「ベルフォード家があなたから不当に借りた金を清算させるためだ。その金額は、あなたが記録した財産目録と一致しているはずだ」
クラリスは旅行鞄の中の財産目録を思い浮かべた。金貨三千枚という金額は、祖母の遺産、七年分の未払い報酬、両親が勝手に使った持参金を合計した額と、ほぼ同じである。ザイードは噂や推測ではなく、実際の記録を調べていた。
「父は、そのお金を昨夜の舞踏会と妹の婚礼準備に使いました」
「報告を受けている。だが、それはベルフォード家が私に負った債務であり、あなたが背負うものではない」
「返済できなければ、どうなるのでしょうか」
「法に従って、伯爵家の財産から回収する。あなたへ請求することはない」
ザイードは近くの卓へクラリスを案内した。卓には冷たい薔薇水と、棗椰子の実を詰めた小さな焼き菓子が用意されている。灰色の猫が椅子の下へ隠れ、濡れた前足の跡を石床に残していた。
ザイードは菓子皿をクラリスの方へ寄せたが、食べるよう命じなかった。その小さな動作を見て、クラリスは飛行艇で聞いた言葉を思い出す。食事は報酬ではないという説明を、まだ完全には信じられなかった。
「婚姻について、三つの選択肢を用意している」
ザイードは三枚の書類を卓へ並べた。一枚目は正式な婚姻契約書、二枚目は宮殿の客人として一年間滞在する契約書、三枚目はクラリスを安全に帰国させるための保証書だった。どの書類にも、選択によって財産返還の権利が失われることはないと記されている。
「私との結婚を承諾する。婚姻を決めず、客人としてこの国を知る。あるいは、今すぐ帰国する。どれを選んでも、あなたの財産は保護される」
「今すぐ決めなければなりませんか」
「その必要はない。一年かけてもよいし、さらに時間が必要なら延長できる」
「もし、私が何も選べなかったら?」
「選べるようになるまで、ここで暮らせばよい」
クラリスは三枚の書類を順番に読んだ。どこにも、家族の名誉のため、国の利益のため、娘としての義務を果たすためという言葉はない。自分自身が何を望むのかという、答えを教えられたことのない問いだけが残されていた。
「私は、すぐに結婚するとは申し上げられません」
「それで構わない」
「帰国したいとも思いません。少なくとも、今は」
「では、客人として迎えよう」
ザイードは二枚目の書類を取り、先に自分の名前を書いた。クラリスにも署名を迫らず、内容を確認するための時間を与える。窓の外では風が吹き、黄色い砂漠菊が低く揺れていた。
クラリスはペンを手にしたまま、飛行艇から見た放棄された畑を思い出した。乾いた井戸、砂に埋まりかけた柵、細い管から水を受けて咲いていた砂漠薔薇が、研究帳の記録と結びついていく。胸の奥に浮かんだ考えを口にしてよいのか迷い、ペン先へ小さなインクの玉を作った。
「殿下。一つ、お願いしてもよろしいでしょうか」
「聞こう」
「郊外の農地を見せてください。井戸の水位と土壌を調べたいのです」
ザイードは驚いたように目を細めた。長旅を終えた直後に宝石や衣装ではなく、乾いた畑を見たいと頼む女性を予想していなかったのだろう。クラリスは断られる前に、研究帳を鞄から取り出した。
「役に立てると決まったわけではありません。ただ、私は乾燥した土地で育つ植物と、少ない水を根へ届ける方法を調べていました。勝手なことを申し上げているのは分かっています」
「勝手ではない。明日は休んでもらうが、明後日なら私が案内しよう」
「殿下ご自身が?」
「私も、この国の水がどこで消えているのか、自分の目で見る必要がある」
クラリスは客人としての滞在契約へ署名した。ザイードはその書類を受け取り、公印を押す。乾いた音が広間へ響いたが、それはクラリスを閉じ込める鍵の音ではなかった。
その夜、クラリスには中庭に面した部屋が用意された。寝台には白い麻布が張られ、衣装棚には生成り色や薄青色の服が数着掛けられている。窓辺の卓には夕食として、香草を詰めた魚、豆の炊き込み飯、冷たい胡瓜のスープが並べられていた。
クラリスは魚を一口食べ、次に豆の飯を口へ運んだ。誰も仕事の進み具合を確認しに来ず、皿を空にしても新しい書類は置かれなかった。食後には石鹸の匂いが残る寝間着へ着替え、旅行鞄から祖母の絵を出して卓の上へ置いた。
窓の外には白い月が浮かび、中庭では夜咲きの花が開いていた。厚い花弁から甘く青い香りが漂い、噴水の水が低い音を立てている。クラリスは研究帳を一頁だけ開いたが、文字を追う前にあくびが出た。
ベルフォード家では、眠る前にも翌日の支払いと食事の仕入れを確認していた。今夜は誰にも命じられていないため、何時に明かりを消せばよいのか分からない。クラリスはしばらく蝋燭を眺めたあと、自分の手で火を吹き消した。
初めて尋ねられた自分の意思に、まだ立派な答えは出せなかった。それでもクラリスは、明日の朝食を食べ、明後日に乾いた畑を見ると決めていた。誰かが決めた人生ではなく、その二日間だけは、自分で選んだものだった。




