第1話 お前など砂漠王の第十夫人に売られてしまえ
第1話 お前など砂漠王の第十夫人に売られてしまえ
初夏の夕暮れ、ベルフォード伯爵家の大広間には、季節を少し過ぎた白薔薇が隙間なく飾られていた。甘い香りを保つために何度も香水を吹きかけたらしく、窓を閉め切った室内には、薔薇と香油と焼いた肉の匂いが重たく漂っている。長卓には仔牛の香草焼き、蜂蜜を塗った鴨、赤い木苺を飾った菓子が並び、招待客が皿へ取らなかった料理まで、次々と厨房から運ばれてきた。
今夜は、ベルフォード伯爵家の次女ロザリーが二十歳を迎える祝いの舞踏会だった。庭では青紫の紫陽花が雨を待ってうなだれているのに、大広間には温室から取り寄せた薔薇だけが飾られている。庭に咲いている花では貧しく見えるとロザリーが嫌がり、父であるベルフォード伯爵が、隣国から白薔薇を馬車三台分も買い集めさせたのだ。
クラリスは舞踏会用の衣装ではなく、紺色の仕事着を着て廊下を歩いていた。肘には薄くなった部分を補修した跡があり、裾には昼間に水路を調べたときについた泥が乾いて残っている。左腕には三冊の帳簿を抱え、右手には支払期限の迫った請求書を握っていた。
大広間へ続く扉の前には、食べかけの菓子を載せた小皿が置き忘れられていた。砂糖衣をかけた檸檬菓子は端を一口かじられただけで、赤い絨毯には砕けた欠片が落ちている。クラリスは足を止め、しゃがんで欠片を拾うと、近くを通った給仕へ小皿を渡した。
「厨房へ戻してください。まだ食べられますから、夜食に分けましょう」
「ですが、お嬢様、奥様は一度客間へ出したものを使用人が食べるのは見苦しいと」
「では、私が食べます。捨てる必要はありません」
給仕は困ったように眉を下げたが、クラリスが小皿を受け取ると小さく頭を下げた。檸檬菓子は朝から何も口にしていなかったクラリスには甘すぎて、乾いた喉に砂糖が張りついた。それでも水を飲みに戻る時間はなく、彼女は帳簿を抱え直して扉へ向かった。
その帳簿には、ロザリーの舞踏会に使われた金額がすべて記されていた。白薔薇が金貨百二十枚、楽団が八十枚、料理と酒が二百枚、ロザリーの衣装が三百枚である。合計額は、北部の畑を守る灌漑設備の修繕費として、クラリスが三年かけて積み立てた金額を上回っていた。
昨夜まで鍵をかけて保管していた金庫は、今朝には空になっていた。母が合鍵を作り、父の許可を得て金貨を持ち出したのだという。水路の修繕は十日後に始めなければ雨季に間に合わず、このままでは秋に小麦を植えられない畑が出る。
クラリスは何度も父へ説明した。書面も七度提出し、夕食の席でも話したが、父は肉料理を切り分けながら「食事中に泥の話をするな」と書類を脇へ押しやった。父が読みもしなかった計画書の端には、そのときこぼした葡萄酒の染みが残っている。
大広間の扉を開けると、楽団の音が耳を打った。踊っていた客たちが足を止め、紺色の仕事着で現れたクラリスを見る。母は孔雀の羽根を飾った扇を口元へ運び、娘の服装を見て露骨に顔をしかめた。
「クラリス、着替えもしないで何をしているの。今日はロザリーの大切な夜なのですよ」
「存じております。ですが、北部水路の修繕費が金庫からなくなっています。工事業者への支払いは、どのお金から出すのでしょうか」
「今夜でなければならない話なのか?」
父は黄金色の酒が入った杯を卓上へ置いた。その横には、脂身だけを残した仔牛肉の皿がある。クラリスは腹の奥が縮むのを感じながら、帳簿を開いた。
「明日の朝、業者へ返事をしなければなりません。工事を延期すれば、北部の七つの村で作付けができなくなります」
「また帳簿か」
聞き慣れた声がして、クラリスは顔を上げた。人垣の向こうから、婚約者のセドリック・オルブライトが進み出てくる。彼は濃い赤の礼装をまとい、胸には見覚えのない大粒の宝石を飾っていた。
その腕には、淡い銀色のドレスを着たロザリーが寄り添っていた。薄布を幾重にも重ねた裾には銀糸で月桂樹が刺繍され、歩くたびに細かな光が流れている。半年前、クラリスが自分の婚礼のために仕立屋へ頼んだドレスだった。
ロザリーの左手には、青い星石の指輪が輝いていた。それは母方の祖母が亡くなる前、クラリスへ直接遺してくれたものだった。祖母は冬になると暖炉の前で毛糸を編み、その指輪をはめた手で、クラリスの乱れた髪を何度も直してくれた。
「ロザリー。そのドレスと指輪を、どこから持ち出したのですか」
「持ち出しただなんて、人聞きが悪いわ。お母様がくださったのよ」
ロザリーは青い石を燭台の光へかざした。爪には薔薇色の染料が塗られ、右手には木苺の菓子から取れた白い粉がついている。彼女は舐めて粉を落とすと、セドリックの腕へ頬を寄せた。
「どうせお姉様には似合わないでしょう? 銀色は若くて明るい娘が着る色ですもの」
「指輪はお祖母様から私へ遺されたものです。返してください」
「返す必要はない」
セドリックがロザリーの手を取り、青い星石へ口づけた。周囲の客がざわめき、楽団員たちは演奏を続けてよいのか迷ったように顔を見合わせる。やがて最後まで残った弦の音も止まり、大広間には食器の触れ合う音だけが残った。
「クラリス、皆の前で伝えておく。私はお前との婚約を破棄し、ロザリーと婚約する」
クラリスは帳簿の角へ爪を押しつけた。紙がわずかにへこみ、表紙についた乾いた泥が指先へ落ちる。客たちの視線が集まっていたが、父も母も驚いた様子を見せなかった。
「理由を伺ってもよろしいでしょうか」
「理由など、聞かなければ分からないのか? お前は愛想がなく、口を開けば帳簿と水路の話ばかりだ。いつも地味な服を着て、泥のついた靴で歩き回っている。そんな女を、侯爵家へ迎えることはできない」
「婚約が結ばれた七年前から、私は変わっておりません。その間、オルブライト家との交易契約を十二件まとめました。昨年の鉱石輸送で生じた損失も、私が交渉して補填しております」
「そういうところが嫌なのだ!」
セドリックは卓上の杯をつかみ、一息に酒を飲み干した。口元から一滴こぼれ、赤い礼装の襟へ濃い染みを作る。ロザリーが刺繍入りの布で拭こうとすると、彼は機嫌を直したようにその手を握った。
「女が男より数字に詳しいことを誇るな。お前は言われたとおりに書類を作ればよかった。ロザリーは美しく、私を立てることを知っている」
「ええ。わたくし、難しい帳簿なんて読めませんもの。結婚したら、お金のことはすべてセドリック様にお任せしますわ」
「それでよい。妻は夫を信じて微笑んでいればいいのだ」
二人が見つめ合うと、母が最初に拍手した。父も満足そうに頷き、事情を知らない招待客たちがためらいながら拍手を重ねる。クラリスは祖母の指輪をはめた妹の手を見たあと、自分の指先に残った帳簿の泥をハンカチで拭った。
「婚約破棄については承知いたしました。明日、両家の契約書を確認し、違約金と共同事業の清算額を算出します」
「まだ分からないのか。お前が明日もこの家にいることはない」
父の言葉に、クラリスの手が止まった。母が使用人へ合図すると、大広間の隅に置かれていた小さな旅行鞄が運ばれてくる。着替えが二着入ればいっぱいになる、革の剥げた古い鞄だった。
「お前には、新しい縁談を用意した」
父は上着の内側から一通の契約書を取り出した。紙には見慣れない金色の紋章が押され、乾いた香木に似た匂いがする。表題はナジュム語で書かれていたが、クラリスには問題なく読むことができた。
「砂漠のナジュム王国を治める一族の、ザイード王子だ。先方にはすでに九人もの妻がいるそうだが、十人目を欲しがっている。お前のような地味な娘でも、異国人なら珍しがってもらえるだろう」
「お姉様、第十夫人ですって」
ロザリーが口元を扇で隠したものの、弾んだ笑い声までは隠れなかった。セドリックも鼻で笑い、空になった杯を給仕へ突き出す。母は娘の肩へ触れようともせず、銀盆の上の焼き菓子を選んでいた。
「砂漠の宮殿の片隅で、一生、誰にも顧みられずに暮らすがいい。お前にはその程度がお似合いだ」
父は契約書を卓上へ放った。紙の端が蜂蜜の皿へ触れ、薄い染みが広がる。クラリスは汚れた部分を布で押さえてから、最初の一行へ目を通した。
契約書は共通語とナジュム語の二種類で記されていた。父が読んだのは共通語の表題と金額だけらしく、細かな条項には目を通した形跡がない。クラリスは賑やかさを取り戻し始めた大広間で、一条ずつ内容を確かめた。
婚姻にはクラリス本人の自由意思が必要であり、拒否した場合は安全に帰国させること。婚姻後も本人名義の財産は保護され、移動、就労、帰国の自由を有すること。ナジュム王国側から一方的に婚姻を解消した場合には、生涯の生活を保障することまで明記されている。
そして、父が支度金だと言った金貨三千枚は、花嫁に対する代金ではなかった。ベルフォード伯爵家がクラリスから借りた財産を清算するため、ザイード王子が一時的に立て替えた金だった。支払先も伯爵家ではなく、クラリス本人の名義で開設されたナジュム王国の口座になっている。
「お父様。この契約書を最後までお読みになりましたか」
「読む必要などない。金はすでに受け取った」
「受け取った金貨三千枚は、どこにありますか」
「今夜の舞踏会と、ロザリーの婚礼準備に使った。娘を育てた親が受け取って何が悪い」
父は皿から鴨肉をつまみ、骨を銀皿へ放った。クラリスは目を閉じずにその指を見た。祖母の遺産から金貨を持ち出した日も、父は同じように指についた脂を卓布で拭いていた。
「これはお父様への贈与ではありません。私から借りた金額を、ザイード殿下が立て替えてくださったものです。契約が成立した時点で、伯爵家には殿下への返済義務が生じます」
父の頬が動いたが、セドリックが大声で笑った。
「その程度の金、すぐに返せる。私とロザリーが結婚すれば、両家の事業はさらに大きくなるのだからな」
「では、返済計画もお二人でお立てください」
クラリスは契約書に添えられたペンを取った。署名欄へ名前を書く前に、本人の意思による婚姻であること、ナジュム王国へ到着後に改めて承諾を確認することを確かめる。砂漠に何が待っているかは分からなかったが、少なくともこの契約書は、家族が七年間一度も与えなかった拒否する権利を認めていた。
「署名するのね?」
母は焼き菓子の粉を指先から払いながら尋ねた。そこには娘を遠い国へ送るためらいより、舞踏会を早く再開したい苛立ちが表れている。クラリスはペン先の余分なインクを落とし、自分の名前を書いた。
「はい。ナジュム王国へ参ります」
父は満足そうに鼻を鳴らし、母は楽団へ演奏を再開するよう命じた。ロザリーはセドリックと踊るため、大広間の中央へ進んでいく。銀色の裾がクラリスの靴をかすめ、祖母の指輪が燭台の下で青く光った。
クラリスは小さな旅行鞄を開けた。中には、母が選んだ灰色の服が二着と、毛の硬い歯ブラシが一本入っているだけだった。父も母も彼女が長年つけていた帳簿や、祖母から受け継いだ書類の存在を思い出していないらしい。
彼女は自室へ戻り、机の一番下の引き出しを開けた。窓辺には、小さな素焼きの鉢に植えた薄紫のラベンダーがあり、夕方の水を待って葉を垂らしている。クラリスは水差しから少しずつ水を注ぎ、土が吸い込むのを見届けてから、鉢を世話してくれていた侍女へ渡した。
「これをお願いしてもいいかしら。水は毎日ではなく、土が乾いてからで大丈夫です」
「お嬢様は、本当に行ってしまわれるのですか」
「ええ。あなたたちの給金については、未払い分を記録してあります。明日、商業組合へ写しが届くよう手配しました」
侍女はラベンダーの鉢を抱え、何度も唇を結び直した。クラリスは机から祖母の遺産目録、十年分の収支記録、両親が金を持ち出した日付を記した手帳を取り出す。旅行鞄の衣服を一着だけ出し、空いた場所へ書類を詰めた。
最後に部屋を見回すと、寝台の脇には昨夜脱いだ室内履きが揃えてあり、洗面台には半分まで使った石鹸が残っていた。暖炉の上に家族の肖像画はなく、祖母と二人で庭に立つ小さな絵だけが飾られている。クラリスはその絵を布で包み、帳簿の上へ載せた。
大広間へ戻ると、ロザリーとセドリックは音楽に合わせて踊っていた。父は来客へ娘を砂漠王に嫁がせたと自慢し、母は新しい婚約が二つも決まった祝いだと言って、さらに酒を開けさせている。床には白薔薇の花びらが散り、踏まれて茶色く変わり始めていた。
クラリスは家族へ深く頭を下げた。許しを請うためでも、感謝を伝えるためでもない。今まで背負ってきた仕事を、正式に返すためだった。
「承知いたしました。今日をもって、この家の帳簿から私の名前を外します」
「好きにしろ。お前がいなくても、ベルフォード家は何も困らない」
父はそう言い切り、空の杯を鳴らした。クラリスは返事をせず、旅行鞄を持って玄関へ向かった。背後では楽団の演奏が続き、ロザリーの笑い声と、何本目かの酒瓶を開ける音が重なっていた。
外には細かな雨が降り始め、乾いていた紫陽花の葉を濡らしていた。迎えの馬車にはナジュム王国の金色の紋章があり、御者はクラリスを見ると雨の中へ降り、丁寧に扉を開けた。クラリスが座席へ乗り込むと、温かい布と、香辛料を入れた茶の瓶が用意されていた。
彼女は冷えた指で瓶を包み、一口だけ茶を飲んだ。生姜と乾燥させた柑橘の香りが鼻へ抜け、朝から縮んでいた腹がゆっくりと温まる。屋敷の窓からこぼれる明かりを見ても、もう馬車を止めようとは思わなかった。
その夜、ベルフォード家の者たちは、クラリスがいなくなったことよりも、白薔薇が雨に濡れずに済んだことを喜んでいた。翌朝、使用人の給金を支払う者も、届いた外国語の契約書を読む者も、水路の工事業者へ返事を書く者もいないと知るまでは。
馬車の中で、クラリスは鞄から自分の帳簿を取り出した。ベルフォード家の名が書かれた最後のページへ一本の線を引き、その下に新しい日付を書く。次の行には、まだ何も記入しなかった。
その空白だけが、生まれて初めて誰にも奪われていない、クラリス自身のものだった。




