『カイジンストラグル』のレビュー
https://kakuyomu.jp/works/16818792437743796711
ドーモ、サクシャ=サン。レビュアーです。 アイサツは神聖な不可侵な行為…。
本作の文章は、誰が何をして何を見ているかが一度で追えるスムーズな意味の繋がりを持っている。さらに、地の文が視点人物である主人公(魁人)の主観に極端に寄っているため、主人公の感覚や狂気めいた状況へのツッコミがそのまま文章のノリとして機能している。読者は迷うことなく、このカオスなアトモスフィアへ没入可能だ。
戦闘や掛け合いの場面において、短い動作文と台詞の応酬が連撃のように機能しており、場面の動きと文の長さが合致している。ルビを極限まで敷き詰めた【 黒龍穴 ( ブラックホール ) 】や【 見えざる無敵城塞 ( インビジブル・インビンシブル ) 】のごとき狂気のネーミングも、この速度感に乗ることで圧倒的なケレン味を生んでいる。ゴウランガ!
しかし、サツバツとした厳しい話をせねばなるまい。文章評価の基準において、本作は「心理描写」と「台詞と地の文の役割分担」に実際弱点を抱えている。 本来、緊迫した場面の心理描写は、感情名や内心のボヤキに頼らず、「息が浅くなる」「手が遅れる」「逃げ道を探す」といった身体反応や動作の遅れに変換して地の文に置かねばならない。また、台詞と地の文の関係においては、台詞で強がりを言いつつ、地の文で手の震えなどの反応を書くことで人物の「嘘」や「痛み」を読者に渡す役割がある。 だが本作は、シリアスな死闘やヒロインとの葛藤という重篤な状況下にあっても、地の文の心理描写が「軽快なツッコミ」に終始してしまっている。感情名やツッコミだけで進み、身体反応や行動に変わっていない心理描写は、人物の内面が読者に届きにくくする原因となるのだ。
速度感のある動作文と台詞の応酬によるエンタメ的カラテは実際強い。しかし、場面に作用する重厚な心理描写(身体反応)が過剰な軽口に食い破られているため、文章が「読者に人間ドラマの圧力を渡す」という本来の役割を果たしきれていない。 重要な山場においてはツッコミを意図的に封印し、葛藤や恐怖を「身体反応」として地の文に刻み込むインストラクションを徹底すれば、読者の没入感はさらに跳ね上がるだろう。オタッシャデー!
という訳で真面目に言うと「ニンジャスレイヤー」は二本も要らない。しかも差別化が達成できたうえで類似性が高いものと言えば「忍者と極道」で、どっちも濃い。ここに辿り着くのは中々難しい。更にここで味は濃くないものの「チェンソーマン」も一応同じ系列に並んできて、ドラマの強化をしたら競合負けとどの道を選んでもかなり酷、というかなりハイレートな戦いを強いられることになる。
ここで必要なのはやはりキャラだ。主人公のキャラが足りない。先の忍者関係の二作はモブの方が有名で、チェンソーマンは少し距離が遠い為要素的に狙うべきである。主人公がそれ以上の「濃さと爽快さ」を持たねばならない。そのポテンシャルが爆発しているのが、最新の展開である「空中城塞へのカチコミ」で、周囲のキャラクターのクセに対して対抗できるほどの理不尽な善意である。
しかしまだ刺さらない、行動は刺さるが言葉が刺さらない。漫画のコマでない以上言葉でどれだけ補えるかが大事である。
良いムードがギャグと横槍で台無しにされる、例えば、桜が傷ついた魁人を膝枕し、初めて【再生治癒機能】を使うシーン。非常に良い雰囲気で、魁人も「桜の初めての相手」であることにドキドキしていますが、直後に「実は初めて使った相手は担任の岩尾先生だった」というオチがつき、甘いムードが完全に破壊。 また、デート中の喫茶店(撫子庵)で良い雰囲気になりそうな場面でも、後藤長官が乱入してきて魁人の首に大太刀を突きつけるという命懸けのコントが始まってしまい、ラブコメが中断されて…。
最大のラブイベントが「悲恋のシリアス」に食われている。夜の公園で、ついに桜が「好きだよ、カイちゃん……」と告白する作中最大のラブイベントがあるものの、しかし、この場面は【英雄保護プログラム】によって桜が人間としての日常を奪われ、二人が今生の別れを迎えるという、あまりにも悲痛でシリアスな文脈の中で行われる。そのため、読者は「甘いラブコメ」として楽しむ余裕がなく、息の詰まるような切なさに覆い隠されてしまっている。
周囲のキャラの「過去の重さ」に主人公が負けかけている。無頼結社の玲司は「実の親に妹を売られ、地獄の底から妹を取り戻す」という壮絶な過去を持ち、一心は「両親を殺され、自身も人間を辞めて機械の身体になり、復讐のためだけに生きている」という重い業を背負っていり。 これら周囲のキャラクターたちのドラマが血生臭く、そして濃すぎるため、魁人が桜とイチャイチャしたいという「ラブコメ的欲求」の尺が削られ、埋もれがちになっている。
これは多い手法ではあるが、焦らしである以上別に高評価になる要素ではない、次に高評価を得るための伏線になるのだ。そのアンサーが出せない状態で百話程度なのに三か所もあるのはいただけない。
また、この手合いは増えているのでダメに働いた例として『人造人間100』で自分の上司の死に際にギャグシーンを挟み生死を曖昧にししかも死んだのにちょっとしか触れない…ということがあり、それをしないリスクはない。
特に九十二話から九十三話にかけて、怪人専用のVRシミュレーター(マグナ・レガリア)の中での出来事だったことが明かされ、魁人たちは「……クソゲーだったな」「レビュー欄に死にゲーとは書いてあったが、ここまでとはな……」と、ただのゲーマーの愚痴として消費とここの書き方からしていつでも起こしうる、と私は考えている。
現時点で私の評価は差別化の少なさ、キャラ魅力を削ぎ落すシーンが発生しうるリスクから商業においてこれがアキレウスの踵になりうる、と考えている。




