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白黒出版・白版~本が売れない時代だから出版を考える~  作者: 伊阪証


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18/31

『プルチックの瞳』のレビュー

https://kakuyomu.jp/works/2912051600284025326


『プルチックの瞳』は、題材の取り合わせが強い作品である。感情を色として見る岩倉優雨と、こちら側の視線を感じ取る神崎怜菜という組み合わせは、青春小説の距離感とメタフィクションの不穏さを同時に持っている。万物研究会という器も良い。形而上学、幽体離脱、共感覚、次元、観測者という散らばりやすい題材を、放課後の研究発表として扱えるため、理屈の重さを学園の空気へ一度落とせる。神崎怜菜が主人公だけでなく、その向こう側にいる観測者まで感じ取る構図も魅力的である。普通のヒロインは主人公に見つけられて物語へ入るが、神崎は読者の視線まで感知してしまう。ここには恋愛、SF、ホラー、哲学的な不安がまとめて入る余地がある。タイトルの「プルチック」も、感情の色と心理学的な分類を接続する看板として働いており、設定、題名、終盤の種明かしを一つに結ぶ力がある。

作品としての設計も悪くない。読者は安全な外側から物語を読んでいるつもりでいるが、作中人物がその視線に気づき、最後には見返してくる。この反転は、成功すればかなり強い読後感を生む。岩倉の共感覚は、人間の内側を色として見る能力であり、神崎の観測者感知は、物語の外側を見る能力である。内側を見る少年と、外側を見る少女が出会う構造は、作品全体の骨格として美しい。各人の研究テーマがばらばらに見えて、最後に「観測者」へ収束する流れも、知的な謎解きとして引きがある。ここまでは、企画としてかなり強い部類である。

ここから作品としての評価に入る。この作品は、構造と素材の強さに対して、結末で神崎怜菜という人物の欲望を成立させ損ねている。読者を観測者にする発想は強いが、観測者に気づいた少女が、最後に何を望むのかが浅い。「私という存在を忘れないで」は、余韻としては綺麗である。しかし、この作品が扱ってきたものは記憶ではなく観測である。記憶は過去に保存する行為であり、観測は対象との関係が現在に発生する行為である。そこを混同すると、作品が積み上げてきた理屈と、最後の台詞が噛み合わなくなる。

根本的な問題は、学問を哲学的な雰囲気の装飾として扱ってしまっている点である。物理学や数学は条件を置き、その条件で何が起きるかを詰め、最適な証明や説明へ近づくための理論である。それを改変、省略し宗教化してしまったことである。

哲学にそんな実践知識持ち込むなよって言われたら先ず哲学に物理学持ち込むなよ、これを念頭にして言うと、シュレーディンガー方程式の波動関数ψの内容が本人も理解できなかった頃にマックス・ボルンによる確率解釈を挟んで最終的にボーアのコペンハーゲン解釈として物質は波である、から物質は粒であると観測前後で変化してしまうことと収束した。観測前後で変わるのは、そこにある量子の振る舞いや状態の記述であって、「見られなくなったら存在そのものが消える」という話へ雑に飛ぶものではない。そんな劇場版限定キャラ並みにあっさり消えるのかお前は、となる。

だから、この作品が本当に観測を使うなら、「読者が見ている時と、見ていない時で、神崎に何が変わるのか」を物語の仕組みとして決めなければならない。

もし神崎怜菜が変わりたい人物であるなら、結末は「忘れないで」ではダメだ。そもそも哲学という学問が自己完結、自己満足、自己研鑽を多く含むものであってそれが他者依存の形になったらそれは哲学として価値があるのか?となる。

彼女は、一度本を閉じられたあと、数年後にもう一度読まれることを望む。そのパターンであれば同じ文章でも、読者は時間によって変わる。読者が変われば、神崎の瞳に映る感情も変わり、神崎という人物の受け取られ方も変わる。これは再読そのものを観測前後の差として使える構造である。「いつか変わったあなたで、もう一度私を見て」なら、観測の仕組み、哲学思想、キャラクターの願いが同じ方向を向く。

逆に、神崎怜菜が変わりたくない人物であるなら、やはり「忘れないで」では足りない。彼女は「ずっとここにいて」と読者を縛り付け、ヤンデレ化に突っ走るべきである。読者が本を閉じ、時間が流れ、別の経験をして戻ってくることを拒む。今この瞬間の自分を固定するために、読者の視線を保存装置のように扱う。そうすれば、学問をきちんと学ばず、観測を自分に都合よく解釈した人物が、その誤解によって失敗する因果応報になる。これはこれで作品として成立する、それも痛い位に。

現状の「忘れないで」は、そのどちらにも行けていない。変わりたい願いにもならず、変わりたくない執着にもならず、神崎怜菜の自己満足にすら届いていない。自己満足なら自己満足で、もっと欲望を出す必要がある。「私を見て」「もう一度会って」「ここにいて」「閉じないで」なら、読者へ手を伸ばす人物の欲が見える。しかし「忘れないで」は、神崎の欲というより、作者が綺麗な余韻として置きたい言葉に見える。

したがって、この作品の根本的な欠陥は、「読者を観測者にしたこと」ではない。「観測者に気づいた少女が、観測前後で何を変えたいのか、あるいは何を変えたくないのかを書かなかったこと」である。題材は強い。構造も強い。神崎怜菜も強い人物になれる入口を持っている。だが最後の一言が、学問にも、哲学にも、キャラクターの欲望にも届いていない。『プルチックの瞳』は、観測者の物語を作ろうとして、観測される少女の願いを書き切れなかった作品である。

確かに都合の良さはいい、救われてこその教えだ。しかしそれが本来の用途目的から逸脱していることを記せないとそれはただ偽物の教えを広めたに過ぎない。それが救いになればいいとは思うが、それが忘れられたら消滅するという落差付けて救済を立たせるとなるとその本来の学問は消滅を予見したものである、と泥を塗ってしまうことになる。だからあまり肯定的になれない。


おまけ 簡略版量子力学

量子力学が成立したのは、ひとつの疑問からである。原子はなぜ崩壊しないのか。ラザフォードの原子模型では、原子核の周囲を電子が回っていると考えられた。しかし古典電磁気学に従えば、加速しながら動く電子は電磁波を放ち、エネルギーを失い、やがて原子核へ落ち込むはずである。にもかかわらず、現実の原子は安定して存在している。この矛盾が、古典物理だけでは世界を説明できないという最初の大きな傷口になった。

手がかりになったのは、原子が放つ光である。特定の物質を熱したり、電気的に励起したりすると、物質ごとに決まった色の光が現れる。これを細かく分けて調べると、連続した虹のような光ではなく、決まった位置にだけ現れる線、すなわちスペクトル線が見える。バルマーは水素のスペクトル線に規則性を見つけ、ボーアはそれを原子模型の中で説明しようとした。電子はどこでも自由に回れるのではなく、許された状態だけを取る。そこから外れたとき、電子は特定のエネルギー差に対応する光だけを出す。原子が出す光は、原子の内部が連続ではなく、とびとびの値を持つことを示していたのである。

しかし、そこで別の疑問が立ち上がる。光とは何なのか。ニュートンは光を粒として考え、ホイヘンスは波として考えた。さらにヤングの二重スリット実験は、光が波のように干渉することを示した。一方で、黒体放射や光電効果の研究は、光が粒のようにエネルギーの塊として振る舞うことも示していた。光は粒なのか、波なのか。その問いは、古典物理の言葉では簡単に片付けられなかった。

その対立をさらに押し広げた人物が、ルイ・ド・ブロイである。彼は一度は歴史を学びながら、物理へ戻り、博士論文で物質波仮説を示した。光が粒と波の性質を持つなら、電子のような物質もまた波の性質を持つのではないか。ド・ブロイの考えはアインシュタインにも高く評価され、やがてノーベル賞へつながった。ここで量子力学は、光だけの奇妙な話ではなく、物質そのものが粒と波の二重性を持つという段階へ進んだ。

だが、電子を古典的な小さな球として想像し続けると、また破綻が起きる。電子のスピンを本物の自転として考え、表面が回っているように計算すると、光速を超えるような無理な値が出てしまう。つまり電子は、小さな球が実際にぐるぐる回っているものではない。スピンとは、量子が持つ固有の性質であり、古典的な絵に無理やり押し込むと意味が壊れるものなのである。

この新しい世界を数式で扱うために、二つの大きな道が現れた。ひとつはハイゼンベルクの行列力学であり、もうひとつはシュレーディンガーの波動力学である。行列力学は、観測できる量を行列として扱う形式で、抽象的ではあるが量子のふるまいを正しく捉えていた。一方、シュレーディンガー方程式は波の形で量子を表し、微分方程式として扱えるため、当時の物理学者にとって理解しやすかった。そのため、シュレーディンガーの形式は広く受け入れられていった。

しかし、シュレーディンガー方程式にも問題があった。そこに現れる波動関数Ψが、結局何を意味するのかが明確ではなかったのである。波動関数は物質そのものの波なのか、それとも計算上の道具なのか。この疑問に対し、ボルンは確率解釈を与えた。Ψそのものが確率なのではなく、Ψの絶対値を二乗したものが、量子がどこに現れるかの確率分布を示す。ここで量子力学は、物の位置や運動を決定済みのものとして語るのではなく、観測されたときにどの結果がどれくらいの確率で現れるかを語る学問になった。

さらにハイゼンベルクは、不確定性原理を示した。電子の位置と運動量を、同時にいくらでも正確に知ることはできない。これは測定器が粗いから見えないという単純な話ではなく、量子の性質そのものに関わる制限である。ボーアはこうした考えをまとめ、相補性や観測の役割を含むコペンハーゲン解釈へ進めた。粒としての説明と波としての説明は、どちらか一方だけが本当なのではなく、実験の仕方によって現れる側面が変わる。量子は観測される前から、古典物理の物体のように位置も運動も完全に決まっているわけではない。

この考えに、アインシュタインは強く反対した。彼は、世界は本来もっと決定論的であり、量子力学はまだ何かを見落としているのではないかと考えた。そこでアインシュタイン、ポドルスキー、ローゼンはEPR論文を発表し、量子力学は完全な理論なのかという疑問を突きつけた。この問題はすぐに終わらなかった。ボームが議論を扱いやすい形へ整え、ベルが局所隠れ変数理論なら満たすべき不等式を示し、アスペらの実験がその破れを確認していった。アインシュタインの反論は敗北したというより、量子力学の深部を掘り進めるための巨大な問いとして受け継がれたのである。

その後も量子力学は終わらなかった。観測とは何かを意識と結びつけて考えるノイマン=ウィグナー解釈、情報の性質として量子を扱う量子情報理論、不確定性原理の測定誤差と擾乱の関係をより精密に組み直す小澤の不等式など、問いは形を変えながら続いている。量子力学とは、最初から奇妙な神秘を語るための学問ではない。原子がなぜ壊れないのか、光は粒なのか波なのか、電子はどこにあるのか。その素朴な疑問に、古典物理が答えきれなかったところから生まれた、世界の見方そのものを作り変える学問なのである。



おまけのおまけ

ごめんなサイエンス

許しテクノロジー

すまんナノテク

申し訳ナトリウム

友人から教えてもらった奴。いつ使えと。

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