『JAWS SQUALL』のレビュー
https://kakuyomu.jp/works/16817330649690081620
サメ映画から逃げたらサメ小説読まされた。
小説として見ると、『JAWS SQUALL/晴れ時々サメ』は発想の方向性自体は分かる。空からサメが降る、サメ雲が出る、量子力学もどきで現象を説明する、ジョーズのスキューバタンク爆破をSNS拡散と集団認識で再兵器化する。この流れは、サメ映画の記憶を小説へ持ち込もうとしている。ただし、小説は映像の一撃を持たない。サメが画面に落ちてくるだけで笑える映画と違い、活字では読者の頭の中へサメを発生させなければならない。そのため、サメ映画を小説化した時点で作品は弱体化しており、文章、理屈、言葉遊び、制度の侵食、キャッチーな入口で補わなければならない。
人物の変化や人間ドラマは薄いが、そこは大きく責める場所ではない。サメはそれを許容する。この作品は、人物の信念や代償を積み上げる作品ではないにだ。
問題は、人間ドラマが薄いことよりも、その代わりに置いたサメ映画の理屈とフックが、現代のサメ消費に対して十分に強いかどうかである。今は、がうる・ぐら、エレン・ジョー、Chao!、ビームのように、サメという素材がサメ映画以外にも世間的に確立、サメはサメ映画に囚われず世に憚る様になった。そこまで御膳立てされている時代に、「空からサメが降る」と「シャークネードのパロディ」で止まるなら、少し興醒めというものだ。
サメ映画として本来用意できたフックは、もっと多かった。たとえば、気象庁が降鮫確率を発表する、保険会社が魚介類落下特約で揉める、漁協が空を漁場として申請する、軍がミサイルではなく巨大釣具を配備する、SNSがサメ恐怖を増幅する、気象レーダーを魚群探知機として読む。こういう形で、サメが社会制度、専門用語、日常語、職業倫理を噛み砕いていけば、小説だからこその馬鹿になる。映像で見せられない分、言葉と制度をサメに食わせるべきだった。サメは賢いのだ。
特に量子力学を使うなら、もっと真面目にふざける必要がある。サメ映画の科学は、「なんか量子力学です」で済ませるものではない。観測問題、重ね合わせ、デコヒーレンス、集団認識、恐怖の伝播、映画記憶の同期まで、途中式だけは異様にきれいに組む。そのうえで、「量子力学には漁師力学で勝つしかない」と踏み外す。
サメ映画のあるべき姿は、サメ映画を馬鹿にして作ることではない。馬鹿になることでしか作れない。ただし、その馬鹿は知性を捨てることではない。知識を総動員し、途中式を完璧に整え、解答が合っていそうな凄みを作ったうえで、最後の一歩だけを堂々とサメへ踏み外す。その覚悟がないと、サメ映画ではなく、サメ映画を馬鹿にした作品になる。作者自体がサメ映画に寄生するコバンザメになってしまうのである。
まとめるなら、『JAWS SQUALL/晴れ時々サメ』はサメ映画パロディとして最低限の形は持っている。しかし、現代ではサメという素材そのものが既に広く開拓されており、小説化による弱体化も背負っている。その条件で勝つには、「サメだから許される」では足りない。「ここまで世間がサメを育ててくれているのに、その程度のサメで済ませるのか」という物足りなさが残る。




