第三十五話 ハジメ、クラウディオと友達になる
ギルドの医務室にクラウディオさんは居なかった。
治療師さんの静止を振り切って家に帰ったらしい。
わたしは急いでギルドを飛び出した。
広場を抜けて、息を切らせながら宿舎の玄関扉を潜ると、入り口には香辛料が混ざり合った複雑な香りが漂っていた。
……なにやってんだ、あの人。
階段に向かうのをやめて共同キッチンを覗くと、こちらに背中を向けて、腰から翼の生えた大男が鍋をかき混ぜていた。
ゆっくり近づく。
クラウディオさんは身体を揺らすような低音で、鼻歌を歌っていた。
「なにしてんの?」
『心配してたんだよ』
そう思って投げかけた声は自分でも驚くくらい尖っていた。
「うわあっ!?」
驚いて振り返ると、こちらを見るなり、頭を下げた。
「す、すみません、昨日は倒れてしまって」
「いいよそんなこと。また倒れたらどうすんの?」
真正面から見上げて睨みつけると、クラウディオさんの苦笑いで緩んだ口元が、どんどん引き締まっていった。
「あっ……ごめん、怖い顔してた?」
「いえ、なにかやってないと……その、落ち着かなくて」
「それが、カレーなの?」
まな板の隣にレシピ帳が置かれている。
母ちゃんのカレーの味を目指してクラウディオさんがメモを取り始めたんだ。
文句をいっぱいつけて三冊目になったそれを見ていると、なんだか胸が痛くなった。
「ちょっとスパイスのバランスを変えたんです。お母様と比べてどうですか?」
差し出された小皿を受け取って味見をすると、500円くらいの高級なレトルトカレーの味がした。
食べ慣れた市販のカレールウとは違う。
香辛料の強い香りが鼻腔を抜けて、頭に爽やかな風が通ったようだった。
「うん、ずっと言えなかったけど――全然母ちゃんの味じゃない」
「そっ、そうですか」
「でも美味しいよ。クラウディオさんのカレー、好きだよ」
母ちゃんの代わりなんて、もうしなくていい。
そんな気持ちを込めてお皿を返した。
上手く笑えているだろうか。
自分じゃわからないけど、受け取ったクラウディオさんは哀しげに目を伏せていた。
部屋に帰って二人でカレーを食べる。
迷宮探索のスケジュール、防具の仕立て、用意した話は予定調和のように消費されていく。
会話の間を埋めるように、口にカレーを運ぶ。
咀嚼音とお皿にスプーンが当たる音が、痛いほどの沈黙を浮き彫りにしていた。
気がついたらお皿は空っぽになっていた。
わたしはスプーンを置いて軽く息を吐いた。
「……おかわり、よそいましょうか?」
「いや、いいよ」
クラウディオさんは目を細めて穏やかそうに頷いている。
でも、わからないんだ。
医務室で暴れたインキュバス。
初日に同意書にサインをした使い魔。
見慣れた優しい笑顔をたぐった先に、知らない誰かがいる。
どれが本当のこの人なんだろう。
ラベルを剥がして目の前の人を見てみたら、わたしはなんだか――怖くなっていた。
椅子にもたれかかって正面を見ると、クラウディオさんは慌てて、わたしの空っぽのお皿に視線を流した。
「――ふふっ」
「ハジメさん?」
そうか。
この人、ずっとこんな気持ちだったんだ。
吹き出したわたしを訝しげに見てくる瞳、それをじっと見返すと、クラウディオさんの肩が少し動いて、焦点が後ろにぼけたのがわかった。
思わず口端が引きつった。
怖いよ。
言いたくない。
でも、言わなくちゃ。
「クラウディオさん――わたしのこと怖い?」
「――っ!」
「久しぶりに、目が合ったね」
「ハジメさん……」
わたしたちは、よく似ている。
立ち上がって窓際に向かう。
窓を開け放つと、部屋に充満したスパイスカレーの香りと入れ替わるように、新鮮な空気が吹き込んできた。
窓台に置かれた多肉植物が目に入る。
水をあげすぎたせいか、肉厚の葉が数枚、抜け落ちていた。
「わたしなら怖いな。友達が自分のこと父ちゃんだって呼んできたら」
「わ、わたくしは頼られて嬉しいですよ!」
クラウディオさんは椅子から立ち上がってわたしの肩を掴んだ。
目は逸らされなかった。
「うん。でも、そいつが今度はあなたは母ちゃんだ、弟だって言い出したら?」
唇が震えている。
言葉にすると、今まで目を背けていたものが形になっていく。
「わたくしは大丈夫ですよっ!」
「……二人でそれぞれエッチなことやろうって言い出したら?」
クラウディオさんの顔が歪み、肩を掴む手に力が入った。
――わたしはずっと、この人を『一人エッチ』に使ってたのかもしれない。
「――それでも、わたくしは……嬉しかったんです。
奇跡みたいないい人がわたくしを呼び出してくれた。
あなたの役に立てるなら、もう独りぼっちじゃないなら、いくらでも力が湧いてきたんです」
クラウディオさんはわたしにいっぱい水をくれたけど、わたしも同じことをした。
寂しがり屋のこの人に、たくさん役割を貼り付けた。
「ごめんね、クラウディオさん」
力なくうなだれる気弱なインキュバスが目の前にいる。
「ううん、ごめんね――クラウディオ」
ラベルだらけで見えなくなって、わたしはこの人には名前をつけてあげなかった。
「いっぱい謝るから、わたしとやり直してくれない?」
「リロール?」
「クラウディオ、わたしのことはハジメって呼んでよ」
わたしは体を直角に曲げてお辞儀をして、右手を正面に差し出した。
下げた頭、目線の先、ハイカットのレザーブーツがたじろいだ。
「わたしと仲良くしてください」
息を呑む音が聞こえた。
窓の外から広場で遊ぶ子供たちの声が届く。
クラウディオはなにも言わない。
頭になにかがよぎった。
……そういえば、なんで初日に同意書にサインをしたんだろう。
足元が崩れたような感覚がした。
――わたしは選ばれる側なんだ。
伝った冷や汗がパタリと床に落ちた瞬間、大きな手がわたしの手を握った。
「クラウディオ=ベネディクトゥスと申します」
喉に支えた空気がゆっくり抜けていく。
手を強く握り返して、思わず座り込んだ。
自分で自分のことに驚いた。
なんで当たり前みたいに手を取ってくれると思ったんだろう。
わたし、めっちゃイタイじゃん。
自分のバカさ加減にクラクラしていると、手を握ったままのクラウディオは膝をついていた。
俯くわたしの上から声が降ってくる。
「……インキュバスなもので、めちゃくちゃエッチです。
それでも大丈夫ですか?」
「――ええ?」
クラウディオは初日の夜に、どうしても我慢ができずに、眠るわたしの胸の谷間をコッソリ覗き込んでしまったらしい。
そして罪悪感に駆られて、そのままギルドに走り込んだ。
……マリちゃん、ラウラさん、こいつには本当に価値があるんですね。
わたしは少し考えたけど、すぐに笑ってしまった。
「うん、大丈夫……多分ね」
わたしの友達はエッチな人が多い。
みんないい人だ。
どっちかわからないけど、お腹が鳴った。
二人でカレーのおかわりをした。
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