第三十二話 インキュバスおじさん、オーバーヒートする
まぶたがひくつく。
窓から光が差し込んでいるんだ。
瞳孔を庇うようにゆっくりと目を開くと、木目の鮮やかな壁が視界いっぱいに広がっていた。
わたしはシミーズ一枚、背中が寒い。
クラウディオさんはいない。
どこに行ったんだよ、あの人は。
起きたらわたし一人なんておかしいじゃん。
気だるい体に鞭を打ってベッドから立ち上がる。
窓の外にはいつもの広場にバザールが活気を出していた。
窓際の作業机には、ルーン入れ途中の金属板が転がっている。
作業が終わったら仕立て屋に持っていって、ビッグボアの毛皮と一緒に毛皮鎧に仕立ててもらうんだ。
インゲルさんならかっこよくしてくれるはず。
窓枠の凹んだところに鉢植えが飾られている。
ホームセンターに売っている300円の多肉植物みたい。
クラウディオさんが毎日お水をあげている。
やりすぎたら毒だと言っても、あの人はお腹が空くと可哀想だからってじゃぶじゃぶとジョウロを傾けていた。
そうだ、あの人どこいったんだよー!
「クラウディオさーん!」
シャワールームを開ける。
いない。
あっ、昨日背中を流してあげたんだ。
可哀想なくらいガチガチになってたなあ!
「どこー!」
トイレにもいない。
どこに行ったんだよ、しょうがないなあ。
ドアを開けて廊下に出る。
長い廊下の向こうから少し風が入ってきている気がする。
下着一枚じゃ少し肌寒いけど、クラウディオさんを探さなきゃ。
階段をゆっくり降りていくと、階下からどこか懐かしい匂いが立ち上がってきた。
わたしは嬉しくなって、サンダルをパタパタいわせながら段差を駆け降りる。
一回に降りて共同キッチンに立ち入ると、焦げた醤油の香ばしい香りが鼻腔をくすぐった。
「チャーハン!」
魔素コンロの前でレザージャケットを着た大男が鍋を振っていた。
豚油とネギ油の煙が部屋いっぱいに広がっている。
「あっ、おはようございます――ってなんですかはしたない!」
はしたないってなんだよ、いつも見てるくせに。
こっちはわかってんだからね!
頬を膨らませて背中に抱きつく。
行き場を失った胸の肉が上に押し上がる。
下着の胸元が上に引っ張られて裾が上がり、お腹がさらされてスースーする。
「……っ」
大きな体が氷のように固まった。
尻尾の先のハート型の穂先が細かく震えている。
ふん、後でまたいじめてやる。
でもそれより!
「おなかすいたよう」
「はいはい、今できましたからね」
クラウディオさんがわたしの前にチャーハンを盛ったお皿を置いた。
卵をまとって金色に輝くお米粒から湯気が上がっている。
お米と、ネギと、レタスと、卵、あとほぐしたお肉!
スプーンで口元に運んで頬張ると、懐かしい味に思わず顔が綻んだ。
わたしが倒れてから、クラウディオさんは毎日料理を作っている。
味の感想をメモを取って、材料を見直して、トライアンドエラーを繰り返した。
「うん! 母ちゃんの味だよ」
「――やったあああ!」
エプロンを着たおじさんが目の前で飛び跳ねている。
わたしは内心頷いた。
――なんだ、ここでも母ちゃんのチャーハン食えるじゃん。
それに、ヒカルも料理を褒めたらこんな感じで喜んでたなあ。
――可愛い弟だってここにいる。
「いっぱい食べて、ゆっくり休んでくださいね。また元気が出たら――迷宮に行きましょう!」
クラウディオさんはニコニコ笑いながらわたしを見ている。
でも焦点があってないね、面接じゃないんだからさ。
なにか緊張することでもあったの?
「……迷宮ねぇ」
もう一週間、わたしたちは地上でダラダラしている。
一度も迷宮に潜ってはいない。
気合いの入らないわたしに火をつけようと、健気なクラウディオさんは試行錯誤の毎日なんだ。
「いいよ」
「――ええっ!」
「でも――おやつはいっぱい食べるからね」
「……」
「いいじゃん――わたしを家に帰してくれるんでしょ?」
「絶対にお家に帰して差し上げます! ですが……もうおやつはありません」
「言った! また言ったな!」
にらみつけるわたしから目を逸らして天井を見ている。
あの日から、クラウディオさんは淫魔の食事を取らなくなった。
わたしのレベルを吸っちゃうからだって。
「ねえ、クラウディオさん。あなたは――なにが楽しみで生きてるの?」
「――え?」
「わたしはクラウディオさんとおやつを食べること。あなたに髪を撫でられながら眠るのがわたしの幸せ」
「あ、あなたの望みは、お家に帰ることです!」
「それは……そうだね……うん、そうだった。
でもおやつも好きなんだよ」
わたしの幸せ、取らないで。
あなただって、あんなに好きだったじゃん。
わたしはクラウディオさんの腰に手を回して尻尾を掴んだ。
穂先に近づくほどに細くなっていくそれに、指先を滑らせると、クラウディオさんが苦しそうにうめいた。
腰に抱きついたわたしのお腹の辺りになにかが当たってる。
「頑張って迷宮に行くからさ、おやつも食べていいでしょ?」
「……いえ、それではあなたが強くなりません」
「じゃあじゃあ、おやつは控えめにしてちゃんとレベル上げるから! お家に帰らなきゃいけない、あなたの言う通りだよ」
「……帰るために頑張る。そうですよね?」
「もちろんだよ。だから、おねがい……ね?」
厚い胸板を撫でながら視線を上げる。
クラウディオさんは眉をしかめたままなにも言わない。
わたしは目を閉じて相棒の心臓の音を聞いた。
心地がいい。
肩の力が抜けて、柔らかい吐息がこぼれた。
わたしは別に、ここで突っ立って一日終わったっていいんだよ……なんて、思ってしまう。
クラウディオさんと目が合った。
苦しそうに顔を歪ませて、ゆっくり首を横に振った。
「……迷宮に、行ってくれるなら」
「あっ、ありがとう! とうちゃ――、あ」
「――え?」
耳から聞こえる心音が、跳ね上がった。
クラウディオさんは、言葉を失ったまま立ち尽くしていた。
太い喉から掠れたような呼吸が聞こえてくる。
「ん? ごめん、なんか間違えたよ、ハハっ!」
わたしいまなんて言おうとしたんだろう。
……まあ、いいか、クラウディオさんのことが大好きなのは本当だよ。
お腹に感じていた塊が、どんどん柔らかくなっていく。
視線を上げると、クラウディオさんが涙を流していた。
昼から迷宮に入った。
クラウディオさんはおやつを取ることなく20階層まで駆け抜けた。
階下に行こうとする背中に抱きついて、ヌルヌルになった尻尾の先端を掴んだ。
「約束したよね?」
「……でも」
「弱気なわたしは嫌いなの?」
お腹を空かせたわたしの中の弱いわたし。
クラウディオさんはたくさんご飯を食べさせてくれた。
ここまで育ててくれたじゃん。
「ごめんなさい……ずるいね、わたし」
その言葉に、羽をびくりと震わせると、大きな背中がどんどん丸まっていった。
わたしの手から尻尾が滑って抜けていった。
振り返ったクラウディオさんがわたしを抱きしめた。
革鎧が軋んで、少し息苦しい。
わたしも後ろに手を回して、鼻を少し啜った。
向かい合っておやつを食べるわたしたち。
クラウディオさんを見る。
クラウディオさんが、見てる。
でも、お互いなにを見てるんだろう。
――あげて、受け取って、それでこそイイ!のですわ!
わたしたちの、あげるばかり、受け取るばかりの一人遊び。
――一人でやっても、巡りません。
……でも、家族とそれは……ダメじゃん。
わたしは目を逸らすように、クラウディオさんから焦点をぼやかした。
頭を撫でてくれる優しい手が強張った気がした。
目を覚まして手をゆっくり握る。
さっきまであったみなぎる力が、体から消え去っていた。
帰還の魔法陣を踏む頃には槍が重くって、インベントリにそっとしまった。
買取カウンターから立ち上がると、ヒルダさんが書類をまとめながら聞いてきた。
「少し休まれてはいかがですか?」
「うーん、そうだなあ」
「――あなたには聞いておりません」
ねむたげな視線の先を辿ると、クラウディオさんの顔があった。
いつも通りの穏やかそうな顔。
ヒルダさんが繰り返し声をかけた。
「クラウディオさん?」
「……」
「クラウディオさーん!」
「……は、い」
ほんの一瞬、焦点の合わない目が、わたしの横を見ていた。
なんだいつも通りじゃん。
首を傾げながらヒルダさんに目線を戻した瞬間、隣からうめく声がして、クラウディオさんは――カウンターに倒れ込んだ。
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