第三話 インキュバスおじさん、卵から出る
まぶたの向こうに光を感じる。
朝が来たのかもしれない。
ハジメは恐る恐る目を開けて、皮肉げに口元を歪ませた。
目の前には我が家の土壁ではなく、木目のはっきりした木製の壁が広がっている。
瞬きをすると、昨日の涙の跡が目尻にへばりついているのがわかった。
……夢じゃない。
ズン、と憂鬱な気分が頭をもたげてくる。
だが昨日の自分と約束した。
ハジメは胸いっぱいに空気を吸い込んだ。
「――やるぞーっ!」
ジメジメしていてもいいことなんてない。
壁に向かって叫んだ声が跳ね返って、暗いモヤを吹き飛ばした。
シーツを取り払おうとして、ハッと思い出す。
お腹の辺りから軽い振動を感じる。
ゆっくりシーツをめくると、真っ白だった卵はいつのまにかピンク色がかっていて、ふるふると震えている。
まだ割れていないが今にも孵化しそうな気配を感じる。
力を入れすぎないようにやんわりと抱きかかえ、ベッドの縁に移動した。
ゆっくりと立ち上がって窓に向かい、広場の様子を伺う。
屋台はなくなっているが、入れ違うようにバザールのテントが張られていた。
人はまばらでまだ早朝といったところ、卵を温め出してちょうど半日くらいだ。
そろそろ孵化するはず。
ベッドに座り直して、膝上に卵を置き両手をすり合わせた。
ハジメは基本的に神頼みはしない。
行動あるのみが自分のスタイルだ。
ぼーっと神様の助けを待ってなんていたら、一家はとっくに崩壊していた。
ただ今は違う。
自分にできるのは祈ることだけ。
「いいの出ろっ! いいの出ろっ!」
毎年千円入れたよねえ!
貧乏学生の、汗に塗れた千円札を毎年さあ!
少女の期待に応えるように卵が鼓動を打つ。
一筋、二筋と稲光のような亀裂が走り、光が漏れ出してくる。
「う、うわあっ!」
卵が太ももの上から一人でに浮き上がった。
部屋の中を漂ってゆっくり回りながら亀裂を増やしていく。
殻が音を立てて剥がれて、床にポロポロ落ちていく。
床に落ちた殻が白い煙に変わって部屋にドンドン充満していった。
部屋の中央に移動した卵が一際強い光を放って部屋を真っ白に染め上げた。
手のひらをかざしながら煙の向こうのシルエットに目をやる。
大柄な人の影、頭部の左右から大きな角が上に向かって伸びている。
「ひ、人型だーっ!」
昨日ヒルダが指を立てて教えてくれた。
――人型は当たりです。
エンジェル、オーガ、デーモンは勿論、オークやゴブリンだって十分強いらしい。
寝起きの乾いた口角が、期待を抑えきれずに上がっていく。
空手一筋なもので、種族を言われても全くわからなかったが、とにかく当たりは当たりだろう。
神様ありがとう!
そうだよ、こっちは五十鈴神社に毎年千円納めてるんだ!
光の中心から風が吹いた。
思わず立ち上がったハジメの長衣が大きくはためいて、煙がゆっくり晴らされていく。
人型のシルエットが露わになっていく。
ハイカットのレザーブーツにタイトなレザーパンツ、腰の後ろから蝙蝠のような羽が生えている。
肩幅の広い上半身はこれまた真っ黒のレザージャケットを素肌に羽織っており、鍛えているのかいないのか、絶妙なラインの脂の乗ったお腹が見える。
あっ、レザーパンツに少しお肉が乗っている!
見上げるほどの巨体。
四角い顔、困り眉に一重の垂れ目と目尻の皺、口から八重歯にしては鋭い犬歯と、ぼんやり走るほうれい線が特徴的だ。
ハジメの前に現れたのは、とても大柄なコスプレおじさんだった。
――に、人間? でも角は生えてるし……。
枕元のメモをめくっても、それっぽい魔物が見当たらない。
――わからないことは聞きなさい。
師範の教えを思い出して、ハジメは頭を下げた。
「あ、あの、デーモンさんですか?
それとも体がおっきいしオーガさんとか?」
「いえっ、わたくしインキュバスのクラウディオと申します」
大男は腰から伸びる尻尾の先端を手元に持ってきた。
尻尾の先はトランプのハートのような形をしている。
「あっ、わたしはハジメっていいます」
――インキュバス? なにそれ?
頭に湧いた疑問はさておき、挨拶はしっかり返す。
師範から一番最初に教わった、一番大事な教えだった。
にしてもインキュバス……インキュバス?
しきりにアゴをさするハジメを見て、なにか合点がいったのか、苦笑いしながら説明をしてくれた。
「サキュバスの男版と思っていただければよろしいかと」
そう言われても、そもそもサキュバスすら知らない。
ともあれ!
ヒルダから聞いた種族の中にはサキュバスもインキュバスもいないが、人型は人型、強いに違いない。
「クラウディオさん、わたし迷宮で願い事を叶えなくちゃいけないんです。助けてくれますか?」
「えっ!? あ、えーとですね」
「お願いします、人型の使い魔は強いって聞きました!」
「ううっ」
勢いよく頭を下げるハジメ。
長衣の胸元が緩んで谷間が露わになる。
大男は慌てて自分の目に手のひらを被せて、もう片方の手を突き出した。
「わーっ! ハジメさん胸元、お気をつけ下さいっ!」
「えっ、うわっ! ごめんなさい」
急いで胸元を押さえる。
顔が一気に熱くなる。
両手でパタパタと風を送りながら、ため息を一つ吐いた。
昨日ヒルダに注意されたばかりなのにまたやってしまった。
それにしても、人も魔物も見た目にはよらない。
見た目が真っ黒で邪悪そうだが、インキュバスとやらは紳士な魔物だった。
感心していると、クラウディオは咳を払ってモジモジと話し始めた。
「……ご期待いただいているところ申し訳ありません」
「あっ、はい」
「インキュバスは魔術師タイプの大器晩成、いつの日かはそれなりになるでしょうが、序盤、中盤は明確にお荷物です」
「お、お荷物?」
「種族的に攻撃も回復も不得意です。ごめんなさい」
大きな体を小さく折りたたんで、二本の角が生えた頭を下げた。
「……回復も攻撃も? そ、そうなんですか?」
「はい、育成ルートにもよりますが、どちらも得意ではありません」
「でも! そ、その、立派なお体をされてますけど……」
目の前の大男はお腹こそ若干お肉がついているが、それなりにトレーニングしている人の肉体をしていた。
とても弱いとは思えない。
「わたくし体は大きいですが迷宮のステータスとは別の話です」
「……うーん」
こめかみにやった指をググッと押し付ける。
そういえばそんなことも言われた気がする。
「な、なにができる――いえごめんなさい、それではなにがお得意なのでしょうか?」
「阻害と支援ですが……覚えるのは遅いです」
「そっ、そっか、そっかあ」
頭をかきながら部屋を二、三歩歩く。
えーっと、どうしよう、思ってたのと違うかも。
長衣の裾で手汗を拭く。
わたしは家族のところに帰るんだ。
なんとかしないといけないんだ。
恥ずかしさで熱くなっていた頭が急速に冷えていく。
「ど、どうしよう、どうしよう」
ワンルームを歩きまわる自分の素足を見つめる。
一歩進めるごとに床が小さく軋むのがわかる。
「……落ち着け、落ち着け」
起き抜けでボサボサのショートカットが、もっとぐちゃぐちゃになっていく。
「えーと……がんばる……かえる……えーと」
ベッドの縁に腰掛けて、口を手で覆って、その指で頬を叩く。
手は痛いくらいに冷たくなっていた。
頭の中にまとまりなく映像が走っていく。
お腹出して眠るヒカル。
電気を消す母ちゃん。
冷蔵庫のおかず。
神社から見下ろす町。
師範の正拳突き。
色が落ちたウサギちゃんのペンケース。
マリちゃん、シホちゃん。
その全てが涙で滲んでいく。
「……うう……うううっ」
こぼれないようあごを上げる。
なんのコードも繋がっていない照明が光っている。
……ここは、どこなんだろう。




