第二十話 レベル1インキュバス、納得する
誰かに呼ばれている気がする。
声に応えるように体を動かそうとすると、徐々に自分が何者だったのか思い出した。
――クラウディオさん!
そうだ、わたくしはあの方の使い魔なんだ。
彼女の元に戻らなければ。
そう思った瞬間、視界いっぱいに広がる眩い光が、ゆっくりと引いていった。
気がついた時には、慣れ親しんだ301号室、そのベッドの際に立っていた。
鼻腔をくすぐるスパイスと油の香り。
テーブルと作業机いっぱいに、見たことがないご馳走が並んでいる。
スパイシーな香りの茶色いスープ。
赤いソースのかかった、こねた肉の塊。
卵と一緒に炒めたほんのり黄色いライス。
そしてエプロンを着けたハジメが、こちらに気づかずに鼻歌を歌って、どんどん料理を並べている。
料理が得意だと言っていた。
一階の共同キッチンで作ったのかもしれない。
主人の横顔には笑みが浮かんでいる。
ほっと胸を撫で下ろす。
5階層で最後に見た少女の顔は、今思い出しても胸が張り裂けそうなほど悲壮なものだった。
またあんな顔をさせてしまうなら、肉壁になるのもやめておくべきだ。
――神様、お願いします。わたしを助けてください。
ハジメさん曰く、そう卵に祈ったら、わたくしが出てきたらしい。
イスズさま――ハジメの神様に恥をかかせてはいけない。
選ばれた時の準備はこの二、三十年、欠かしたことはない。
ハジメさんがワイングラスを二つ、テーブルに置いた。
水よりワインの方が安いのだ。
それより、やっと手が空になった。
「ただいま帰りました」
「うわあっ!?」
そっと声をかけると、思った通り両手を上げて飛び上がった。
主人は足がもつれて転げそうになった。
急いで背中に手を回してフォローする。
胸元に引き寄せたハジメさんの、見開かれた目がこちらを捉える。
大きく開いた一重の瞳が、あっという間に水分で満たされていく。
「クラウディオさん?」
「ご迷惑をおかけしました」
「い、痛かった?」
「はい……でもハジメさんも、辛かったですよね?」
「……うん!……うん!」
ハジメさんの腕が背中に回される。
こちらも恐れ多くも手に力が入ってしまった。
「心配かけてすみません」
わたくしの涙がハジメさんのおでこに落ちると、見上げたハジメさんもポロポロと涙をこぼした。
二人で抱き合ってワンワン泣いた。
もう、迷宮には行かない。
ここからはわたくしは、地上でのフォローに徹する。
レベル1の身で着いて回って、またこの子にあんな顔をさせるくらいなら、前蹴りを喰らったっていい。
主人と使い魔、二人で迷宮に挑む。
……素敵な夢を見させてもらった。
あとは、ハジメさんを無事に還して差し上げるだけだ。
泣きすぎて熱くなった主人の頭をゆっくりと撫でる。
姿見に写った自分の顔は驚くほど穏やかだった。
なにを言われても曲げる気はない。
……それが嫌なら、卵交換してもらおう。
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