第十六話 ハジメ、新感覚に泣く
わーわーわー!
頭がクラクラして階段に座り込む。
胸がドキドキしている。
ひんやりとした階段の冷たさが、自分の身体の熱さを伝えてくる。
天井を見上げて、大きく一つ息を吐いた。
わからないけど多分……アレを、してたんだ。
まったく動悸は落ち着かない。
心臓が鳴るほどに、足の先からなにかが溜まっていっている感じがする。
息がうまくできない。
ハジメは体を抱え込んで強く目を瞑った。
まぶたの裏にさっき見た光景がこびりついている。
頭にモヤがかかったようだった。
無意識に手が伸びる。
静かな踊り場。
衣擦れの音。
知らないはずの感覚が、じわじわ身体の中に広がっていく。
――おかしい。
やめたいのに、体が言うことを聞かない。
「あう……あ、あ……」
指先が震える。
触れたところから、甘い痺れが広がった。
なにこれ。
やだ、こわい。
じ、自分の体じゃないみたい。
呼吸が荒くなる。
胸の奥がきゅっと締まって、熱が溜まっていく。
――このまま、どうなっちゃうの?
怖くなって、ぎゅっと目を閉じた。
「や、やだ……!」
弾かれたように立ち上がる。
心臓が暴れている。
おかしい。
私、おかしくなっちゃった。
目尻から涙がこぼれた。
「助けて……母ちゃん……クラウディオさん……」
ハジメは宿舎の階段の踊り場に立ち尽くして、ワンワンと声を上げて泣き出した。
やがて長衣に大きな布を纏ったサキュバスが駆け寄ってきた。
息を切らせながらこちらを伺っている。
長く整ったまつ毛の奥に真っ赤な瞳が見える。
外国人だ。
だけど、それが悲しげに揺れるさまには見覚えがあった。
『肉の内海』のおばちゃん、元気かな。
コロッケ買いにこないから、心配してないかな。
また一つ、大きな雫が頬を滑り落ちていく。
それ見たサキュバスが、ふっと少女を抱きしめた。
サキュバスはハジメより頭一つ小さかった。
恐る恐る背中に手を回すと、向こうからも体を寄せてきた。
肌に触れた手が溶けるように暖かい。
強張った肩から力が抜ける。
ほう、と息が抜けていった。
頭を撫でながらサキュバスが謝った。
少し高めの甘い声だった。
「ごめんね、怖かったね」
サキュバスの肩に顎を乗せて首を振った。
「ううん、ごめんなさい、勝手に入って、ドア壊しちゃってごめんなさい」
サキュバスの白く細い指が、ショートカットの頭を優しく撫でる。
懐かしい感覚。
ハジメはもう一度、腹の底からゆっくり息を吐いた。
薄い唇がかすかに震える。
――帰りたいよ、母ちゃんに会いたい。
「……ごめんなさいっ」
「いいの、助けようとしてくれたんでしょう? わかりますわ」
また瞳から涙が溢れ出す。
この世界に来て、いい人にしか会ってない。
一人で空回って周りに迷惑かけて、わたしなにやってんだろう。
「来たばっかりでしょ、ちょっと疲れちゃったよね」
鼻をすすりながら頷いた。
背中に回した腕をぎゅっとすると、自分の二の腕を掴んでしまった。
サキュバスの腰は驚くほど細かった。
密着した首元から甘い香りが漂ってくる。
体が熱を持ち出した気がする。
またおかしくなっちゃう。
ゆっくりと体を離す。
「もういいの? いいのよ?」
こちらに伸ばされた手の奥で、小さな顔を傾けてこちらを見ている。
切れ長のアーモンドアイが美しい。
ぷっくりとした艶やかな唇にも視線が奪われてしまう。
ぞっとするほど綺麗な人だな。
こんな綺麗な人が、あんなにエッチな事するんだ。
甘い匂いが、鼻先をくすぐる。
頭がぼーっとしてきた。
腰を引いてモジモジしていると、サキュバスが慌てて手を差し向けた。
「鎮静」
青い光の粒子が体に降りかかると、火照った体からゆっくりと熱が引いていった。
「さっき部屋で淫魔の芳香を嗅いじゃったのね。
迷惑かけてごめんなさい、辛かったでしょう」
あっ、あの匂い。
クラウディオにバフをかけてもらう時の匂いと同じだ。
アレでわたしの体がおかしくなってたんだ。
モヤがかかっていた意識がだんだんはっきりしてくる。
そうだ。
そうだよ。
わたしがエッチなことするわけないじゃん。
お、おじさんにドキドキするわけないじゃん!
なんだか安心した。
人をエッチにする術をかけるなんて、クラウディオさんはなに考えてんだ。
――なにぶん初めて誰かに使ったもので。でも役に立てたなら安心です。
ハジメは肩を落としてため息をついた。
あの人は自分の能力が相手にどんな効果を与えるのか、体感としては分かってない。
今度からどうしようか。
エッチな気分になるのでやめてください、とか?
……言いづらい。
それに、あの笑顔がくもるのはあまり見たくない。
「あら、効いてないかしら?」
「ハッ!?」
「うんうん唸ってるものだからまだ淫気が抜けてないのかと」
「いえっ! 大丈夫です。ありがとうございました」
いっぱい泣いたらスッキリした。
感謝を込めて勢いよく頭を下げていると、廊下の奥からトンカチが何かを叩く音が聞こえてきた。
大工仕事でもしているのだろうか――ああっ!
私が蹴破ったんだ。
顔から血が引いていくのがわかった。
「す、すみませーんっ!」
「はいストップ!」
駆け出した体を、サキュバスがふわりと抱き止めた。
「さっきのさっきで会いたくないでしょ。
お部屋にお邪魔してもいい?」
窓から差し込む街灯の光をバックにまぐわう二人、汗でぬめらかに反射する肌がフラッシュバックする。
――確かに今は男の人と会うの、怖いかも。
サキュバスは鮮やかな赤色の爪の先に、紙切れを摘んでヒラヒラさせた。
「部屋に落として行ったわよ、私に用があるんでしょう?」
ハジメは頷いて3階の自室に案内した。
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