第九章 声なき戦い
七月の終わり頃から、美月は田中と佐藤の間に微妙な緊張を感じるようになった。
最初は些細なことだった。
美月が大量の伝票を抱えていれば田中が「半分持つ」と言う。その直後、佐藤が「それ、プロジェクトの分なら僕のチームで処理するよ」と言う。
美月が客先へ行くと知れば、田中が「俺も近く行くから一緒に出ようか」と言い、佐藤が「直帰でいいよ」と先に予定を調整する。
どれも単体なら親切だった。
重なると、息苦しかった。
ある夕方、美月が席を立つと、田中も立った。ほぼ同時に佐藤も鞄を持った。
三人でエレベーターを待つ。
「水野さん、今日はどっち方面?」
田中が聞く。
「いつも通り」
「じゃ、途中まで一緒やな」
佐藤が時計を見て言った。
「僕も御堂筋線だから梅田まで一緒だな」
沈黙。
美月は急に腹が立った。
「すみません。私、寄るところがあるので」
二人を残し、反対方向へ歩いた。
実際には寄る場所などなかった。地下街を遠回りし、書店へ入った。新刊の棚の前に立っても文字が頭に入らない。
何をしているんだろう。
二人とも悪人ではない。むしろ普段は信頼している。それなのに、親切が重なった瞬間、自分が景品のように扱われている気がした。
翌日、美月は田中を給湯室へ呼んだ。
「昨日のことなんだけど」
田中が顔をしかめた。
「……俺、なんかした?」
「昨日のエレベーター。二人して」
「佐藤さんが先に動いたから、つい」田中はそこで言葉を切り、頭をかいた。「ちゃうな。意識してた。めっちゃ」
率直すぎる答えに、美月は逆に言葉を失った。
「やっぱり」
「水野さんが嫌がってるの分かった。ほんまごめん」
「私、誰かに勝ってほしいわけじゃないから」
「うん」
「手伝ってくれるのは嬉しい。でも、私が頼んでないときまで先回りされると、自分でできない人みたいでしんどい」
田中は黙って聞いた。
「分かった。気をつける」
「怒ってない?」
「怒る資格ないやろ」
田中は苦笑した。
同じ日の午後、美月は佐藤にも話した。
小会議室で、できるだけ仕事の相談と同じ調子で言った。
「最近、少しサポートが多すぎる気がしています」
佐藤はすぐ意味を理解したらしく、目を伏せた。
「そう感じさせてたか」
「はい。ありがたいんです。でも、自分で判断する機会までなくなるのは嫌です」
「プロジェクトのためだと思ってたんだ。……いや、それは言い訳だな。僕の方が踏み込みすぎた」
「あと、田中を意識していた部分もある。そこは完全に僕の問題だ。仕事に持ち込むべきじゃなかった」
美月は少し驚いた。
「二人とも同じこと言うんですね」
「田中も?」
「それは本人に聞いてください」
佐藤は初めて少し笑った。
その日を境に、空気は変わった。
田中は手伝う前に「いる?」と聞くようになった。佐藤は情報共有をチーム全体のチャネルで行うようになった。
美月は、二人が距離を取ったことで寂しくなるかと思っていた。
ならなかった。
むしろ、呼吸が楽になった。
「いる?」と聞かれるたび、返事を考える余白があった。その余白が、うれしかった。




