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雨上がりの商都にて  作者: 久遠 睦


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第八章 中立という戦略

あの二つの夜を、美月は後になって何度も思い返した。田中との同期飲みは淀屋橋のスペインバルで開かれた。四人でタパスをつまみ、仕事の愚痴を言い合う。田中はいつも通り美月の隣に座ったが、特別に話しかけ続けることはしなかった。

それがかえって、美月にはありがたかった。

帰り際、田中は「またみんなで行こ」と言った。二人で、とは言わなかった。

その数日後のプロジェクト会食は、北浜の和食店だった。佐藤は仕事の話を中心に進め、美月の意見を他のメンバーと同じように扱った。

美月は二つの夜を比べ、自分が安心できた理由を考えた。

「特別扱いされないこと」だった。

好意というものは、特別にすることだと思っていた。優先する。褒める。予定を合わせる。けれど今の美月には、その特別さが時に負担だった。

職場で必要なのは、まず公平さだ。

その感覚をはっきりさせたのは、翌週の会議だった。

美月が作った提案書について、田中が反対意見を出した。

「この納期、現場が無理すると思う。もう一週間取った方がいい」

一瞬、美月はむっとした。前夜まで何度も調整して出した案だったからだ。

「でも客先は月内を希望してる」

「希望と実行可能は別やろ」

会議室の空気が少し硬くなる。

以前なら、田中が自分に好意を持っているかもしれないことを意識し、反論を個人的に受け取ったかもしれない。

しかし、美月は資料を見直した。

「根拠は?」

「倉庫側に確認した。月末は棚卸しが重なる」

「……それ先に言ってよ」

「今朝返事来たんや」

美月は一度息を吐いた。

「分かった。一週間延ばす案も作る」

会議後、田中が近づいてきた。

「怒った?」

「仕事で反対されただけで怒らない」

「顔怖かったけど」

「それは元から」

二人で笑った。

そのやり取りに、美月は小さな確信を得た。

もし恋愛関係になるなら、こうでありたい。好かれているから賛成されるのではなく、必要なら反対されたい。自分も相手に反対したい。

佐藤との間では、別の問題が起きた。

部長が会議中、「佐藤くんが水野さんをずいぶん買ってるらしいね」と冗談めかして言った。

美月は笑えなかった。

佐藤はすぐに答えた。

「評価しています。ただ、今回の担当に選んだのは実績が理由です。資料も数字も残っています」

部長は「ああ、そういう意味じゃないよ」と笑ったが、佐藤は笑わなかった。

会議後、美月は礼を言った。

「さっき、ありがとうございます」

「僕が線を曖昧にすると、水野さんの仕事まで色眼鏡で見られる。それは一番よくない」

佐藤の言葉は真っ当だった。

ただ、その佐藤にも、見えていないところはあった。

翌週の客先同行について、佐藤が先方へ「水野が担当します」と伝えてあったのを、美月が知ったのは前日の夕方だった。

評価されているのは分かる。分かるからこそ、断る余地のない形で渡されたことに、胃のあたりが重くなった。

美月は同時に、彼との関係が持つ難しさも理解した。

田中との間では、恋愛感情があっても仕事上の立場はほぼ同じだ。佐藤とは違う。彼の評価が美月の機会に影響する。本人たちが誠実でも、周囲からは別の見え方をする。

恋は二人の問題だと思っていた。

職場では、そう単純ではない。

だから美月は「中立」でいようとした。ただ、中立でいるのはひどく疲れた。笑う回数も、座る席も、返信の速さも、いちいち数えている自分に気づいたからだ。


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