第十章 二つの告白、一つの答え
八月の初め、膠着していたものを最初に動かしたのは田中だった。
夕方、給湯室で二人きりになったとき、彼は珍しく冗談を言わなかった。
「水野さん」
「なに」
「今、ちょっとだけいい?」
声の調子で、美月は分かった。
逃げたいとは思わなかった。ただ、胸が早くなった。
田中は紙コップを握ったまま言った。
「ずっと好きでした。たぶん、別れる前から」
美月は息を止めた。
「でも、困らせたくなくて黙ってた。別れたって知ってから、今ならって思って、ちょっと焦った。あれは悪かった」
「……うん」
「それでも、好きなのは変わらない。付き合ってほしい」
まっすぐだった。
だから、美月もまっすぐ返そうと思った。
「ありがとう」
その言葉を言うと、田中の目が少し揺れた。
「嬉しい。本当に。でも、今は付き合えない」
田中は一度だけ視線を落とした。
「まだ前の人が好き?」
「そういうことでも、ないと思う。……誰かを好きになる前に、一人でちゃんと立てるようになりたい」
自分でも、ようやく言葉になったと思った。
「付き合えば、きっと楽しいと思う。でもそれは、楽になりたいから付き合うみたいで……違う気がする」
しばらく沈黙があった。
田中は小さく息を吐いた。
「分かった」
「ごめん」
「謝らんで。俺が言いたかっただけやから」
彼はいつものように笑おうとして、うまく笑えなかった。
それが美月にはありがたかった。傷ついていないふりをされるより、人間らしかった。
数日後、今度は佐藤に呼び止められた。
会議後、他のメンバーが出たあとだった。
佐藤は扉を開けたままにした。
その小さな配慮に、美月は気づいた。
「少し個人的な話をしてもいい?」
「はい」
「水野さんの仕事を評価しているのは、まず仕事として本当だ。その上で――一人の人間として惹かれている」
佐藤は言葉を選びながら続けた。
「ただ、僕の立場が君に圧力になるなら、それは望んでいない。だから答えは今すぐでなくていいし、断っても仕事上何も変えない」
美月は佐藤を見た。
別れたばかりの頃の自分なら、頼れる先輩からこんなふうに言われたら、好かれたこと自体を価値の証明のように感じただろう。
今は違った。
嬉しい。でも、嬉しいことと受け入れることは別だ。
「ありがとうございます」
美月は言った。
「でも、佐藤さんにも同じ答えです。今は誰とも付き合いません」
佐藤は少し驚いたようだった。
「田中にも?」
「そこは答えません」
「ああ、そうだね。失礼した」
美月は少し笑った。
「一人の時間が、ほしいんです。……寂しいから誰かを選ぶのは、したくなくて。一人でも大丈夫になってから、それでも誰かといたいと思えるか、考えたいんです」
佐藤はゆっくり頷いた。
「分かった。言ってくれてありがとう」
会議室を出たあと、美月はトイレの個室へ入り、便座の蓋に座った。
手が震えていた。
強い人間になったわけではない。断るのは怖かった。明日から気まずくなるかもしれない。仕事へ影響するかもしれない。二人を傷つけたかもしれない。
それでも、胸の奥には不思議な静けさがあった。
数か月前までの美月は、誰かに選ばれなかったことで自分の価値を失ったと思っていた。
個室の壁に貼られた節電のポスターを、美月はしばらく読んでいた。字は一つも頭に入らなかった。
会社を出ると、夕立のあとだった。アスファルトから湿った匂いが上がり、雲の切れ間に淡い青が見えている。
美月は傘を持っていたが、開く必要はなかった。




