第十一章 静かな一年
二人の告白を断ってからの日々は、劇的ではなかった。
翌朝も仕事はあり、請求書は届き、会議は長引き、電車は混んだ。
田中とは、しばらくぎこちなかった。互いに必要以上に敬語になり、目が合うと同時に逸らした。会議では、美月の案にだけ、いつもより一言多く反対された。正論だった。正論だったから、余計に腹が立った。
三週間ほどして、田中が見積書を持ってきた。
「これ、見て」
「また桁区切り違う」
「そこ?」
二人とも吹き出した。
それで少し戻った。
「この前の会議、言い方きつかった」田中が、見積書の端を揃えながら言った。「正論やったけど」
「うん。正論やった。腹立ったけど」
「そこは認めてくれんのか」
「認めてるから腹立つの」
また少しだけ笑って、それで戻ったことにした。
佐藤は本当に仕事の態度を変えなかった。褒めるときは褒め、直すところは直させた。むしろ以前より意識して距離を取っているのが分かった。廊下ですれ違うとき、視線が一瞬だけ先に逸れるのも。それを誠実さと呼べば綺麗すぎる気がして、美月は何も言わなかった。
秋、美月は小規模案件のリーダーを任された。
初めて後輩へ指示を出す側になり、自分が思っていた以上に「任せる」ことが難しいと知った。つい細部へ口を出したくなる。自分でやった方が早いと思う。
そんなとき、佐藤に言われた言葉を思い出した。
「相手に何を持って帰ってほしいかを決める」
美月は後輩に答えを教える代わりに、何を判断すべきかを聞くようにした。
冬、案件は無事に完了した。
客先から届いたお礼のメールを印刷するほどではないと思いながら、美月は何度も読み返した。
週末の過ごし方も変わった。
真帆と京都へ行った。嵐山ではなく、東山を歩いた。航平と行った場所を避けている自分に途中で気づき、少し笑った。
「まだ気にしてる?」
真帆が聞いた。
「前ほどじゃない。でも、ゼロではない」
「ゼロにせんでええやん」
真帆は団子を食べながら言った。
「三年付き合ったんやろ。三年をゼロにしたら、美月の三年までなくなるやん」
その言葉で、美月は写真を全部消せなかった夜を思い出した。
帰宅後、クラウドに残っていた梅雨の日の写真を開いた。
足元だけ写った一枚。
以前ほど胸は痛まなかった。
削除しようと思い、やめた。
もう、残っていても大丈夫だった。
一月の終わり、航平から「元気?」とだけ連絡が来た。
返事を書くのに三日かかった。長い文面を書いては消し、最後に残ったのは、〈元気だよ。そっちも元気で〉の一行だった。
送ったあと、その夜はあまり眠れなかった。眠れなかったのに、朝は目覚ましの前に起きた。
春になると、美月は近所の陶芸教室へ通い始めた。
最初に作った小鉢は歪んだ。先生は「手の癖が出るから面白いんですよ」と言った。
美月はその歪みが気に入った。
誰かと過ごすためではなく、自分が面白いと思うから出かける。自分が食べたいものを作る。自分が眠いから寝る。
簡単なことなのに、恋人がいた頃は知らず知らず相手の予定を中心に考えていた。
一人暮らしの部屋も少し変えた。
航平が好きだった大きなテレビを処分し、その場所に低い棚を置いた。陶芸で作った器、本、美術館で買ったポストカード。部屋の中に、自分が選んだものが増えた。
四月、美月は二十六歳になった。
誕生日の夜、誰かと豪華な食事をする代わりに、仕事帰りにケーキを一つ買った。
ベランダへ出ると、遠くで電車の音がした。
一年前の誕生日は航平と過ごした。来年はどうしているだろうと話した。
来年の自分が一人だとは想像していなかった。
寂しくなかった、と言えば嘘になる。けれど、泣くほどではなかった。
ろうそくは立てなかった。一口目のケーキを、ベランダに立ったまま食べた。




