第十二章 新しい自己の風景
五月の終わり、土曜の午後。
美月は洗濯物を干し終え、窓を開けた。雨の前の湿った風が入ってくる。雲の向こうに、生駒の山並みが薄く見えた。
部屋には誰の気配もない。
けれど、静かだった。空虚ではなかった。
その違いを美月は考えた。
一年前、帰宅後の静けさは巨大な穴のようだった。誰かから連絡が来ないことが、自分には誰もいない証拠のように感じられた。
今は、静けさが自分の時間になっている。
朝は好きな音楽をかける。昼に本を読む。夕方になれば散歩へ出る。予定がなければ、ないことを楽しめる。
恋愛に対する考え方も変わった。
以前は、恋人がいることが「順調な人生」の一部だと思っていた。大学を出て、働いて、恋人がいて、そのうち結婚する。周囲から与えられた地図を、自分の地図だと思い込んでいた。
別れた直後、その地図から自分だけ落ちた気がした。
友人の結婚報告を見るたび焦った。SNSの指輪、式場、旅行。画面の向こうの幸せが、自分の遅れを測る目盛りに見えた。
今は違う。
真帆が結婚すると聞いたとき、美月は心から喜べた。
「焦らん?」
真帆が逆に心配そうに聞いた。
「前は焦った。でも今は、真帆が結婚することと、私が結婚してないことって、別の話やなって」
「悟ったな」
「二十六歳で悟りたくない」
二人で笑った。
美月は恋愛そのものを否定したわけではない。
誰かと食事をする楽しさも、帰る場所を共有する安心も知っている。航平との三年間に嘘があったわけでもない。
ただ、誰かに必要とされることを、自分が必要な人間である証明にするのはやめたかった。
自分の価値を他人へ預けると、相手が去ったとき一緒に持っていかれてしまう。
その日の夕方、美月は中之島まで足を延ばした。
川沿いの遊歩道では犬を散歩させる人、ランニングをする人、ベンチで話す若者がいた。
美月は美術館へ入り、抽象画の前で長い時間立った。
何が描かれているかは分からない。それでも好きだと思った。
以前なら、理由を探したかもしれない。
今は、好きだから好きでいいと思えた。
帰り道、土佐堀川に夕日が差した。
一年前、同じ川を灰色だと思った。
川はたぶん変わっていない。
水面の光は、あの朝よりずっと眩しくて、美月は目を細めた。




