第六章 氷の裂け目
七月の半ば、水曜の夜に会社の懇親会が大阪駅前第二ビルの地下で開かれた。外は蒸し暑かったが、地下街の居酒屋は冷房が効きすぎていた。
美月は同期のテーブルに座り、最初の一杯だけビールを飲んだ。
仕事の愚痴、異動の噂、夏休みの予定。話は次々と変わる。誰かが結婚式の二次会の話を始めたとき、同期の女性が美月に聞いた。
「そういえば、美月は彼氏と最近どうなん?」
一瞬だけ、周囲の音が遠くなった。
これまでなら笑ってごまかしたかもしれない。
けれど美月はグラスの水滴を指でなぞりながら言った。
「別れたよ。五月に」
「え」
空気が止まる。
「三年くらい付き合ってたよな?」
「うん」
「大丈夫?」
その言葉に、美月は以前のように反射的な「大丈夫」を返しかけた。
そして、やめた。
「まだ、たぶん大丈夫ではない。でも、仕事は普通にできるし、ご飯も食べてる」
自分でも妙な答えだと思った。
田中が笑わずに頷いた。
「それなら十分やろ」
彼は美月のグラスにビールを注がなかった。代わりに水差しを取り、「水でええ?」と聞いた。
「うん」
その小さな配慮がありがたかった。
少し離れたテーブルにいた佐藤も、こちらを見た。目が合った気がしたが、彼はすぐに会話へ戻った。
宴会の終盤、美月がトイレから戻る途中、通路で佐藤とすれ違った。
「水野さん」
「はい」
「さっき、聞こえてしまった。ごめん」
「別に、隠してたわけじゃないので」
「そうか」
佐藤はそれ以上聞かなかった。
「明日の午前、資料レビューだったね。時間、ずらそうか?」
「いえ、大丈夫です」
「分かった。じゃあ予定どおり」
仕事の話だけして去っていった。
美月はその背中を見ながら、少しほっとした。
哀れまれたくなかった。励ましの言葉も、今は重いことがある。
帰宅して、部屋の灯りをつけた。
スマートフォンを開き、航平とのトーク画面を出した。最後のやり取りは、二か月以上前のまま止まっている。
〈今日、初めて人に言えたよ。別れたって〉
そこまで打って、指が止まった。誰よりも先に報告したい相手が航平だということが、おかしくて、少しだけ悔しかった。
送信はしなかった。一文字ずつ消していくと、画面にはまた白い空欄だけが残った。
その夜は泣かなかった。ただ、しばらく画面を伏せたまま、エアコンの音を聞いていた。
翌朝、佐藤は本当に何も変えなかった。いつも通り資料の不足を指摘し、良いところは良いと言った。
田中も、別れについて質問してこなかった。
二人がそれぞれの仕方で「聞かない」ことを選んだのだと、美月は後になって気づいた。
しかし、空気がまったく変わらなかったわけではない。
美月の側が変わった。
これまでならただの親切として受け取れた視線に、意味があるのではないかと考えるようになった。田中が帰る時間を合わせると、偶然だろうかと思う。佐藤が資料を送ってくると、自分だけだろうかと思う。
恋愛を意識したくないのに、意識しないためには、まず意識しなければならない。
その矛盾が美月を疲れさせた。
金曜の夜、会社を出ると雨が降っていた。
傘を開いたところで、田中が追いついた。
「駅まで入れて」
「傘持ってないの?」
「朝、晴れてたやん」
「天気予報見なよ」
二人で一本の傘に入る。肩が近い。
去年、航平と同じように歩いた記憶が一瞬よぎった。
美月は無意識に半歩離れた。
田中は何も言わず、傘を美月側へ傾けた。
その沈黙に、美月は救われた。
駅までの数分、傘を打つ雨の音だけがしていた。
改札の前で傘を畳むとき、田中の左肩がすっかり濡れていることに、美月は気づいた。




