第四章 隣からの視線
週明け、美月が出社すると、田中はすでに席にいた。机の上にはコンビニのおにぎりと栄養ドリンクが並んでいる。
「朝ごはん、終末感あるね」
美月が言うと、田中は振り返った。
「月曜に健康を求めるな」
「まだ八時半やけど」
「心はもう木曜」
そのやり取りに、美月は自然に笑った。
田中とは入社式からの付き合いだった。最初の研修で同じ班になり、配属も同じ。失敗した資料を二人で直した夜も、先輩に叱られた帰りにラーメンを食べた夜もある。
特別ではないからこそ、気を遣わずに済む相手だった。
ただ、最近、その「特別ではなさ」が少しだけ変わってきていることに、美月は気づき始めていた。
たとえば、会議で美月が発言したあと、田中は以前よりよく彼女を見る。誰かが美月へ強い口調で意見すると、田中の背筋がわずかに伸びる。残業中、缶コーヒーを置く回数も増えた。
最初は気のせいだと思った。
気のせいであってほしい、とも思った。
昼休み、二人で地下のコンビニへ行った。
「この前の土曜、何してた?」
田中がペットボトルを棚から取る。
「友達と飲んでた」
「へえ」
「なに、その顔」
「いや、珍しいなと思って」
「私だって飲みに行くよ」
「知ってるけど」
田中はそこで言葉を切った。
美月は横顔を見た。聞きたいことがあるように見えたが、彼は聞かなかった。
その「聞かない」ことに、ほっとした。
夕方、二人は同じ案件の見積書を確認した。田中は数字には強いが、書類の体裁が雑だった。美月は赤字を入れながら、「桁区切り揃えて」「会社名の表記、前と違う」と容赦なく指摘する。
「水野先生、厳しい」
「客先に出すんだから当たり前」
「はいはい」
「はいは一回」
「お母さん?」
「同期」
田中は笑った。
その笑い方を見た瞬間、美月は胸のどこかが温かくなるのを感じた。それは恋ではなかった。少なくとも、今は。
誰かと同じ机を挟み、くだらないことを言いながら仕事を進める。その時間が自分に戻ってきたことが嬉しかった。
田中の親切には、航平の代わりを求めるような甘さがなかった。むしろ、こちらも遠慮なく文句を言える。助けてもらった翌日に、田中のミスを指摘できる。
対等であるということは、優しくされることではなく、遠慮なく「それ違う」と言えることなのかもしれない。
帰り際、田中が言った。
「水野さん、最近ちょっと顔戻ったな」
「顔戻ったって何」
「一時期、能面みたいやった」
「失礼すぎる」
「ごめん。でも、よかった」
最後の一言だけ声が低くなった。
美月は返事に迷い、「ありがと」とだけ言った。
エレベーターの扉が閉まるまで、田中は手を振っていた。
その夜、美月は彼の言葉を何度か思い出した。
よかった。
それは誰かに評価される言葉ではなく、自分の変化を見ていてくれた人の言葉だった。
だから少し、心に残った。
その同じ夜、眠る前に、開かないと決めていた航平のSNSを開いた。
更新は一件だけだった。会社の人たちらしい集まりで、バーベキューの網を囲んで笑っている。写真の端で、航平が焼けた肉を誰かの皿に取り分けていた。
三年間、あの役は自分だった。
腹が立った。航平にではなく、写真一枚で胃のあたりが冷える自分に。
アプリを閉じて、布団をかぶった。朝までに二回、目が覚めた。




