第二章 仕事という鎧
翌朝、美月は七時十二分の電車に乗った。いつもより一本早かった。眠れなかったからだ。
淀屋橋の地下は朝から人で満ちている。エスカレーターを上がり、ビルのエントランスを抜け、社員証をかざす。その一連の動作をしていると、美月は自分が「水野美月」という個人から、会社の営業企画部に所属する一社員へ切り替わっていくのを感じた。
それは楽だった。
彼女が勤めるのは、産業機器や部材を扱う中堅の専門商社だった。華やかな業界ではない。だが、工場のラインが止まれば数時間で大きな損失が出る。必要な部品を、必要な品質で、必要な時刻に届ける。その地味な積み重ねで会社は成り立っていた。
入社三年目の美月は、ちょうど「教えてもらう側」から「任される側」へ移る時期にいた。
午前九時過ぎ、仕入先から納期変更の電話が入った。
「金曜納入の予定でしたが、来週火曜にずれそうです」
受話器を持つ手に力が入る。金曜に必要だと聞いている。顧客の設備更新は土曜日。間に合わなければ工事そのものが飛ぶ。
「代替品の在庫はありますか」
美月はメモを取りながら質問した。
「仕様が同じものは、名古屋倉庫に二台。ただし――」
そこから一時間、美月は電話とメールを往復した。技術部に仕様差を確認し、物流に緊急便の可否を聞き、客先担当者へ状況を説明した。以前なら上司へ「どうしましょう」と丸投げしたかもしれない。今は、自分で選択肢を三つ作ってから相談した。
「水野さん、この案でいこう」
課長が画面を見ながら言った。
「名古屋から一台回す。もう一台は月曜午前。客先には俺からも話す」
「分かりました」
席へ戻った瞬間、美月はようやく息を吐いた。
左隣から、小さな声がした。
「朝から修羅場やな」
同期の田中健二だった。
「聞こえてた?」
「そりゃ聞こえる。水野さん、電話の声だけめっちゃ冷静やもん。顔は怖かったけど」
「余計なこと言わないで」
思わず笑った。
笑ったあと、美月は少し驚いた。昨日の夜、もう笑えないような気がしていたからだ。
昼休み、食堂で一人うどんを食べながら、美月はそのことを考えた。笑えたからといって傷が治ったわけではない。ただ、別の感情が入る余地がまだ自分に残っていた。
午後、課長からチャットが届いた。
〈さっきの件、助かった。先方も納得してる〉
短い一文だった。
美月は何度か読み返した。
恋愛では、何をすれば正解なのか分からなかった。相手の気持ちは変わる。昨日まで好きだと言っていた人が、明日は別れを選ぶこともある。
けれど仕事では、少なくとも自分がしたことと結果の間に線を引ける。調べた。電話した。提案した。間に合った。
その線が、美月を支えた。
夕方になり、オフィスの窓の向こうで西日がビルの壁を染めた。美月は新しい案件の資料を作り続けた。定時を過ぎても席を立たなかった。
八時前、フロアの人影がまばらになる。
「水野さん、まだやる?」
田中が鞄を肩にかけて聞いた。
「もうちょっと」
「ほどほどにな」
田中は一度エレベーターの方へ歩き、数分後に戻ってきた。机の上に缶コーヒーを置く。
「自販機で二本出てきた」
「嘘」
「ばれた?」
「同じ銘柄二本出る自販機、怖いわ」
田中は笑い、「じゃ、お疲れ」と手を振った。
缶は温かかった。
美月はすぐには開けなかった。親切を受け取ることに、なぜかためらいがあった。航平と別れてから、誰かの優しさには裏があるような気がしていた。期待すれば失う。頼れば置いていかれる。そんな理屈にならない警戒心が、身体のどこかに残っていた。
けれど田中の缶コーヒーは、ただ机の上にあった。
返事も、見返りも求めていない。
美月はプルタブを開けた。
甘かった。いつもなら無糖を選ぶのに、田中はそこまで知らなかったらしい。
その不完全さが、かえってありがたかった。
九時近くに会社を出ると、御堂筋はまだ明るかった。タクシーの列、飲み会へ向かう人たち、信号待ちの自転車。大阪は誰かの失恋など知らない顔で動き続けている。
美月はそれを冷たいとは思わなかった。
自分が止まっていても街は動く。その流れに毎朝混ざれば、少なくとも前へ運ばれる。
仕事は鎧だった。重くて、息苦しくて、それでも今は脱げなかった。




