第一章 反響と空虚
六月の最初の月曜日、大阪の空は朝から低かった。夜半まで降っていた雨は上がっていたが、雲はまだ街の上に居座り、淀屋橋のビルの窓を鈍い銀色にしていた。土佐堀川の水面には、風が吹くたび細かな皺が走った。
水野美月は淀屋橋駅の階段を上がり、橋のたもとで信号を待ちながら、川を見ていた。見ている、というより、焦点の合わない目をそこへ置いていた。
三年間付き合った航平と別れて、一か月が経っていた。
一か月という長さを、美月はうまく測れなかった。カレンダーの日付は、確かに三十日ぶん進んでいる。それなのに別れた夜だけは、まだ昨日のようでもあり、ずっと昔のようでもあった。
「美月は悪くない。ただ、将来が見えなくなった」
最後に言われた言葉を、彼女は何度も頭の中で聞いた。悪くない、と言われたことがいちばん残酷だった。悪いところがあるなら直せたかもしれない。喧嘩の原因があるなら謝れたかもしれない。けれど「将来が見えない」は、手の届かない場所に答えを置いてしまう言葉だった。
信号が青に変わった。周囲の会社員たちが一斉に歩き出す。美月も流れに押されるように足を動かした。
朝は毎日同じだった。目覚ましを二度止め、三度目で起きる。冷蔵庫を開けても食べたいものはない。駅前のコンビニでサンドイッチを買い、カップのコーヒーを持ったまま御堂筋線へ降りる。車内では誰もがスマートフォンを見ている。美月も画面を見る。ただし、読むものはない。
以前なら航平から「今日もがんばろ」と届いていた時間だった。
その通知がなくなっただけで、朝の形が崩れた。
会社に着くと、パソコンを立ち上げ、メールを開く。未読の数字が増えているのを見ると安心した。処理すべきことがある。返すべき言葉がある。仕事の世界では、問いに答えがあることが多い。
帰宅すると反対だった。
玄関の照明をつける。靴を脱ぐ。六畳ほどの部屋に入る。エアコンの音だけがする。以前はすぐに航平へメッセージを送っていた。「帰った」「疲れた」「今日、部長にまた急に振られた」。そんな短い報告が一日の終わりを形作っていたのだと、なくなってから気づいた。
その夜、美月はベッドの端に座り、スマートフォンの写真を開いた。
削除しようと思ったのは、友人に勧められたからでも、ネットの記事を信じたからでもない。ただ、毎日何度も過去の写真へ戻ってしまう自分に疲れていた。
最初の写真は、二年前の神戸だった。港を背に、航平が変な顔をしている。次は京都。次は彼の誕生日。次は近所のラーメン屋。旅行よりも、どうでもいい写真の方が苦しかった。半分食べたケーキ。ソファの上に脱ぎ捨てられた靴下。スーパーの袋を二つ提げて笑う横顔。
指を画面の上に置いたまま、美月は動けなくなった。
消すことは、忘れることではない。そんなことは分かっている。それでも、削除の赤い文字を押すたび、自分で自分の過去に判を押しているような気がした。
二百枚ほど消したところで、手が止まった。
一枚の写真に写っていたのは、去年の梅雨だった。雨宿りをしている二人の足元だけ。透明な傘が重なり、水たまりの中に信号の赤が滲んでいる。撮った理由すら覚えていないのに、その写真だけは消せなかった。
美月は画面を伏せた。
喉の奥が熱くなった。泣くまいと思った瞬間、涙が出た。
一か月の間、彼女はほとんど泣かなかった。会社へ行き、仕事をし、眠った。友人からの電話には「大丈夫」と答えた。大丈夫という言葉を繰り返せば、本当に大丈夫になると思っていた。
けれど、その晩は泣いた。
声を上げるほどではなかった。ただ涙が顎から落ち、パジャマの膝に小さな跡をつくった。
泣きながら、美月は自分が失ったものを初めて正確に考えた。航平だけではない。二人で住むかもしれなかった部屋。いつか行こうと言っていた旅行。三十歳までには、とぼんやり話していた未来。
数えるほど息は浅くなったが、名前のなかった痛みに、少しだけ輪郭がついた。
写真は全部消さなかった。消せるものだけ消した。連絡先もその夜は残した。
「今日はここまで」
誰に聞かせるでもなく呟いた。
きれいに片づけられない自分が、情けなかった。けれど、一晩で三年間を片づけられるはずもない。
窓の外で、また雨が降り始めていた。
大阪の夜は雨に煙り、向かいのマンションの灯りが滲んでいる。美月はカーテンを閉めず、その光をしばらく眺めた。
明日も朝は来る。それだけは、航平がいようといまいと変わらない。
その単純な事実を、彼女はまだ希望とは呼べなかった。ただ、今夜を越えるための小さな足場にはできた。




