9 翌夕 –––– 宰相視点
「ここには余と宰相、そしてそなたしかおらん」
人払いを済ませた応接室で、ひとり掛けの椅子に座った国王はそう切り出した。
勇者は向かいの長椅子に座り、静かに私たちを見ている。
「ここでの話を外へ漏らすつもりはない。謁見の場では立場もあったであろうし、祝宴では人目もある。今日は勇者としてではなく、そなた自身の心の内を聞かせてほしくて時間をもらった」
何としても挽回しなければならない、というのが国王と私の共通認識だった。
魔王を討つという歴史的な快挙を成し遂げてくれた勇者に対して、国はまだ何も返していないに等しい。爵位も領地も断り、王宮に仕える気もなく、王女との話にも興味を示さなかったこの青年を国に引き留め、この国に勇者ありと対外的にも周知させねばならない。
内部の事情に精通するために同行させたシドからも、要領を得た答えは引き出せなかった。ならば本人から、屈託のない意見を聞くしかないのだ。
しかし、この青年の第一声で、我々はまた驚かされることになった。なんと今日中に王都を発つと言うのだ。国王も私もしばらく何も言えなかった。
謁見が昨日のことだ。祝宴も始まったばかりで、この先には神殿への参拝や各国の使節との面会、国民を集めての祝賀行事も予定されている。それなのに、あまりにも早すぎる。
国王が長く息をついてから、勇者に問う。
「率直に聞こう。なぜ、それほど急いで帰りたいのだ?」
「いえ、急いでいるつもりはないです。魔王は倒しましたし、王都にも戻ってきました。陛下へのご報告も済みましたから、帰るだけです」
「……帰るだけ?」
「はい」
国王が私を見るが、私にも答えようがない。
「王都が気に入らぬのか?」
「いえ。大きな町だなとは思いますけど」
何を問われているのか分からないような顔をしているが、首を傾げたいのはこちらだ。
「ならば、何か不満があるのではないか? そなたほどの功績を上げた者に、国が十分な礼を尽くしていないとか」
「そんなことはないです。ずっとよくしていただいてます」
恐縮したように両手を胸の前で振る姿は、普通の青年と何ら変わらなく見える。
「では、なぜこんなに早く帰るなどと」
「家があるので」
答えは早かった。
「婚約者も待ってますし」
「ああ」
国王の顔に、ようやく得心したような色が浮かんだ。
「なるほど。もしやそなた、婚約者が怖いのではないか?」
隠しようのない嬉しげな声音に、勇者がたじろぐのが分かった。大丈夫か?
「……怖い?」
「王女との話を嫌がったのも、それなら納得できる。祝宴でも他の女に見向きもしなかったそうではないか。婚約者に知られれば困るのだな」
「いえ、知られて困ることはしませんけど」
「そう固く考えることはない。余も若い頃には少々あってな」
「陛下」
自分と同じだとでも思ったのか。嬉々として話す国王に、つい声を挟んだ。勇者の困惑がなぜ見えない。
「ああ、いや、すまぬな。以前、王妃に随分と怒られたことがあってな。いつの世も女性というものは、ああいうことには厳しいからな」
王妃が離宮で暮らすようになった理由を、国王はどうやら都合よく解釈し直しているらしい。
「しかし勇者ともなれば、そうもいかんこともあるだろうて。分かっておる。もしよければ婚姻とは別に、後腐れのない相手を用意することも――」
「いりません」
「そうか」
国王は残念そうですらあった。
「やはり王女との婚姻も望まぬのだな」
「はい」
「あれが気に入らぬか?」
「お話しすらしたことがありません」
「では、何が問題なのだ?」
「婚約者がいるので」
勇者の答えは変わっていないが、国王には理解しづらいのだろう。本心ではなく建前だと思い込んでいる。
「そうだ。ならば婚約者も王都へ呼べばよかろう」
「来たくないと思います」
「来てみれば気に入るやもしれん」
「必要ありません」
「それなら、そなたの好きなところを領地として授けるのはどうだ?今住んでいるところでも構わん。領地として受け取ればよい。今治めている者も、自分のあとを勇者が継いだとあれば誉れに思うことだろう。もし自ら治めるのが不安なら代官を置く。そなたは名目上の領主で構わん」
さすがにそれは、どの土地であれ混乱するだろうと思うが、国王も彼を引き留めることに躍起になっているのだろう。昨日の謁見で、いきなり王女に手を差し出したことを思い出す。
「いりません」
「では爵位だけでも持っておけばよいではないか。そなたほどの者が平民のままというのは、国としても収まりが悪い」
「困ってないです」
「婚約者の身分が気になるのなら、そちらにも――」
「気になってません」
勇者が遮った。声音は変わっていない。だが、そろそろ国王に任せていても同じところを回り続けるだけだろう。
「勇者殿」
私が口を挟むと、勇者はこちらを向いた。
「陛下がこれほどおっしゃるのは、あなたの功績を軽んじているからではありません。むしろ逆です」
「はい。ありがたいことです」
勇者は素直に頷いた。言葉どおり、国王の厚意そのものを迷惑がっているわけではないのだろう。ならば、話の余地はある。
「あなたは、ご自身の価値を少々低く見積もりすぎていませんか?」
「そうですか?」
本当に分かっていないらしい。魔王討伐の知らせが王都へ届いた日、城下では鐘が鳴り、人々が通りへ飛び出した。王宮にはその日のうちに各地から早馬が入り、翌日には周辺諸国から使者を送るとの報せが届いた。魔王が倒れたという事実だけで、それほど多くの人間が動いたのだ。
そして今、その中心にいる本人は、すべて終わったのだから家へ帰ると言っている。
「魔王を討った勇者は、もはや一個人ではありません。国民にとって希望の象徴であり、国にとっても極めて重要な存在です」
「魔王はもういませんよ」
「だから価値がなくなったという話ではないのです」
思わず語気が強くなりそうになるのを抑えた。むしろ、魔王を討ったからこそ価値がある。軍でさえ近づけなかった魔王のもとへ辿り着き、討ち果たした者がこの国にいる。その事実が周辺諸国に与える影響を、この青年はまるで考えていない。
勇者が望むかどうかの問題ではないのだ。
彼がどこに住み、誰と関わり、どの国に属しているのか。それだけで意味を持つ。もしこのまま何の立場も与えず帰してしまえば、他国が接触してくる可能性もある。逆に、この国が勇者を厚く遇していると示せれば、それ自体が国の力になる。
本人がその価値を理解していないのなら、国が相応の形を与えればいい。そのための制度だ。勇者は黙って私を見ている。理解したのか、それともまだ腑に落ちていないのか。その表情からは読み取れなかった。
「今後、国を挙げてあなたを遇する制度を整えることも考えています。勇者には国庫から終身にわたって相応の報奨を支給する。税制上の優遇や、国内を移動する際の便宜も図る。生活について国が保証すると考えていただいてもよい」
「いりません」
即答だった。だろうな。そこまでは想定している。
「最後まで聞いてください」
「はい」
「もちろん、権利には一定の義務も伴います。国を代表する祝賀行事への参加、国民との交流、各地への慰問。有事の際には、国から協力を要請することもあるでしょう。国外へ出る場合には事前に届け出を――」
勇者の眉がわずかに動いた。
「なお、今回の討伐は国費によって行われたものです。もしもあなたがこれらをすべて辞退して帰ると仰るのであれば、今回の討伐報奨についても白紙とさせていただきたい」
「僕の分を、ですか?」
「いいえ。あなた方全員の分です」
勇者の目がわずかに細くなった。
「……全員?」
「ええ」
「僕の分だけなら、いりませんけど」
「あなた1人の問題ではない、ということです」
少々強引な理屈であることは承知している。だが、この青年には自分自身の利を説いても響かない。それならば、共に戦った仲間たちのことならどうか。
実際、初めて反応があった。
「ちょっと待ってください」
これまでこちらの話を聞いていた勇者が、初めて自分から私の言葉を止めた。
「それ、もう決定ですか?」
「いいえ。まだ構想の段階です。必要であれば、今からでも私から議会へ――」
「じゃあ、まさに今、この部屋ごと僕が破壊すれば、案ごと消滅ですね」
意味を理解するまでに、一瞬かかった。国王も口を開けたまま勇者を見ている。
「……勇者殿」
「はい」
「それは、脅迫ですか?」
「そう聞こえました?」
「聞こえます」
「すみません」
素直に謝られた。だが、撤回する気はないらしく、その顔に笑みもない。私はゆっくりと息を吐いた。
冗談ではない。こんな脅しに屈したなどと思われては困る。
「あなたが望まないことは承知しました。しかし、国家には国家の事情があります。あなたほどの力を持つ者が、何の立場も責任も持たず、どこにいるのかさえ分からない状態になることを、手放しで歓迎するわけにはいかないのです」
「今までもそうでしたよね?」
「魔王を討つ前と後では違います」
「僕は同じです」
「周囲が違うのです」
勇者が口を閉じた。ここまでは、分かっているのかもしれない。
「あなたは強い。おそらく、この国であなた自身を害せる者はほとんどいないでしょう。しかし、あなたの婚約者は違う」
その瞬間、勇者の顔つきが変わった。
首筋を何かに撫でられたような感覚がして、産毛が逆立つ。
「……はい」
「今後、あなたを利用しようと考える者が現れないとは限りません。あなたがどれほど情報を伏せようと、永遠に隠し通せる保証はない。ならば、彼女を王都へ呼び、国家の庇護下に置くほうが安全です」
「彼女は嫌がると思います」
「安全には代えられないのでは?」
勇者の顔から、表情が消えた。国王がわずかに身じろぎする。
「み、身分が必要ならば与えればよい」
助け舟のつもりなのか、国王が横から口を挟んだ。声がわずかに上ずっている。
「そなたの婚約者なのであろう? 相応の家格を与え、王都に屋敷を用意することもできる。そうすれば――」
「いらない、って言ってますよね」
低い声だった。
あ、とも、う、ともつかない声を漏らしたのは、国王か、それとも私だったのか。足元から何かが這い上がってきたように身体がすくみ、両腕にぞわりと寒気が走った。やがて静まり返った部屋の中で、カタカタ、と小さな音がし始めた。卓上の茶器が揺れている。中の液体が細かく波立ち、窓硝子がきしきしと震え、棚に並べられた飾り皿までかすかな音を立て始めた。
「……地震か?」
国王が周囲を見回す。揺れは次第に大きくなっていった。座っている椅子まで細かく震え始め、私はとっさに肘掛けを掴んだ。向かいでは国王も椅子の背に身体を預け、青ざめた顔で周囲を見回している。
私は窓の外へ目をやった。中庭の木々は風に枝先を揺らしているだけで、そこを歩く人々にも何ら変化はない。廊下から騒ぐ声も、慌ただしい足音も聞こえてこなかった。
そこでようやく気づいた。
揺れているのは、ここだけだ。
ずん、と空気そのものが重くなった気がした。何が起きているのかは分からない。ただ、明らかに先ほどまでとは違う。胸が圧迫され、息を吸うことさえ意識しなければならなくなる。
そっと勇者を見た。
彼は軽く俯いていた。表情は静かなままだ。膝の上に置いた両手も動いておらず、拳を強く握り締めているわけでもない。それでも、分かった。
これは彼がやっている。
背筋が冷えた。
頭では知っていた。この男が魔王を倒した。軍が近づくことすらできなかった場所へ入り、聖剣を手に、魔王を討ち取って帰ってきた。知っていたはずだった。それなのに私は、いつの間にか目の前にいる若者を、法律と制度で縛れるものとして考えていた。
勇者から目が離せない。声をかけることもできないままでいるうちに、さらに圧が増した。耳の奥が詰まったようになり、周囲の音が遠のいていく。国王も椅子の背に身体を預け、青ざめた顔で勇者を見ていた。
そして――。
勇者がゆっくりと息を吸った。
長く、吐く。
もう一度。
少しずつ、部屋を押し潰していたような重みが薄れていった。息がしやすくなり、茶器の震えも小さくなっていく。やがて窓硝子も静まり、部屋に元の静けさが戻った。勇者はしばらく俯いたままでいたが、やがて顔を上げた。
「……すみませんでした」
「……い、いや」
国王は椅子に腰掛けたまま呟いたが、それ以上は続かなかった。
「僕は、皆さんと敵対したいわけじゃないです」
勇者はそう言って、私たちを見た。
「この国で生まれたわけじゃないですけど、ここで育ちました。魔王を倒しに行ったのも、この国がなくなったら困るからです。これからも、何か本当に大変なことがあって、僕にできることなら手伝うと思います」
そこで一度、言葉を切った。
「でも、それを法律で決められたり、彼女まで勝手に王都へ連れてこられたりするのは嫌です」
「……うむ」
国王が頷いた。先ほどまでとは比べものにならないほど素直だった。
「これ以上なら」
勇者が笑った。
「この国から出ます」
国王の顔が引きつった。私も、すぐには何も言えなかった。勇者を国内に留めるための話をしていたはずだ。その結果、国外へ出るという選択肢を本人に与えた。
これ以上ないほどの失策だった。
「……分かりました」
私が言った。
「先ほど申し上げた制度については、白紙にします」
「まだ何もないんですよね?」
「ありません」
「よかったです」
本当に安心した顔をした。
「婚約者についても、国が勝手に動かすことはありません」
「ありがとうございます」
「余からも約束しよう」
国王が身を起こした。
「そなたが帰りたいというのなら、もう止めぬ。婚約者にも何もせん」
「ありがとうございます。何だか自分でも抑えられなくなっちゃって。すみませんでした」
「いや、よい。よくはないが、よい」
国王は疲れたように額を押さえた。私も同じ気分だった。勇者が立ち上がる。
「では、今夜帰ります。いろいろお世話になりました」
勇者が一礼し、扉へ向かう。
その手が取っ手に触れる直前、止まった。
「あ」
国王と私は同時に身体を強張らせた。勇者が振り返る。
「報奨金はいただきたいです」
「…………」
「皆と同じ額を」
国王が私を見た。私も国王を見た。
「……も、ちろんだ。王都の預かりでいいだろうか。引き出す際にはここまで来ねばならんが」
「もちろんです。ありがとうございます」
勇者は笑って、今度こそ部屋を出ていった。
扉が閉まる。
やがて国王が、深く長い息を吐いた。




