6 祝宴 –––– とある伯爵視点
魔王を倒した勇者というから、もっと威圧感のある男を想像していた。あるいは、見るからに英雄然とした偉丈夫か。聖剣を腰に佩き、国王を前にしても物怖じせず、己の功績を当然のものとして受け止めるような男。
少なくとも、王宮の大広間で料理を口にしながら、隣にいる弓使いらしき青年と何やら笑っている、あの男ではないと思っていた。
「……あれが勇者か」
伯爵は手にした杯を傾けながら、広間の向こうへ目をやった。
今夜の祝宴は、もちろん勇者一行の帰還を祝うためのものだ。王宮の大広間には数え切れないほどの燭台が灯され、磨き上げられた床にはその光が映り込んでいる。楽団の奏でる音楽の合間を縫うように人々の話し声が重なり、長い卓には肉や魚、色鮮やかな野菜、菓子や果物まで惜しげもなく並べられていた。
招かれたのは王族と、王都にいる主だった貴族たち。それに神殿や騎士団の重役もいる。
もちろん、皆が今夜ここへ来た一番の目的は、中央にいる6人だった。
やがて楽団の演奏が止み、国王陛下が席を立った。広間を満たしていた話し声が静まる。陛下はまず、無事に帰還した6人を労い、彼らが魔王を討ち果たしたことで国に大きな脅威がなくなったことを告げた。勇者だけでなく、その旅を支えた5人の仲間にも惜しみない拍手を、と呼びかける。
広間に大きな拍手が響いた。
中央に並んだ6人も、それぞれに頭を下げる。大男は照れくさそうに頭を掻き、その隣では少女のように小柄な女性が嬉しそうに笑っていた。聖女だけはこうした場に慣れているのか、落ち着いた微笑みを浮かべている。残る男たちも、緊張した様子であったり静かに一礼するだけだったりと、反応はさまざまだ。勇者も仲間たちと同じように、集まった者たちへ頭を下げていた。
最後に陛下が杯を掲げる。それに合わせて広間中の杯が持ち上がり、勇者一行の帰還と偉業を祝う声が響いた。再び楽団が演奏を始め、ようやく祝宴が始まる。
特に注目を集めているのは、やはり勇者だった。朝からさまざまな噂が飛び交っている。国王陛下から提示された爵位と領地を辞退した。王宮へ仕える意思もないらしい。さらには王女殿下との縁談まで断ったという話まである。
伯爵は妻の実家の所用で、今朝の謁見には列席できなかった。だが、その場で起きたことは瞬く間に耳へ入ってきた。実家を離れられない妻からも、今夜の祝宴には何を置いても出席し、勇者がどんな人物なのか見定めてこいと厳命されている。
今朝の話はどこまで本当なのか。勇者とはどんな人物なのか。確かめたい者は多いはずなのに、祝宴が始まってしばらくは、勇者一行の周囲に妙な空間ができていた。
皆、見ている。
だが、最初のひとりになろうとはしない。無理もない。魔王を倒した男なのだ。つい先日まで国中の誰もが、その帰還を祈っていた。吟遊詩人はすでに勇者の歌を作り始め、王都では、聖剣を掲げて魔王へ挑んだ姿が、さも見てきたかのように語られている。実際にその戦いを見た者などいないというのに。
そんな人物が、今はほんの数十歩先にいる。だからこそ、かえって近づきにくい。伯爵自身、先ほどから何度か話しかけようと思っているのだが、まだ動けずにいた。
一方、勇者たちのほうは、そんな空気などまるで気にしていないようだった。ひときわ大きな男は、たしか斧使いだったはずだ。早くも大きな肉を皿へ取り、隣にいる子供のように小柄な女性に何か言われて笑っている。あれが魔法使いなのだろう。弓使いは、そう教えられていなければ勇者一行のひとりとは思わないほど平凡な青年で、料理の説明をする給仕と楽しそうに話していた。聖女はさすがにこうした場に慣れているらしく、落ち着いた様子で杯を傾けている。残るひとりは斥候だったか。目立たぬ場所に立って周囲を眺めている男が、おそらくそうなのだろう。
そして勇者は、普通に食べていた。料理の並ぶ卓から小さな焼き菓子をひとつ取り、口に入れる。少し考えてからもうひとつ取り、近くにいた魔法使いへ渡した。受け取った魔法使いが別の皿を指差すと、今度は2人でそちらへ移動していく。魔王を倒した英雄とはどうにも結びつかない。仲間と料理を選び、笑っている姿は、どこにでもいる若者のように見えた。
やがて、騎士団の男が意を決したように動いた。勇者の前まで行き、深く頭を下げる。遠目なので話のすべては聞こえないが、どうやら魔王軍との戦いについて礼を述べているらしい。勇者はすぐに姿勢を正し、相手の話を最後まで聞いてから、自分も丁寧に頭を下げた。
それを見て、空気が変わった。ひとりが無事に挨拶を終えたと見るや、それまで距離を取っていた者たちが一斉に動き始めた。領地が魔物の被害を受けた者、討伐隊へ身内を送り出した者、神殿を通じて討伐を支援していた者。まずは礼を、と近づく者がいる一方で、いつの間にか息子や娘を伴って列に加わる者までいる。
勇者の周囲には、あっという間に人垣ができた。最初こそ純粋な感謝の言葉が多かった。勇者もそのたびに丁寧に応じ、自分ひとりの功績ではないと言って仲間たちを紹介している。ところが、話は次第に魔王討伐から離れ始めた。
今後は王都に住むのか。騎士団へ入るつもりはないのか。一度ぜひ我が領地へ来てほしい。王都に屋敷を持つなら紹介できる者がいる。聞こえてくる言葉はさまざまだ。その合間を縫うように、娘らしき若い女性を前へ出している者までいる。
なるほど。
感謝だけが目的ではないらしい。それでも勇者は露骨に嫌な顔をすることもなく、ひとつひとつに応じていた。無礼な男という噂も聞いたが、少なくともそうは見えない。
伯爵も、そろそろ自分の番を確保しなければ妻に何を言われるか分からない。人垣の後ろからじわじわと距離を詰め始めた、そのときだった。
「なるほど。君が勇者か」
よく通る声が響いた。先ほどまで我先にと勇者へ話しかけていた者たちが、今度は見事なほど素早く左右へ退いた。伯爵も足を止める。やはり来たなと思った。
現れたのは、王国でも指折りの領地を持つ侯爵だった。齢は60を越えている。先王の時代から宮廷に出入りし、国王にも遠慮なく意見することのできる数少ない人物だ。王宮における序列も高く、財も人脈もある。
その後ろには、侯爵と古くから親しい2人の貴族もついている。取り巻きというほど従属した関係ではない。領地も家格もそれなりのものを持つ男たちだ。ただ、王宮で侯爵と行動を共にしている姿はよく見かけるし、侯爵の長話にも慣れている。
悪い人物ではない。むしろ領主としての評判はいい。面倒見もよく、頼られれば力を貸すし、若い貴族の失敗を取りなすこともある。ただし、ひとつ困ったところがある。自分が世の中をよく知っていることを、本人もよく知っているのだ。そして経験の浅い若者を見ると、教えずにはいられない。
「初めまして」
勇者が頭を下げると、侯爵は鷹揚に頷いた。
「うむ。話は聞いておる。大したものだ。よくやってくれた」
「ありがとうございます」
「それにしても今朝は驚かされたぞ。陛下からの爵位と領地まで辞退するとはな」
いきなりそこへ行くのか。伯爵は心の中だけで呟いた。周囲の者たちも散ったわけではない。侯爵に場所を譲っただけで、少し距離を取って成り行きを窺っている。
「はい。僕の身には余ります」
「これから覚えればよいのだ」
間髪を入れずに返され、勇者がわずかに目を瞬いた。
「最初から領地経営を知っている者などおらん。優秀な家令をつければ済む話だ」
「はあ」
「せっかく陛下が功績を認めてくださったのだ。地位というものは持っておいて損はない。金も同じだ。自分には必要ないと思っているときほど、持っておくべきものだぞ」
侯爵の後ろにいたひとりが、もっともだというように頷いた。
「侯爵閣下のおっしゃる通りです。これほどの功績を立てたのです。遠慮なさることはありませんよ」
もうひとりも穏やかに笑う。
「陛下も、それだけあなたを高く評価しておられるということでしょう」
勇者は3人の顔を順に見たあと、曖昧に頷いた。侯爵はそれをどう受け取ったのか、満足そうな顔をした。おそらく、素直な若者だと思ったのだろう。
伯爵は知っている。こうなると長い。
「それに、それほどの力があれば、この先も国から頼られることは多い。いつまでも一介の平民というわけにもいくまい。身分を持ち、王都に屋敷を構えたほうが何かと都合がよいぞ」
後ろの2人も、また頷いた。伯爵は少しだけ勇者に同情した。
ところが侯爵は、そこでさらに一歩踏み込んだ。
「しかも王女殿下の話までだからな」
空気がぴんと張り、周囲のざわめきがわずかに小さくなった。当の侯爵はそんな周囲の反応には気づいていないのか、呆れたように息を吐いた。
「それこそ若さゆえだな。あれほどの縁談は二度とないぞ」
後ろのひとりも、さすがにこれは惜しいと思ったらしい。
「王女殿下との縁組ともなれば、勇者殿ご自身だけでなく、将来のお子にも大きな意味を持ちましょう」
勇者が反論しなかったことを賛意と捉えたのか、侯爵が身を乗り出す。
「なぜ断った?」
「婚約者がいるので」
侯爵の動きが止まった。その後ろの2人も止まった。伯爵も勇者を見た。今度こそ、周囲の空気がはっきりと変わった。口元を手で覆う令嬢がいる。扇の陰で隣の者と顔を見合わせる夫人もいた。少し離れた場所では、年頃の娘を連れた貴族が何ともいえない顔をしている。なるほど。今夜この勇者との縁を探ろうとしていた家は、ひとつやふたつではなかったらしい。
伯爵にとっても初耳だったが、この反応を見る限り、周囲の者たちも同じなのだろう。
侯爵だけが、すぐに立ち直った。鷹揚に頷いている。
「なんだ。そんなことか」
そんなこと。
勇者の眉が、ほんのわずかに動いた。
「相手はどこの娘だ?」
「どこの、とは?」
「貴族ではないのか?」
「違います」
「なんだ。ならばなおさら問題はない」
侯爵は安心したように笑った。
「世間を知らなさすぎるようだ。勇者ともなれば、これからは立場が変わる。王女殿下との縁組が決まるのであれば、それをお受けして、その娘にも相応の待遇を用意してやればよい。別に捨てろと言っているのではない。そばに置いてやればいいのだ」
勇者の口元から笑みが消えた。それだけだ。侯爵を睨んでいるわけでもない。声を荒らげたわけでもない。なのに、伯爵は先ほどまでとは何かが違うと感じた。同じものを感じ取った者がほかにもいたのだろう。侯爵の後ろにいた2人からも、先ほどまでの相槌が消えている。周囲の囁き声も、いつの間にか途切れていた。
しかし侯爵は気づいていないのか、あるいは意に介さないのか、そのまま続けた。
「陛下とて、それくらいはお認めになるだろう。いや、王女殿下ともなれば多少の支障はあるやもしれんが、そこは話し合えばよい。その娘にとっても悪い話ではないぞ。平民のまま暮らすより、よほど恵まれた生活ができる」
「なるほど」
勇者が頷いた。声は穏やかだった。
「侯爵様には奥様がいらっしゃいますか?」
あまりに話が飛んだので、侯爵も少し面食らったらしい。
「無論いるが」
「奥様以外の女性は何人いらっしゃるんですか?」
「なっ――」
侯爵の顔色が変わった。
「無礼な!」
「無礼に当たるんですか?」
勇者は不思議そうに聞き返した。
「先ほど僕に世間を知らないと仰いました。侯爵様には何人も女性がいらっしゃるというお話ではないのですか?」
「いや、それはだな――」
侯爵が後ろを振り返った。先ほどまで熱心に頷いていた2人のうち、ひとりはいつの間にか杯へ視線を落としている。もうひとりは、ちょうど楽団の演奏が気になったらしく、まったく関係のない方向を眺めていた。どうやら、この先まで侯爵と運命を共にする気はないらしい。
「奥様にもいらっしゃるんですよね」
「なにっ?」
侯爵の顔が勇者へ戻った。
「侯爵様ほどの方が、こんな場所でおっしゃるんですから、この国ではそれが普通なのかと思って。だったら奥様にも、侯爵様以外の男性が何人かいらっしゃるんですよね?」
今度こそ、後ろの2人が完全に黙った。伯爵も黙っていた。何しろ勇者は、侯爵が自分で言ったことを、そのまま侯爵夫妻へ置き換えているだけなのだ。
「それとこれとは話が違う」
「どう違うんですか?」
「君は男で、相手は――」
侯爵が言葉を止めた。
勇者は黙って続きを待っている。伯爵も待った。おそらく、周囲にいる全員が待っている。侯爵は口を開きかけては閉じ、ついには助けを求めるように後ろを振り返った。杯を見つめていた男は、まだ杯を見ていた。楽団を眺めていた男は、いつの間にか演奏に合わせて小さく足で拍子まで取っている。
伯爵は危うく笑いそうになった。
「宮廷や王都の生活は、やはり僕のような不調法者には難しいみたいですね」
穏やかに口を開いたのは勇者だった。
「ご忠告、ありがとうございます」
張りつめていた空気が、一気に緩んだ。
「でも僕は、彼女だけでいいです」
しばらくして、侯爵が大きく息を吐いた。
「ま、まあ、なんだ」
咳払いをひとつしてから、先ほどよりいくらか小さな声で続ける。
「そのように思える相手に出会えたということは、果報というよりあるまいて」
「そうですね」
勇者は今度こそ素直に笑った。侯爵はその顔をしばらく眺めていたが、やがて気まずそうに視線を逸らし、もう一度咳払いをした。
「まあなんだ、今夜は祝いの席だ。説教をするために来たわけではない」
「はい」
「魔王討伐については、本当に感謝している。何か力になれそうなら声をかけてくれ」
「ありがとうございます」
侯爵が勇者の肩を何度か叩いたところで、それまで楽団に夢中だったはずの男が、絶妙な頃合いで声を上げた。
「閣下。そういえば、あちらに公爵がおられますぞ。先ほどお話があると」
「おお、そうであったな」
侯爵は何事もなかったように踵を返し、2人もすぐにその後へ続く。勇者から見えなくなったあたりで、そのうちのひとりが侯爵の肩へ手を添え、何やら慰めるように話しかけているのが見えた。伯爵は、今度こそ笑いそうになった。あの侯爵が自分から話を切り上げたうえ、連れに撤退路まで作ってもらうとは。珍しいものを見た。
侯爵たちが去るのを待っていたかのように、小柄な魔法使いが勇者のもとへ駆け寄ってきた。何か言いながら色とりどりの料理が並ぶ卓を指差し、そのまま勇者の袖を引いて連れていく。
勇者も抵抗することなく引っ張られていった。仲間たちのところへ戻るころには、先ほどまでの空気が嘘のように消えている。魔法使いに渡された何かを口に入れ、斧使いに声をかけられて笑っていた。
その姿を見て、周囲にいた者たちが、示し合わせたわけでもないのにゆっくりと息を吐いた。伯爵もそのひとりだった。もっとも、これで人が寄りつかなくなったわけではない。少し経てば、また別の貴族が勇者へ近づいていく。今度はさすがに王女との縁談について尋ねる者はいなかったが、挨拶をしたい者も、話を聞きたい者も、顔を覚えてもらいたい者もまだ大勢いる。勇者一行を囲む人の輪は、宴が進んでもなかなか途切れそうにない。
だが、今さらあの輪へ割って入る気にはなれなかった。それに、いざ目の前に立ったところで何を話せばよいのか。先ほどまで考えていた挨拶の言葉も、侯爵とのやり取りを見ているうちに、すっかり頭から抜け落ちてしまった。
けれど、無礼な男ではない。世間知らずというのも、おそらく少し違う。王家を軽んじているわけでもなければ、自分の功績を盾に好き勝手をしたいわけでもない。ただ、自分にとって必要なものと、そうでないものが、妙にはっきりしているのだ。金も、爵位も、領地も、王女との縁談も。世間がどれほど価値のあるものだと言っても、自分に必要がなければ欲しがらない。
そして、自分にとって大切なものについては、世間がどれほど価値がないと言おうと、手放す気はないらしい。
今夜の主役であり、誰もが少しでも話をしたがっている男は、ちょうど会話が途切れた隙を見つけて、卓からまた何かをつまんでいた。
朝から王宮中がこの男に振り回されている理由が、ようやく少し分かった気がした。
直接話すことはできなかったものの、妻にはよい土産話ができそうだ。




