第四話 夕暮れ
〈目次〉
・第一節 田辺教授
・第二節 夕暮れ
・第三節 テレビ番組
〜前回のあらすじ〜
青いワンピースと赤いハイヒールという張り切った格好で通学する結衣。結衣は、親友の茜と会い、一緒に授業を受けることとなった。結衣と茜は、午前の授業終了後、一緒に学食の寿司を食べ、午後の授業へ向かう。
〜登場人物〜
・山崎結衣
19歳。山崎弘・美佐子夫妻の長女。意義人の姉。文学部の女子大生。美白な肌と綺麗な茶色のロングヘア、美脚、丸い小顔が特徴。普段は青いワンピースを着ている。少しだけ女優として活動している。弟の意義人とは喧嘩中だ。
・山崎意義人
山崎弘・美佐子夫妻の長男で、結衣の弟。17歳の男子高校生。結衣と比較すると地味な顔立ちだが、似ている部分もある。姉と喧嘩中。
・山崎弘
山崎義郎・文枝夫妻の長男で、結衣と意義人の父。年齢は45歳。容姿は、眼鏡をかけた地味な丸顔で、髪は少し薄く、小太りである。愛娘の結衣を溺愛している。大喧嘩した妻の美佐子からは口を聞いてもらえず、気まずい思いをしている。
・山崎美佐子
田辺寛夫・優美子夫妻の長女で、結衣と意義人の母。年齢は42歳。顔は結衣と似ているが、結衣よりほんの少し面長。髪型は、若干ウェーブがかかった茶髪。優しい性格。
・田辺明
田辺建(結衣の大伯父)の長男で、美佐子の従兄にあたる。結衣の大学で、理学部の教授として勤めている。
・山田茜
結衣の高校時代からの親友。髪型は黒いショートヘアで、生意気な顔をしている。悪戯好きな性格。結衣に寿司を奢ってあげた。
第一節 田辺教授
寿司を食べ終え、すっかり機嫌を直した結衣と茜は、仲良く大学のキャンパスを歩いていた。茜は、結衣のお腹の音をネタにしながらも、結衣の好きな寿司を奢ってくれた。おかげで結衣の空腹は満たされ、先ほどの羞恥心も、少し和らいでいた。
結衣「もう、茜ったら、ほんと意地悪なんだから〜。でも、今日のお寿司、美味しかったね!ありがとう。」
茜「どういたしまして。たまにはご馳走してあげないとね、猛獣使いのうちとしては。それにしても、結衣、あんなにお腹鳴らしてただけあって、いっぱい食べたねぇ。」
結衣「うるさいっ!人の食欲をなめないでよね!茜こそ、よくそんな細い体で生きていけるわね…」
他愛もない会話をしながら歩いていると、突然、背後から落ち着いた声が聞こえてきた。
明「もしかして、寛夫叔父さんのお孫さん?」
結衣は声のする方を振り返った。そこに立っていたのは、理学部の田辺明教授だった。明は結衣の大学に勤めているが、文学部の結衣の授業を担当することはほとんどない。しかし、何度か会ったことがある。明の顔を見て、結衣は一瞬、戸惑いの表情を浮かべた。まさか大学で会うとは。
結衣「あ、田辺先生!はい、そうです。山崎結衣です。」
結衣は、ぺこりと頭を下げた。隣にいる茜は、状況が分からず、きょとんとした顔で結衣と明を交互に見ている。
明「やはりそうか。いや、こんなところで会うとはな。元気にしてたか?随分と大人になったな。」
明は、穏やかな笑顔を浮かべて結衣に話しかける。その視線は、結衣の隣に立つ茜にも向けられた。
結衣「はい、おかげさまで。先生もお変わりなく…こちらは、私の友人の山田茜です。」
結衣は、茜を紹介した。茜は、慌てて会釈する。
茜「は、初めまして!山田茜です!」
明「ふむ。山田さんか。結衣ちゃんと仲が良いようだな。寛夫叔父さんには、いつも世話になっている。結衣ちゃん、学業は順調か?何か困ったことがあれば、いつでも相談に乗るぞ。」
明は、そう言って結衣に優しく微笑んだ。結衣は、少し照れながらも、「はい、ありがとうございます」と答える。茜は、結衣と教授の関係が全く掴めず、混乱した様子で結衣の袖を引っ張った。
茜「結衣、この人、誰?なんでそんなに馴れ馴れしいの?」
茜は小声で尋ねる。結衣は、茜に聞こえないように、しかしはっきりと答えた。
結衣「この方は、おじいちゃんの…親戚の人。」
寛夫(美佐子の父)には八人の兄弟姉妹がいる。明は、寛夫の兄・建の長男だ。つまり明は美佐子の従兄にあたる。結衣にとっては、遠い親戚だが、教授として大学で会うのは、やはり少し気まずいものがある。
明は、結衣を見て穏やかに微笑んだ。その眼差しは、遠い昔の記憶を辿っているかのようだ。子供の頃、家によく遊びに来ていた幼い従妹、美佐子を可愛がっていた頃を思い出しているのかもしれない。
明「まさかあの美佐ちゃんがこんな美人さんを産むとはなぁ。いや、結衣ちゃんは寛夫叔父さんの血もしっかり受け継いでいるから、当然か。」
明はそう言って、再び結衣に優しい眼差しを向けた。その言葉に、結衣は少し照れたように頬を染める。隣の茜は、完全に置いてけぼりで、結衣の腕を強く掴んだ。
茜「え、結衣のお母さんって、この先生の親戚なの!?しかも、美人って言ってるし!何それ、全然聞いてないんだけど!」
茜は、興奮気味に結衣に詰め寄る。結衣は、そんな茜をなだめるように、困ったような笑顔を浮かべた。
結衣「もう、茜ったら。大声出さないでよ。えっと、田辺先生、お褒めの言葉、ありがとうございます。母も喜ぶと思います。」
結衣は、明に深々と頭を下げた。明は、そんな結衣の様子を見て、くすくす笑う。
明「ふむ、結衣ちゃんは謙虚だな。美佐ちゃんも、昔はもう少し素直だったんだがな。結婚してからは、すっかり会いに来てくれなくてな。弘さんとは仲良くしてるか?」
明の言葉に、結衣は一瞬、顔を曇らせた。母と父の関係は、ここ数日、ギクシャクしている。そのことを、遠い親戚とはいえ、明に話すべきか否か、結衣は迷った。しかし、明の優しい眼差しに、結衣は少しだけ心を許した。
結衣「えっと…母は、今は少し…大変な時期というか…でも、元気にしています。」
結衣は言葉を選びながら、曖昧に答えた。明は、結衣の言葉の端々に、何かを察したようだった。
明「そうか。まあ、夫婦仲というものは、外からは分からないものだからな。だが、美佐ちゃんも、結衣ちゃんという良い娘がいるのだから、きっと大丈夫だろう。」
明は、そう言って結衣の肩をポンと叩いた。その温かい手の感触に、結衣は少しだけ安心した。
明「結衣ちゃん、もし何かあったら、遠慮なく私に相談しなさい。遠い親戚ではあるが、私も君の伯父のようなものだ。困った時は力になるぞ。」
明は、再び優しい笑顔を浮かべて言った。結衣は、その言葉に深く感謝した。
結衣「はい、ありがとうございます。先生。」
茜は、結衣と明のやり取りを横で聞いていて、ようやく二人の関係性を理解したようだった。
茜「え、てことは、この先生って、結衣のおじさんみたいな人ってこと?なんか、結衣のおじいちゃんの話とかもしてたし…すごいコネクションじゃん、結衣!」
茜は、今度は感心したような表情で、結衣を褒め称えた。結衣は、そんな茜に苦笑いする。
結衣「コネクションって…ただの親戚だよ。さ、茜、次の授業、遅れちゃうから行こう!」
結衣は、そう言って茜の手を引っ張り、明に軽く会釈をして、その場を後にした。明は、そんな二人を、優しい眼差しで見送っていた。
第二節 夕暮れ
午後の授業を終え、大学を出た結衣と茜は、連れ立って帰路についていた。夕暮れ時のキャンパスは、午前中とは打って変わって、どこかノスタルジックな雰囲気を漂わせている。しかし、茜の口から出る言葉は、結衣にとっては全くノスタルジックではなかった。
茜「いや〜、でもさ、今日の結衣のお腹の音、本当に凄かったよね!学食のお寿司も美味しかったけど、やっぱりあれは忘れられないなぁ〜。今も耳に残ってるもん、『ぐうぅぅぅ〜』って!」
茜は、また笑いながら、今日のお昼前の授業の話を始めた。どうやら茜は、結衣の恥ずかしそうな反応が大好きらしい。結衣は、もう何度目か分からないため息をついた。
結衣「もう、茜!いい加減にしてよ!一日中その話ばっかり!いくらなんでもしつこいって!」
結衣は、顔を真っ赤にして、茜を睨みつける。しかし、茜は全く怯むことなく、むしろ面白そうに笑い続ける。
茜「だって、本当に面白かったんだもん!結衣が、あんなに顔真っ赤にしてお腹抑えてるの、滅多に見れないし。普段はクールビューティーの結衣が、ああいう姿見せると、なんか人間味があって可愛くてさ〜。」
茜は、結衣の肩を抱き寄せ、無邪気な笑顔でそう言った。結衣は、茜の言葉に少しだけ照れたが、すぐにまた膨れっ面に戻る。
結衣「可愛くないわよ!ただの恥ずかしい失敗だから!もう、ほんとにやめて!誰かに聞かれたらどうするのよ!」
結衣は、周囲を気にするようにキョロキョロと見回した。茜は、そんな結衣の反応を見て、さらに笑いを深める。
茜「大丈夫だって!誰も聞いてないって!それに、もし誰かに聞かれても、うちが『結衣のお腹の猛獣の話だよ』って教えてあげればいいだけだし?」
結衣「あんたねぇ!」
結衣は、茜の腕をバシッと叩いた。叩かれた茜は「いっった!」と言いながらも、楽しそうに笑い続けている。結衣は、もう茜を止めることを諦め、やれやれといった表情で空を仰いだ。
結衣「はぁ…もう、茜といると疲れるわ。でも、おかげで今日一日、色々あったけど、楽しく過ごせたかも。」
結衣は、少し照れくさそうにそう呟いた。茜は、その言葉にニヤリと笑い、結衣の肩にもたれかかった。
茜「でしょでしょ〜?うちってば、最高の友達でしょ?さ、早く帰ってご飯食べよ!またお腹鳴っちゃう前にね!」
茜は、そう言って結衣のお腹をポンと叩いた。結衣は、再び顔を赤くして「やめなさいよ!」と叫ぶ。二人の賑やかな声は、夕暮れの住宅街に響き渡り、そのまま家路へと続いていった。結衣の心の中には、まだ茜のからかいに対する不満も残っていたが、それでも、今日の出来事を笑い飛ばせる友人がいることに、ささやかな幸せを感じていた。
第三節 テレビ番組
茜と別れ、一人になった結衣は、ホッと一息つく。茜といると楽しいけれど、時にそのテンションに圧倒されることもある。夕日に染まる道を歩きながら、結衣は今日の出来事を振り返った。お腹の音のハプニング、茜とのバカげたやり取り、そして田辺教授との偶然の出会い…。色々なことがあった一日だった。
自宅の玄関のドアを開けると、リビングから美佐子の優しい声が聞こえてきた。
美佐子「おかえり、結衣。」
美佐子は、娘の、少し疲れているが幸せそうな顔を見て笑顔になる。結衣も美佐子の顔を見て、自然と笑みがこぼれた。美佐子の顔には、先日の沈んだ表情はなく、少しだけ明るさが戻っているように見える。祖父義郎の提案が、美佐子の気持ちに良い影響を与えているのかもしれない。
結衣「ただいま、お母さん。」
結衣は赤いハイヒールを脱ぎながら、美佐子に話しかけた。リビングに入ると、美佐子は淹れたての温かいお茶を用意してくれていた。
美佐子「今日もお疲れ様。大学はどうだった?何か面白いことでもあった?」
美佐子は、結衣の隣に座り、優しく問いかける。その眼差しは、結衣の一日の出来事を全て知りたいと願っているようだった。結衣は、温かいお茶を一口飲むと、今日の思い出を話し始めた。お腹の音のハプニングから始まり、茜とのドタバタ劇、そして、田辺教授との予期せぬ再会まで。美佐子は、結衣の話に耳を傾けながら、時折クスッと笑ったり、心配そうな顔をしたりと、様々な表情を見せた。
結衣「…で、田辺先生がね、お母さんのことも心配してたよ。『美佐ちゃんも元気にしてるか?』って。」
結衣がそう言うと、美佐子の顔に一瞬、複雑な表情が浮かんだ。しかし、すぐにその表情は穏やかなものに変わった。
美佐子「お義父様にも、明兄ちゃんにも、みんなに心配かけてしまって…。」
美佐子は、少ししんみりとした声で呟いた。結衣は、美佐子の手をそっと握った。
結衣「お母さん、大丈夫だよ。みんな、お母さんのこと、心配してるだけだから。それに、お父さんだって…」
結衣は、弘が美佐子を心配していることを伝えようとしたが、言葉を選んで躊躇した。美佐子と弘の関係が完全に修復されたわけではないことを、結衣は知っている。
美佐子「…ありがとう、結衣。お母さん、あなたがいるから頑張れるわ。」
美佐子は、結衣の顔を見て、ふわりと微笑んだ。その笑顔は、どこか吹っ切れたような、清々しいものに見えた。結衣は、美佐子のその笑顔を見て、胸の奥が温かくなるのを感じた。家族の温かさ、そして難しさ。それを改めて実感する一日だった。
美佐子「そういえば、義郎おじい様の別荘の件だけど…そろそろ返事をしなくちゃね。結衣、あなたも一緒に行ってくれるかしら?」
美佐子は、結衣の顔をじっと見つめた。結衣は、美佐子のその問いかけに、迷うことなく頷いた。
結衣「うん!もちろん!お母さんと一緒に行きたい!」
結衣の言葉に、美佐子は嬉しそうに微笑んだ。その笑顔は、この数日間の美佐子の表情の中で、一番輝いて見えた。
美佐子はリモコンでテレビの電源をつけた。30分後に、美佐子の好きな歌手が出演する番組が始まるからである。テレビがつくと画面には、アフリカのサバンナを背景に、悠然と佇むライオンが映し出された。美佐子が観たいのはこれの次の番組だ。テレビに映るライオンは、大きく口を開け、猛獣らしい恐ろしい鳴き声で吠えている。その咆哮は、まさに今日、結衣のお腹から響き渡った「ぐうぅぅぅ〜」という音を彷彿とさせた。
その時、結衣のスマホが震えた。茜からのLINEだ。画面を見ると、茜もたまたまそのライオンの番組を観ているらしく、メッセージには大きく「猛獣再びwww」と書かれている。それに加えて、あのライオンの咆哮を録音したと思われる音声ファイルが添付されていた。
結衣「もう!茜ったら…!」
結衣は、思わずスマホを見ながら顔を赤くして呟いた。美佐子は、そんな結衣の様子を見て不思議そうな顔をする。
美佐子「結衣?どうしたの?」
結衣は、慌ててスマホを隠すように背中に回した。こんなもの、お母さんには見せられない。いや、聞かせられない。
結衣「な、なんでもないよ!ただ、茜が…またくだらないメッセージ送ってきただけだから!」
結衣は、どもりながら答えた。テレビのライオンは、またしても「ガオーッ!」と吠えている。その音と、茜からのLINEが、結衣の羞恥心を再び刺激した。
美佐子「ふふ、茜ちゃんも元気ね。でも、このライオン、すごい迫力ね。結衣のお腹の音も、こんな感じだったりして?」
美佐子は、冗談めかしてそう言った。その言葉に、結衣はギョッとして美佐子の顔を見た。まさか、お母さんにはお腹の音の大きさまでは話していないのに、こんなこと言うなんて。結衣は、冷や汗が背中を伝うのを感じた。
結衣「ち、違うよ!まさか!私のお腹の音は、もっとこう…小鳥のさえずりみたいな…」
結衣は、必死に否定しようとするが、言葉が詰まってしまう。美佐子は、結衣の慌てた様子を見て、にこやかに笑った。
美佐子「あら、そう?でも、ライオンって、こうやって吼えることで、自分のテリトリーを守ったり、仲間とコミュニケーションを取ったりするのよね。もしかしたら、結衣のお腹の虫も、何かを訴えかけていたのかもしれないわね。」
美佐子は、そう言ってテレビのライオンを見つめた。結衣は、美佐子の言葉に、ハッとする。お腹の虫が訴えかけていたもの…それは、紛れもない「空腹」だった。そして、茜とのやり取りや、教授との会話も、ある意味での「コミュニケーション」だったのかもしれない。
結衣は、もう一度スマホを手に取り、茜からのLINEメッセージと、添付された音声ファイルを眺めた。少し前までは、羞恥心と怒りしか感じなかったが、今は、なんだかおかしくて、少しだけ温かい気持ちになった。ライオンの咆哮は、結衣にとって、もはや恥ずかしい音というだけではなく、今日の出来事を思い出させる、大切な思い出の音になっていた。
結衣「お母さん…私、今日のライオンの番組、もう少し見てみようかな…」
結衣は、そう言って美佐子の隣に座り、テレビ画面を見つめた。美佐子は、結衣の突然の言葉に驚きながらも、優しく頷いた。テレビの中のライオンは、再び大きく吠える。その咆哮は、夕食の準備が始まるまでの間、リビングに響き渡っていた。
『山崎結衣の憂鬱』第五話につづく




