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第二部 第二章


    第二章 JとDの物語 2006年


全ての作業が終焉した時、Kは窓の光の中で自らの心の輪郭が刹那ではあれ見えた気がした。

彼は比類なき幸福感の中で、いつ以来か回顧できぬほどの深い眠りについた。


原宿の社長室ではS、D、Kが顔を揃えていた。

Sは本を読み終わると、その仰々しい輪島塗の木箱を開封し、まばゆく光を乱反射させるグラスを胎児を抱くように持つと、棚の最上段に飾られていたブランデーを並々と注いだ。

輪島、わがあの故郷、この漆器も命を削って塗られている。

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                              「自分はこういうモノとあえて距離を取ってここまで来た、あくまで世俗に訴えかけ、表層的にどこまでもうわべに華やかな世界、だが、自分が今Hをこの本の世界に送り出せる立場に居る。

Kさんあなたはこの人生にとって最大の賜物をくれた」

SはKに対し深い礼をしつつDを見やり、

「DよHを思う存分鍛えてやってくれ、世界のすべを手に入れたと思い上がり、それこそ毎晩酒池肉林の中で堕落いているH、その乱痴気を毎日揉み消すため、自らもその酒池肉林の闇の中で自分までをも見失なっていた私を叱責するごとくにHを鍛えてくれ」


「Jさんにご協力いただいても構いませんか」

Dはやや遠慮しがちに訊ねた。

Sは刹那、眉間のしわを寄せ、一瞬だけ陰りをみせた、しかし、Sは再び喜びに埋もれた恍惚の表情に戻って

「任せる」

と言って、窓から眼下に揺れ動く人並みの群れを遠く見つめて、ブランデーを口の中で泳がせた。


Sのほほが紅潮し瞳が潤んでいたのはブランデーの仕業でないのは明らかだった。


Dは下北沢のホールへ向かいJのもとを訪ねた。

Jは所謂恐怖の演出家、暴言、ダメ出しのなかで役者を徹底的に鍛える、妥協なき、いやもはや悪意をぶつける演出家として名を馳せていた。これはJへの賛辞として適切かは不問とするが、

Jの指導を乗り越えたものは俳優として確かな実力派担保されるが、なにせ乗り越えるのは至難の業と言われた。

人格否定、容姿侮蔑、演者のプライドを図たぼろにするのが彼の役目であり、であるからこそそれでも、その演者にまだプライドが死んでいないなら、それはもはや役者としての矜持を得た、俳優としての確固たる実力をJから担保され、

そして世間からも認知された。

「俺があのHを指導・・・」

Jは苦い顔をしながらDの話を聞いた

無論、前もって送られてきたKのこの本の高い芸術性をよく理解できるからこその渋い顔だった。

「無論、Jさんに演技指導をしていただくだけで、責任はこちらがとります」

JはDの瞳の奥まで見通せるように彼を凝視していった

「自惚れているわけじゃないが・・・俺はこれでもたくさんの、いや多すぎるほどの人間を見てきた、そもそも俺に耐えられないと思った奴には指導しない」

「・・・つまり、Hには耐えられないと」

「間違いないだろう、彼は君がというよりSの狸が17の時デビューさせてから、四方八方から黄色い歓声を熱波のように浴び、耳をふさいでも終わらないほど聞きづけて、ただひたすらに数字、つまり人気という名声こそが正義、その揺るがない低俗な娯楽の有意義さをHに植え込んだのはSなはず、そのSがこういう本をH主演で映画にしたいと、にわかには信じがたいね」

Jは思う、命が削られて魂が宿っているかのようなこの本の主演を、派手な生活中で自分の欲望のままに生き、下世話に入れ替わり、立ち代わるヴァギィナの中にしか、歓喜も生きる意義も、突き詰めるところ自己肯定を感じることができないほどに麻痺したHに務まるのか、失敗すればHのみならず、あまつさえSまでその作り上げたコネクションに亀裂、解れが入りかねない、Sの心意気も理解する余地が一切ないと断定できはしないとしても、下世話は大衆文化、低俗な大衆文化、それがHをアイコン、シンボルにしている、そして、もしこの本まで大衆に堕ちたら、自分はHを許せない、そのくらいの賞賛に値する、優れた、至上の本だ。

つまり、SはHを引き上げたいのか?

だが、大衆を置いていくことに覚悟はできるのか?

それともH、いやこそ作品を通して大衆自体を押し上げたい?

大それたことを考えたものだ、奴は今更、演歌歌手のマネージャーの価値観、娯楽観とてでもいうか、そんなものから脱出したいのか、自分がやりたいのは芸術だと、この本がその契機だと、奴にまだそんな気概があるとは、いやそんな気概を持っていた過去さえ想像もつかん。

Jは自らの出口の見えない逡巡に次第に疲労感を感じながらも、何かに引き寄せられている感覚にいた、それを「失礼します」劇団員の滑舌のいい声が響いたことで現実に戻った。


稽古場の扉が開くとPとNが立っていた

Jはやせぎすの男Pの横にいるその少年を見たその時、すべて、というよりKの心情の伝導を受け止めた。

この少年には誰もが憧れ、しかし手にできぬゆえにに疎まれる、この少年にはその生まれながら奇蹟的に持ち合わせた二面性を持っている。

女性のように美しいが、それを打ち消すようで助長するような厚い胸板のと、とてつもなくくびれた腰の完璧な逆三角形は、まさに男性的なそのたけだけしさと女性のなまめかしさの相反するものが作る一瞬の幾何学的で神秘的な美の具現。

透き通るよに白い肌が必要最低限の筋肉に揺れ隆起する様は、美という概念より官能的という表象の方がしっくりきた。

Jも様々な演者を見てきた、人形のように美しい人間はあまた知っている、が、この子は、頭上をアゲハチョウとカラスが仲良く飛び交っているような、両立しえないと知りながら、なおも両立への憧憬を捨てきれない、ヒトがかろうじて描いた菩薩が呼吸をしている様な

現世に似つかわしくないその立ち姿だった。

さすがKが命を削っただけはある。


「Dよ、分かった引き受けよう」

Jは静謐を破らぬよう、落ち着いて言った

「明日から、Hとこの少年を1っ月この稽古場に通わすよう手配してくれ」

「感謝します」

Dは平身低頭に回答した。


スタインベックはエデンの東の演者がジェームスディーンでなかったら、絶望のあまり命を絶ったかもしれない。

そのくらい映画「エデンの東」は原作を無碍にしたものであり、だが、あのディーンのみずみずしさと世捨て人のような無二の存在が、あの映画を正当化させた。

Hが今更ディーンにはなれない、だが、あの人間の価値観の枠内を超えたあの少年となら、思いもしない化学変化が生まれ、スタッフも、それこそ視聴者も、その場の雰囲気がたがに引きあうようなあの至上の感覚に満ちた映像が目指す芸術という名のゴールに到達可能かもしれぬ。

そう、決してエデンの東の二の舞になぞならず、Kはスタインベックにはならず、無論Hはディーンになるはずもない、なれる余地が元からない、此処に本当の芸術映画が生まれる、それがKの夢、悲願だったことは間違いない。

Sの内心の真偽の追求は置いておくとしても。


翌日から始まった稽古においてJはHを怒涛のように罵った。

Jのすることは簡単、Hのすべてを否定すること

Hの自信が思う拠り所をすべて制圧する、どれくらい持つか、それはHの核、感官の拠点のような拠り所を削除されて湧き上がるような本当の城塞、つまり、矜持が現れるまで侵攻しつづける攻撃。

Hは朝8時から夜9時までひたすら続く罵声の中で、反感はほんの束の間、初日の正午まで、次第に自分が罵詈雑言という彫刻刀で掘られ、更に自らの美が洗練されていくだろうのを本能的に感じ取った。


毎日の予定に入っていた、あのかぐわしくきらいめいた酒池肉林の宴にはもはや、行く体力、というより興味が潮のように引いていた

千本ノックを受けて毎日倒れこむ高校球児のようなあまりに健全な疲労の中で沈み見込むように眠り、起きると長い髪をくくりまた稽古場に向かう、そしてJの罵詈雑言をプライドという皮をむくような刃として受け続けた。

もはやカンナ削り。

それが、1か月たつ頃にはもはや心地よくなっていった。

Hは初めて自らの核、つまりプライドと言う膜に堅牢に覆われた矜持を見た。


パーン!!!!!!


Jの合掌が稽古の終了を合図したときHは膝から崩れ落ち、美しい顔をクシャクシャにして嗚咽にまみれた。

JがHに微笑んでゆっくりと屈んでささやいた。

「今の君は本物の美しさそのものだ」

Hは稽古場に響き渡るサイレンのようにわんわんとないた。


さて、Nはどんな指導をされたかといえば、

「よく見てろ」

そのJの教えを本人なりに遂行した。

Nの任務、それは、この両者のせめぎ合いを見ていることだけだった。

元からコアのNには、玉ねぎの皮がはぎ取られていく過程を眺めていればよかった。

そして、そのはがれた皮こそ世俗の意味そのもの、Nにはその皮が世俗でありいつかまとうべき鎧として大切だった。

それをNは取捨した。

まだ、13というのもあるが、それよりいつか来るであろうその時の為に世俗という名の皮は必要だとJは思っていたのだ。

もっとも、Nにその鎧が過小だとはJにも先取出来なかったが。


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