第一部 エピローグ
第一部 エピローグ
社長室を出てエレベーターに乗ると
Kから不意を突く言葉が飛び出した。
「少し歩きませんか?」
ビル正面入口を出るやKはNをじっと目し訊ねた。
化学者のようではなく、見下ろしながらも仰ぐように。
「どこ行きたい?」
Nは突如、左手を掲げ、Kの面前から下へ降ろし大地に平行にすると、その掌を東北東の方へ向けた。
Kはその方角を見て、速やかに理解した。
その先にあるは千鳥ヶ淵、そしてその直線の最終地は大手門、Kはそれを直ちに了し、満面の笑みで頷くとNと御苑方面に歩き出した。
DとPは呆気にとられたように咥えたタバコに火も着けず眺めていた。
2時間後、大手門、つまりは日本の鬼門をくぐった時、DとP、2人も同時に思考の靄が抜け、染み渡るように解した。
2人はその靄が晴れたと時に霧雨が現の光景を覆っているのに気づいた。
いつの間にか、Nの左手はKの右手とまるで不可逆的に接合していた。
霧雨の中、その繋いだ掌から一筋の煙のようで、光の結束帯のような「何か」が立ち昇っていた。
当初、PとDは訝りつつ、笑いを堪えつつ、だがその靄を抜けた時、そしてその「何か」に気づいた時、もはや真剣に2人を凝視しつつ後続した。
将門公首塚
皇居の鬼門に構えるこの国の紛れもない主の安息地。
KとNは掌の接合を阿吽に解いた。
4人は夕闇の中、合掌した。
長い時間だった。少なくとも4人には見当もつかぬ程に、客観的な数字で言うなら49分間だった。
霧雨が去ったその時、そよぐような、頭を撫でるような緩やかで、心地よい一陣の風が彼らの頭上を走った。
Kは覚悟を決めた。
Nから伝わる掌のこの異常な温度、そこから発した「何か」が答えだと確信していた。
いや、これこそ、果ての背反真理、答であり、問いでもある。
Kはあの時のように一心不乱に本の改訂に取り掛かった。
「アプリオリ」をひたすら推敲した大学4年間のように。
再び彼は「青い挑戦」を始めた。
余白への回答
不条理の中にあるリアル
最も不条理に近いところにいるNとそこから遥かに距離を置いていると自負し自らを疑わわないH
だが、本当の作品なら、不条理が真理を映す作品なら、二人が必ず符合する。
二面性の中でしか成り立たない一つの、しかし複素解のようなあの人智の表象にて追えぬ高見、高次の実現なす為。虚数と言う科学者達が安易に片付け、蓋をした真理への到達。
真の不条理はその反対のものを、つまり真であり、そして不条理こそ最も彼岸に近く、此岸を超越する真理。
ただ仮初に無欠という虚像の美のシンボルであるHをどこまでも間抜けに、心象悪くさせるよう誘導、つまり此岸の形象そのもののHと、現生を超えた、あの人間離れしたようなNの世俗の価値観に訴える不気味さが、Hを、観る者をやがて美醜という場へ誘い、その場において本当の美を知る。
彼は、いや、此岸の人達全て、彼らはその真理におののく事なく、間欠なき勇気を持って、本当の美までその手を伸ばし、掴む事は能うのか。
この作品にかかわった者はすべからくにおいて良くも悪くも分水嶺となる。
白金の書斎にて繰り返される目まぐるしい作業の中、核としてのその先験的確信の基にKはいた。
第一部 了
第二部
第一章
KとDの物語1 1998年
「アプリオリ」を書き終えると、Kは駒場寮の自室をゆっくりと「化学者」のように観察した。
そう、この机上にあるのは、あの両国でDに書くと宣誓したあの本だ。
彼はこの処女作に大学4年間丸々費やした。
実際、草案の500ページを書き上げるのに3か月かからなかったし、Dは一読してその完成度に腰を抜かしたが、本人はひたすらに、ひたすらに推敲した。
その推敲が自らを赦せるまでに到達した時、彼は大学を卒業してDのところにいた。
そう、国家公務員、裁判官の学閥と比類ない優秀さからくる熱烈な歓迎招待に背を向け、「推敲が終わらない」その理由だけでDのいる撮影所に来たのだった。
1998年2月初春、太秦に牡丹雪が舞っていた。
Kが撮影所を訪ねた時、Dは編集室にもう3日ほど立てこもっていた
分厚い防音扉に「立ち入り無用」と怒りに満ちた殴り書きで張り紙し、ひたすら編集作業に追われていた。
助監督も音響監督もいない、というより取れ高が確保され次第いなくなる、本家の、つまりSに引き抜かれたり、そもそも元から転職するつもりで来ては広告代理店の営業職に就いたり、スタッフ達には総じてただの「社会科見学」でしかない。
こういうところで働いたという経験は何かしら有意義見えるものなのだ、Dのように見えない宝石を見つける愚行など不毛を超越し、最早正気の沙汰ではないのは自明。
よってDは必ず何から何まで一人でやらねばならなかったのだ。
娯楽映画は何より単純明快かつ無駄のない明朗さでしか観る者の評価を得られぬ。
それはDにとって、その事実は忸怩たるものそのもの、だが、それを生業にせざるを得ぬこのジレンマの歯痒さの中で、ただ惰性走行しているようなこの8年間の映画監督生活。
こんなんどうでもいい、という信条でありながら、自分の手がけた作品である以上後悔はしないようにと。
この分裂したこだわりがDをここに居させる理由なのだ。
もっとも、こんなヤクザ映画を製作している時点で、そのジレンマな心情自体が自らをも不憫に思うほどだった。
ヤクザ役と女優の絡みのシーン、所謂濡れ場、彼は努めて真剣に考えていた。
ヤクザの背中からふくらはぎまでにびっしと掘られた刺青、つまり彼の背面を強調した方がいいか、快楽によがり悶える女優にフォーカスするか。
カットは二つのバージョンあった
そもそも本も音響も素人が入れ替わり立代わりで、結局、どう料理しても救いようのないくだらない作品にあれこれと日々孤独に試行錯誤を巡らす、これを労力の浪費以外何の呼称があるのかと思いながら、やはり努めて生真面目にテイクを選別していた
「ピー!!」
内線電話が唸った。
張り紙を見てないんか!あれほど連絡するなといったのにとDは憤怒の念に駆られながら電話に出た。
「なんや!?ファックスですませられんのか!」
Dはいら立ちを隠そうともしなかった
今作から参加した小道具の学生スタッフからだった
「あのー、Kというかたが、自分は監督の旧友でしてDさんはどちらに?と聞いて回ってまして、どないしたもんかと」
それを聞いたDは、その名の響きの懐かしさより湧き出る畏怖の奔流の中に放り出された気分になった。
多分、終わったのだ、かれの推敲が。
彼のあの本への上限なき熱量、それについぞ終止符がうたれた。
確信した。
頑なに映像化も舞台化も、そして輝ける人生をも拒否したあの本。
「推敲が終わっていない」
Kにとって、いや、何事に対しても誰に対して回答はそれだった。
それは、国家公務員試験委員会、司法試験委員会に対しても。
違うのはそのKの回答の意味を理解していたのはDのみという事である。
この撮影所に入ってもう3年、低俗な映画の中に埋もれ、Kという存在は自らの社会的関係性の中にはもはや刻まれることはないと、やはり、それこそ正当だと、正しい人の道と堅固な確信の元にいた。
だが、違う確信が表出していた。
Dが危惧した未来は今現実になっていまいか
つまり、国のかじ取りを行うべき男がまさか、自分の確信が崩壊するのだろう。という確信。
その本の完成度に対してどれほどの驚嘆を感じたとしても、だが、Kがわざわざ自分に会いに来る、この時点で自らが決して邪推ではないいやな風を感知していた。
この風をいなす自信はDには皆無だった
彼とは電話以外にあの両国以来会っていない
なぜ、今自分と会いたいと
考え得ることは一つしかない、そう、どこを入口に入って行ったとしてもたどり着くのは同じゴール、唯一の回答に収斂されたしまうのだ
本が完成したという、その事実に。
この、歓喜と絶えがたい敗北の始まり
だが、今の自分は世俗的敗北にまみれ、敗者であることさえ許されない罪人のよう
なら、本当の敗北を知るために腹をくくる時ではないのか。
「わかった、30分後監督室に行くと伝えてくれ」
Dはスタッフにあくまで事務的に、動揺を悟られぬよう努めていって電話を切った。
監督室はDが入社し、即座に与えられた、たった一つのただ、ここが仕事場であり、ここが彼の住居になった。
娯楽作品のギャラなどたかがしれている、最低賃金、残業手当、そんな労働基準法自体が机上の空論の世界がこのDのいる世界なのだ。
8畳一間に、ベッド、三段づくりの高さ150センチ程度の箪笥に、ベッド、冷蔵庫、レンジ、それだけの部屋。
そのスチール机に高く積まれたフィルムと毒々しい色彩のポスターと脚本、その向かいには壁に沿ってシングルベッドがあり、窓の眼下に冷蔵庫と電子レンジが置かれ、左手に見える子ど具の木箱に使い捨ての紙コップや皿がカオスの一歩手前の絶妙なバランスの中で置かれている。うず高く積み上がっていた。
Kは部屋に案内されると、この雑多で生活感に満ちた今のDの姿をますます拝謁したという思いに駆られた
Dとしては30分で可及的に掃除したつもりだったが、無駄のようだった。
Kには世が言う、華やかでおごそかで、威厳に満ちたあの世界、自らはそれがこの本のひたすらな推敲によってすべて仮初だと確信した。
この空虚で生々しく、体臭むせ返るこの部屋こそ本物なのだ。
もう、すでにKはDが憂慮した通りになっていた。
「お久しぶりです」
Kは慇懃にDにいうと互いに力強く握手を交わした
Dはもはや予期し過ぎた言葉を、いや、予期というより確信の中でKの言葉を聞いた。
「やっと出来あがりました」
DはKの爛々と今は歓喜という言葉の色でのみ染まっている彼の瞳を直視できない自分の歯がゆさとの苦悶の中から、やっと笑顔を引っ張り出して言った。
「そうですか、さっそく読ませていただきます」
それは一人の青年の群像劇、
若き理論物理学者が遂に人の第六感つまり「魂」の謎を解明し、世界中の人間を混乱と狂騒、その中で遂に万物理論に到達し、彼は世界中の人間を想いのままに操るという話だった
つまり六感の理論の発見者たる彼に世界がひれ伏す
哲学、法学、生理学、医学、天文学、そして物理学
すべてを縫合した理論の完成の発表で人間たちはその動揺とパニックに抗い彼に挑むもこの万物論には全く歯が立たず、世界の指導者、科学者たちは哀れに敗北し蹂躙され罵倒され、癌、HIV、そして遺伝子操作、アンドロイド、全てを予測し解決する人類最初で最後の完全なる一点の曇りなき形而上学が完成し、その万物論によってやがてこの青年は世界、いや宇宙を、「魂」をその手につかむ。
そして「創造主」になった時、自らの究極の叡智は愚劣そのものと気づき、自害する
そんな話だった。
長い本だし、堅牢な知識がないととても読み進められない本だった。
文学であり、学術書でもあった。
Dは恐縮しながら言った。
「あまりに難解そうです。なのでゆっくり時間をかけて読みたい、明後日またこちらへ来てくれますか」
Kは満面の笑みでいった、見たこともない笑みで、
「その必要はありません、私はこれからここにいることになりましたから」
溢れる笑み、だが、その溢れる笑みは、Dにとって心のシミとなって今後付きまとう痣になるとも知らぬ満面の笑み。
寺町三条の居酒屋で、KとDは3年ぶりに酒を酌み交わしていいた
両国の時に比っするとDはより愚鈍で、Kはより溌剌として、二人の間には温度差、というより電極がまるで正と負のようだった
だからこそ馬が合ったわけだが、もっとも、その時は少なくとも2人の正負は真逆だったが、
切れ長に奥二重の目、薄い唇をしたいかにも京都人の顔立ちの定員が、生ジョッキ二つとだしまきを運んできた
「ごゆっくりどうぞ」
その店員は他意の余地のない笑顔でジョッキとだしまきをテーブルに置くと去って行った
「なつかしいですね」
Kはだしまきを見てしみじみといった
Dは依然として鉛がつかえたような心情のまま、Kの瞳が店内の爛々とした照明にキラキラと光るのを見た
今のKのそのまばゆさがDの心の中にある鉛に重層的に質量に変換されるようで、DはKから目をそらし、押し黙ったままジョッキを飲み干した
次に何を言うべきか、選択の余地はなかった
「あの本読みましたが・・・」
Kがだしまきから目をDの方に首だけ動かして向けた
Dは餌付くかのような感情の中であえて言った
心の鉛を吐き出すように、まさに吐露した。
「まず、スタッフの数、必要であろう機材、そもそもロケハンにかかる費用、そして確かな、どころか天賦の才と類を見ない経験と、かつ大衆人気を持った演者のギャラ、あれこれ考えると私の手には負えないというのが率直な感想です」
「無論、安く済ませることは、Kさんへの敬意を著しく欠く、という前提ではしてますが、それ以上にあの本には妥協点すら見いだせない、つまり、安く済ませること自体最早イメージできんのです」
そしてもう一つDにはにわかに理解できないことがあった、まだ心の中に沈殿している鉛の残滓をついでに吐き出さねばならなかった
「官僚に翻意する気は?それがだめでも、司法修習は今からでも間に合う、Kさんとにかく東大に戻る気はないんですか?」
Kの顔にやや険しさが見て取れた、口は笑っているが、目の輝きが消えていたのが何よりもの証左だった。
「本を書くこと以上に尊大で奇特、かつ人間性あふれる仕事はないと確信しましたので、趣味で書くのはそんな高貴な作業に失礼というものです、公務員、裁判官、この作業はそういった真空を虚栄心が取り巻いているだけの表層的、つまり世俗的なものでなく、高次の比類なき、そう魂という核との会話でこそ成立する作業です、天職を自分で選んでも仏罰は当たらないと思ったのです」
Kは脳内に何かを浮遊さているかのように続けた。
「今、私にはこのだしまきを懐かしいと思える心の余裕を得ました、この本の完成以外、何がこの余裕をもたらしたでしょう、感性の世界に生きる、これ以上の喜びはありません」
Dはショートホープをくゆらせながら、Kの言葉を自分の海馬に刻みつけるように聞いていた
聞き終わるとDは人生で初めてといってもいいほどKの目を見て言った。
「あの本の一部を使い、要するに、言葉を選ばず言うなら小作品を作る、どうですか?
無論、あの本の出版については私もコネはありますので、文芸担当者に連絡します、そして、できればKさんには東京で行政や司法のお仕事をしていただく、どうでしょうか?」
Kはしばらくビールを含んだまま下を向いていた、そして自らの顎を天井へ向けてぐいっと引き上げ、口内の液体を体の中に流すと、そのまま店の天井を見ていた、そして天井に言葉を反射させて、その言葉でDの心の核を狙い撃つようにやや目を細めて言った
「ご提案、前者は受け入れますが、後者は固辞します」
Dは咥えていたたばこをおそれおののいたようにもみ消した、まるで喫煙の現場を抑えられた高校生のようにその動作はぎこちなく拙かった。
消えきらぬ紫煙が店の照明に交わると一筋の光の道が浮かび上がってはフェードアウトして、その煙と光が織りなす道はいつまでも、どこまでも続くようだった、が、それでいてすぐ瓦解し、不可視になりそうな脆さを同居させていた。




