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第一部 第四章


     

      Hの物語1 2005年



Hの人生は欲しいものはすべなく何もかも手にいれていて、自分が王であることは至極当然と疑わないものだった。

それは生まれた時から何もかも手に入れていたと信じるHにとっては川が高い所から低い所に流れるが如くに当たり前のことだった。

父親より均整のとれた男を見たことはなく、母親より麗しい女性を見たこともなく、そしてなにより自分より美しくかつ精悍な、端正そのものの男を見たこともなかった。

Sにこの原宿で声をかけられこの世界に入ってもそれは必然的にかつ不可変の事項だった。

自らの中に普遍的価値観を持ち合わせることが人間の最終的に目指すべき自信であるなら、Hはその自信という観念の所有者というより支配者だった。

誰も後ろにはもう誰もいなかった、いや、Hだけは違う座標軸にいた。

天界から世を見下ろす自分しかもう知らなかった。

しかし、あのKが推薦する、このイレギュラーな事実はどうにもしっくりこない。

いぶかしさなど今の自分には極めて世俗的なのに妙に気になって、今回Sに顔合わせを願った。

12歳の少年に、あのありとあらゆる知識という知識をバキュームのように吸い込むKの何がそんなに動かされたのか、それが知りたかった。

なんせ、Kは一本の作品のセリフはもとより、総テイク数、カット割り、全ても記憶している

いわゆる脳の妖怪お化けのKが、田舎のガキの何にそんなに惹かれると?

単にKがもう耄碌した?それはない、Dもそのようだ、立駐のパネルを見てKのみならず、D用のナンバーが埋まっている時点で察した。


ロビーに向かうと小柄だが均整のとれた体躯をし、髪を美しく後ろになでつけたBが外の騒ぎを横眼で見ながら、両手を広げてため息をつきながら言った

「ふーう、お疲れ様です、Sさんがお待ちです。」

Bがあてつける様に待ちくたびれたよう言う。

「こんな下らん顔合わせあるか、休みがまた消えた」

そんな顔しかしていないマネージャーだ。

まあ、HはBのそういうところが嫌いではない、というか好きなのだ

Bが教えてくれることは新鮮でしかない、

早稲田の焼肉が1980円で3時間食べ放題、隔週は和牛だとか

水天宮の人形焼屋は原点にして頂点だとか

梅田の立ち飲み屋は一合150円で付き出しに牛すじが出てくるとか

西成で80円のたこ焼きはタコなしなのにあのふわとろさがクセになるとか

名古屋駅太閤口出てすぐの喫茶店のモーニングのうどんは味噌煮込みだとか

もはやHにとってははるか遠くへ行きそうになっている俗世の波の流れのようなものの波紋をかろうじて届けているのがBなのだ

そうして、伝聞でしかない受け売りをテレビでもラジオでも、まことしやかに、まるで実体験したかのようにHが話すとその店は大行列ができた。

自分の影響力が、もはや吹き出す息さえ二酸化炭素だけではない付加価値を持っているような全能感で心?魂?いや、ひたすらに空虚なHの体が風船のようにふくらんでいく。

だが、そこにBが下世話で低俗な針でつついて風船の空気を抜いて、Hがふくらんだ風船で空へ飛んで行ってしまうのを制御している、このBの塩梅が好きなのだ。


「あの相変わらず、夜は電話が一向につながらないんで聞きますが、昨日はどちらへ」

Bはわかっていても聞いた

「あーVのとこ」

「はいはい、しかし、あの娘はあまり褒められた過去をお持ちでない噂もあります、ほどほどで」

エレベーターの扉があく

「いわくつき・・・そういうモノのほど愛しいもんだよ」

「はいはい、そういうことについては私には口出しは職務の委譲内でしかできませんので、本人がいうならあなたの言うとおりなんでしょう」

Bは呆れつつもエレベーターのカメラを横目見ながら言った。

「しかし、語弊を畏れずに言って、珍しいですね」

「Aの昨日の乱れっぷりが?そりゃもうね」Hは不敵に答える。

Bは必死に無表情の保持と笑顔に瓦解しそうなせめぎ合いの中で、「よ み あ わ せ」

とゆっくり言った。


エレベーターの扉があいた

受付のこなれたはずの女性も、流石に体をこの上なく硬直させながら、その固まった頬を真っ赤に染めて、「こちらに」

と、ぎこちなく案内した。

社長、また趣味がまた変わったか?Hは受付の顔がまた変わったのことに笑みを浮かべた。

その女性はHに微笑まれたと思い、硬直から一気の解放で手をバタバタさせたい彼女の人生最大の衝動の制御に神経を集中し、社長室へ平静をかろうじて装ってHを通した。


「よお、」

SがNを見たまま、振り向かず手を挙げた、

つづいて、KとDが軽く会釈する、そして堅気にはとても見えん人相の痩せた男が深々とこうべを垂れて、そしてその男のちょうど肩の高さにNの頭があった。


その痩せたチンピラ風情が言う。

「これがNです」

「ふーん」

「やっぱり、Hさんも何か感じますか・」

「あー・・・・」

Hにはそんなことわかるはずない、自分は世俗にあげられ祀り上げられ、高見にいる、

この少年がどういう結果、つまりどれだけ数字を出すかしか興味はないし、その結果の因果の要素をこの少年から感じるかなぞなど知るわけもない。

なにせ、世俗の因果律なぞ及ばぬところにいる自分にそんな「下世話」なこときくな。

そんな思いを押し殺しながら、このチンピラ男、見た目通り馴れ馴れしいとイラつきながらアメスピに火をつけ、紫煙をくゆらせていた。

が、Pの質問に即答できぬ自分への歯痒さが表出した。

むろん、博学の塊たるKが言うからには、と期待はしたが、その期待の答えが出たか否かは全く不明だった。

それが今の彼の歯痒さの要因だった。


「おい、N!これが天下のHさんだ、自己紹介ぐらいしろ、このくそガキ」

Nは顔を上げてHをゆっくりと凝視した、

世の中にはこんな麗しい男がいるのか、自分には決してたどり着けない、思春期の心がその場において急激に老化し、枯れ木のように簡単にたやすく折れるだろう、それはHに対しての敗北なのか?一面では是である、だが、自らの非力さに打ちひしがれ、憂い、崩れ落ちる人間こそ、その崩れ落ちる際に流す涙に夥しいまでの光が反射したあの煌めきは、夏の終わりの花火のようで、言い換えれば青春のエピローグを告げる何物にも代えがたく美しいとも思う、しかし、そんな経験は皆無であるからこそ「王」になった自分は、ひたすら打ち上げられる花火のままの人生でよい、というよりそれ以外に選択肢がないのだろうなどと、昔は意にも介しなかった事柄がHにはこのところしきりに頭をよぎることが多くなった。

つまり、自分は本当に人生の勝利者か?と自らに問い。

結局、スターの悩みとはこういうことだと自分だけでピリオドを打つしかない。

各々の立場にしか味わえない悩みを味わい尽くし噛みしめる、それが喜びに変われば真の幸福というものだ。

それを実感できるならその人生は勝利なのだろう。

そう回答する。


この今感じている歯痒さも、上記の様な昨今の自分の問答と終わらぬ連鎖をし自身ややは疲弊している節はある。


Kほどの叡智を持つ好々爺が認めた純粋な少年を見れば心の琴線に触れ、少し元気が出るかもしれない。そんな思いを巡らせながらこの少年からも、そんな思春期の自意識の昂揚から湧き上がる向う見ずな挑戦を受けるつもりでいた。


だが、HはNから、彼が想定し何の疑問も持たなかったその純情な敵意じみた圧を全く感じなかった

それは、Hにとっての人生では違和感しかない、なんだこの水銀で出来たかのような鉛色の瞳・・・

この少年、己の羨望とふがいなさと脆弱さの中で溺死するのをこらえるさまをその目から一切伝えてこない。

何もかも与えれ全ての選別を潜り抜けた自分に何の圧力も感じていない、いや逆に、自分に圧力さえかけてきている

そして、なるほどと納得した。

そうかこれがあの雨に濡れて、十分すぎる水分を含んだように重い極めて情報量の塊たる百科事典そのもののKを魅了したわけが。

つまり考えてみるとこの少年は本人の意思というより、K、D、そしてあのやせぎすのチンピラからの挑戦状なわけだ、

「この少年を打ち負かしてみせろ」

そんなメッセージ・・・

だが、なぜか、Hはこの少年には未来がないことを本能的に感じ取っていた。

つまり、巨大で堅牢な岩にも時折撃鉄な稲妻が必要であり、その雷鳴がこの少年そのものだと。

雷鳴は一瞬だが、その大出力故に大きな岩たる自分をたった一瞬この上なく完膚なきまで明るく照らす存在。

その稲妻が、壮大で、堅甲で、流麗なる、Hという自らの雄姿をとてつもなく明るく一瞬照らす時、自分の神秘性、カリスマ性、高尚性、そんな貧相で下世話な形容詞さえも明るく照らされて、まさに偶像が真理と合致する、その時、自分は真の選民となる。

彼の内観には誤謬の余地なくその未来だけが見えた。

この少年は稲妻になって自分を至上に照らす最高の照明になるだろう。


「社長、この子は本物です」

Sが時間にして10秒程度目を細めHをじっくりと見やり、そしてゆっくりと頷いた。


そして、心ここにあらずなPを蚊帳の外に、DとKは心の中で今この時、Hとの己自身の何かに対する各々の勝利の歓喜から、なかんずくKには湧き出る溶岩の上昇ようなものをその体温の急激な上昇に感じた


「Sさんこの本著と完全推敲させてください、無論、撮影前には必ず間に合わせます」


Kは感じていた、遂に呪縛からの解放のチャンスの到来を

今なら書ける、確信していた

「もう撮影開始まで1ヶ月しかないが」

Sはパーラメントを咥え、訝るようにKを見ながら言った。

「必ず最高の本にして持ってきます」

Sは違和感の方が先に立っていた。

Kのこのような爛漫に嬉々とした顔を初めて見たからである。

Sはパーラメントを吸う間、断続的に、自らの眼前の紫煙の向こうのKとHの顔を瞥し、やがて裁定した。

「わかった、だが、いくらKさんでも問答無用でオーケーとはいきませんよ」

「心配いりません!」

Kは年甲斐もなく少年のような潑溂さでSに答えた。


やはり、人生こんな僥倖は何度も音連れるものではない、僥倖と認め、そこにつかめる最適解を見つけたとしても、自分の存在が直ちに完全で、唯一で、多大な敬意に値するかは、また別解だ。

しかし、この僥倖は看過できない。

この与えられた任務を成し遂げた時に確かなことは、自らにうごめく本能、魂、真理という観念の正解者になれるということであり

あの安田講堂でDの人生への挑戦たる芝居を見て以来持ったあまりに人間然として傍から見らら青臭くて、が故に気高い純粋な感情。

やはり、あの子に会えたことは因果だ

待ち続けた、抑圧と擬制に努め続け、耐え続け、ただ、質を異にする主観の罪だけが増え、それが自らのうしろめたさのように残高に変換されたこの7年間。

眼前のNはこの言わばカルマを精算する本当の契機なのだ。


Kはこれが自らの最後のチャンスであり、最後の「青い挑戦」が本当に始まったのだと、自らの五臓六腑を揺るがす程の身震いの中に感じていた。


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