第一部
第一章
Nの物語 2005年
11のNは京都にいた あの情念漂う落書きを契機に、母親に出生の真実を告げられた。彼は、家の箪笥にあった5万円を鷲づかみにすると何も考えず列車に乗った。母はもう自分を探さないだろう確信があった。もう二人目の子を身ごもっていたし、言わずもがなMの言葉を信じるなら、その「父」は同一人物ではなかった。担任Wの再三の訴えは最終的には異議からMに対し人格否定とも取れる断片的事実の是非に収斂し、もはやWの臨界点に差し掛かろうかと言う程の強度のヒステリーに対峙することにMは憔悴し、諦念していた様子が火を見るより明らかだったからだ。電車に乗り換えるたび、人の様子が変化していった、Nに対して、なめ回すような好奇心と、いつでも雷鎚を落す用意の中の警戒心を主要素とする視線がどんどん減っていくのを感じ取った時、宝塚駅にてすっと立ち上がって降車した上品な貴婦人のいた椅子にNは可及的に上品な所作で以て座るとその居心地の良さに身をゆだねていた。三宮に着くころ彼はすっかりこの空間が気に入り、きらびやかなでありながら上品な大学生やアイロンがしわひとつなくかけられたスーツの男性たちを逆に爛々と目を輝かせつつ少年らしい無垢な好奇心を以て眺めていた。列車の揺れる音が自分の心臓の音に時にシンクロし、その揺れに時に半端崩れる感じを味わうと、理由なきいわれようもない幸福感に包まれていた。それは理由もなく、悦に入る純粋な幼さ、子供の姿そのものだった。やがて、列車は梅田駅に到着した。せわしなく、だが整然と降車する人ごみの間に見えたその改札の先に黒い塊が見えたNは取りつかれたようにそれを凝視した。けたたましいアナウンスのなり続ける中それを見た。ずーっと立ち止まって、その塊とNの間には吸い付く寸前の磁石のような引きあううぎりぎりを保って微動だにしなかった。その塊が突如すくっと立ち上がった顔を完全に覆う程の長い髪を垂らし、真っ黒な皮ジャケットの人間が黒光りするケースのジッパーを素早く引くと、中からまた黒光りするレスポールが現れた。彼はそれをおもむろに担ぎ歌いだした。男がストローク時Nは心身の初めての振動に身震いした。「タイムテイクアシガレット」周囲のざわめきは瞬時に感嘆、賞賛に変容しだしていた、だが、彼が「ネバーアローン」と叫んだ時、駅員が堪らず「アンプ繋いではアカンですわ、いい加減やめてもらえますか、警察呼びますがよろしいか」と呼びかけた。だが、何も見えない、自らの声しか聞こえぬかのように男はまだ歌いつづけた。「オーラブ、ユーアーノットアローン」セーハコードによる転調に差し掛かった時、深い紺色の制服に警棒と無線機、そして拳銃、正装した警官がやってきた。
「にいさんねえ」たばこのやにで黄色くなった天井を仰ぎながら警官はため息をついた警官はすっかりインクの薄くなったボールペンで生え際が後退しかけたこめかみを押しながら男を睨んた。歌っていた男は、ただこうべを垂れて時々頭を上げニヤッと笑うとまた、こうべを垂れた梅田駅の交番は激務にもほどがある、警官は自らの身の上を嘆いた「出ました」警察官としては小柄でかつふやけた体型をした男が書類を以て入ってきた「大麻、陽性です」警官は書類を片目で見やり、男を斜めに見上げるように静かにかつ低くそして良く響く声で言った。「所持法違反、現行犯逮捕や」
だが、そこでふと小柄な警官の方が気付いた「この子は・・・」その時、初めてその場の全員がNの存在に気付いた男までも顔を上げ痙攣の抑制にすべての力使っているようにするかのように動けなかったなんともいえぬ沈黙が流れた警官二人はなぜ少年に気づかなかったのか男はそもそもなぜNがついて来たことに気づかなかったか各々の自責が重苦しい雰囲気を創出しまるでNから磁場が発生している様に彼に三者の視線が引き寄せられた
男が、大きく深呼吸をして顔を上げたまま無表情に言った「そいつはワシの連れや、ま、確認するまでの間、ここにおいてやってくれませんかね」警察官は顔をあわせ、互いの表情をうかがいながら、小柄な方がしのびなさそうに呟く「確認を取るというても、こっちの兄ちゃん自体の身元の確認が取れへん」小柄でない方が半分呆れ、半分笑ながら、手を払うように言う「指紋があるやろ、こんなカス余罪がしこたまやろ」小柄がまた体を丸めて最早亀のようなシルエットでいう。「それが、照合がないんです」小柄でない方は、もはや全部が驚愕となっていた。「は?このチンピラが初犯て?」
すると警官たちは狭い交番の中でまだ鈍い光を放つギターをみつめ、こちらに一瞥も暮れないNを横目で見ながらあれこれとなく考えるでもなく職務のうえの事務作業のまっとうに取り掛かかった。
Nは手持ちの44000円以外何も持っていなかった。近所に出かける以外に用がないであろうはずのつっかけを履いているこの子が。逆に年場もいかぬ判で押したような10年は遅れているような田舎じみた服装の少年がこのご時世に4万円のみポケットに詰め込んでこの喧噪極まる夜の梅田駅にポツンとたたずんでいたその事実の異様さへの動揺を押し殺しながら「お金どないした?」警官の優しく質問しようとひきつった笑顔に「家から持ってきた」警官はさらに顔の引きつりを抑えながら聞く「家はどこ?」Nは微笑んで答えた「音がしない世界」警官の将来せねばならないだろう煩雑すぎる手続きへの緊張は最早極限に足していた、顔の痙攣を抑えるのがやがて手足の震えとつながり体の震えの抑制と闘いながら聞いた「お、お、音がしない世界・・・耳は聞こえてそうやけど、ここでいうとどこらへん?」Nに大阪一片の地図を指さそうとしたその時、男の指が投げられたかのようにやや右上に刺さった右京区・・・「そうか、兄さんは太秦からきたんか」警官はにやりと笑いながらねっとりと脂汗でべとついた顔をぬぐおうともせず男に振り向いたその時電話が鳴った「本件、書類送検の後、誓約書捺印にて釈放せよ」この短い通達にほっとしたのは警官の方だった誓約書に京都市右京区太秦666-6 Pと書き、拇印を捺印するとPとNは交番を出た
Pはこの得体のしれない少年を歩きながら横目でみた、阪急電車の中、Nは依然として月夜に反射した瞳を輝かせギターケースを眺めていた西院で降り、ふと目線をギターケースからから西院のトンネル状のホームをしきりに珍しそうにやりながら地上に出たN、そしてPは広隆寺行の市バスに乗り込んだ。Pは再度あまりにNがギターばかり見るので、ギターを窓に張り付けるよう自分の体の向こう側において、一番後ろの窓辺の席にどっかと座った。Pは違和感と期待感の入り混じった感情をどう処理してわからぬまま窓の四条通りを眺めた。Nも何も言わずバスの中の乗客たちの後頭部や肩を見るでもなく、風景を見るでもなく、Pに視線を向けるとまたうつむいて、うらやましげにPの脇から窓によりかかっているケースに目をやった。すると反射的にPがその視線を切断する斧を振り下ろすようにメンチを切る。その繰り返し。そうして広隆寺撮影所前で降りるまで会話はなかった。撮影所裏門には俳優の出待ちをしている女性が数人、少なくともPがお目当てではないようだった。撮影所の一番奥に監督室がある。Pはこの少年を監督室へ案内した。なぜだろうか、彼の中に一つの核心、いや既視感のようなものが漂っていたからその思いに身を任せてみようと思っていた。
Dはパイプ椅子に体を持たれて机にうずたかく積んだ夥しい数の書籍、最早バリケードとなった山上に足を投げ、ショートホープをくゆらせていた。
「警察から電話あったで」Pの気配に気づいたDが声を張り上げた。続けざま、「ワレなめとんか」と言おうと息を吸い込んだその時にゅっとNの顔が現れた。Dはその白い肌と長い睫、そして紅を塗ったような唇にぎょっとし、に数歩後ずさった。「手土産ですわ」Pは舌を出したそうになるのをこらえながらささやいた。「あーそれが警察の言いうてた子か」Pはますます、胸を突き出していった。「このガキ使えると思いませんか」「この子の身元は?」「知りません、何でも、あー音のない世界から来たんだと」Dは唇を尖らせ額をゴリゴリとこぶしで押しつぶしながらふーっと紫煙を机に向かって思言い切り吹きかけた。そして、もう一度Nを見た。少年の体躯、白く細い、だが、厚い胸板が違和感なく張出て少年と大人の間を永遠に漂うような、その白い肌と、透き通るような瞳は女性のようで、しかしひとたび光が陰ると深い湖のようで、夕方の縁側で黄昏る壮年男性のようでもあった。稜線のような顔の輪郭、品の良さを前面に出しているようなやや鋭角な鼻、紅をきれいに引いたとように赤く、かつきつく上品に結ばれた唇。
Dはすべて飲み込んだ。「つまり、役者で使いたいと」Dは頭を下げて目だけ見上げながらPに訊いた。Pはにこりとしながらうなずいた。
京都市立常盤中学から、PとNは出てきた「いけたやろ?」Dがショートホープをくわえながら訊いた、「完璧な根回しでしたな」「そりゃそうや、ワレの前科ももみ消したんや、戸籍をちょちょっといじるなぞたやすいわ、はあ・・・んでな、Kさんが来とる。このガキをみてみたいとよ」「ほおー大先生、さっそく来ましたな。しかしねえ、言いだしっぺが言うのもあれやが、このガキに役者なぞつとまるんかえ」
DはNをじっくり見た、夜見るより太陽のもとで見ると、手足そして首が枝のように細くのびて長く、それでいて胸が大木の幹のようにぶ厚く、肩は大地とどこまでも平行かのようにますっぐしつつ、腰の括れは男とは思えないほどに美しいラインを描いて細い、見事な逆三角形な体躯として絶妙なバランスで成立し、その上の17センチあるかないか程度の小さな顔により、170もないはずなのに185のモデルのように見えるこの少年。
DもP同様、確信はしていた。
監督室に入るとKが客間のソファできつねうどんをすすっていた。
「先生、お久しぶりで」Dは頭を下げるしぐさをして、微笑みながら言ったKは何も言わずずずーっとうどんをすすりながら、DとPにはさまれた当の少年に目をやった「いわゆる保護監督者の法的同意は?」「まあ、ぼちぼちとやっときました」Kはふんっと鼻を鳴らし、ボストンバックから冊子を一つ手に取って頭上に掲げた「今回は私はかなり自重を控えた、自分を出した、が故かなあ、どうもこの役、適役がみあたらんで、推薦はしこたまあったけど、なん言うか、しっくりこないいうか、まあ、主演級じゃないから私にもある程度の裁量は与えられてる、売る人間のSさんからしたらただの子役やから」「ああ、そんでね」Pは嬉しそうにうなずいたKはうどんをテーブルに置き、すくっと立ってDの肘掛椅子にずかずかと座り、Nをまじまじと、まるで化学者のようにじっくり観察しながら言った。「まあ、たかが子役一人真剣に探したところでどうせ虚しさでまずい酒には変わりないかもしれん、その蓋然性は高い、今回も演者達がこの本を台無しにする絵面しか浮かばんし、けど、Dさんがようけ言い寄るから来てみたが」
KはNを見ながら不思議におもいをめぐらせた
Kの物語 1994年
Kは関西、いや日本随一の中高一貫校から東大に進み財務官僚になる人生のはずだった、あの紙切れを見るまでは物心ついた時からその道は遥か彼方まで光が続き明々と開けていてその筋道には何の疑いの陰りもなく勉学に励み、そして当たり前のように東大文科一類に現役合格した頃には自分に知らないことは何もないかのような全能感の中にずっぽりと浸っていた1回生も終わろうかという年明けに、小ゼミで同席した飄々としていながら蛇足に体つきの良い色黒の男に「Kくん、すまない!これ買ってくれないか」とせがまれた
ハッシャ・バイ 上演1994年3/11 500円
Kはたった500円ならとその紙切れを購入したその紙切れから、何も想像つかなかったなんの話なのか、そもそも演劇?不思議の国のアリスみたいな子供の遊びみたいな茶番?つまり学芸会なんてものを大学に入ってまでやるのか?いい年した学生がそんな不毛なものを?なぜ?こいつらアホなのか?だが今Kは、稚拙な言葉しか回らない自分に、こんな下品な言葉をいわせるなとイラつき始めた結局、軽蔑しつつもKは気に入らなかったのだ、この紙切れは自分が知らいない世界をあてつけるように見せつけるようだったからだ自らの全能感に介入したこの紙切れに怒り、そして戦慄さえ覚えていた「ちっ、見てやるわ」Kの目は敵意で鉛色になっていた
「うどん、伸びますよ」Dの言葉にハッとなったKはあわててソファに戻った「はあ、また主演はHですか」「それを私に言われても、聞くまでもないことです」Kはそう言うとうどんを力任せに吸い込んだ
Hは今最も数字が取れる俳優として世間で異を唱える者がいないであろうことは国民の総意であるような男だった所謂王道的な美形であり、いつの時代に生まれても美形として生きることになるような世代及び世界観を超えてステレオタイプに美形だった、といよりそう決定されていたこの国の美的価値観の共通項のような男。その二枚目を大手事務所は放っておかない、当時17歳だったHを抜擢したKとDの共作デビュー作は大変な収益を上げ、その事実は二人の想定をはるかに超えてプロモートされ、それはKとDにまで波及、もはや蛇足に有名人になった二人はKが脚本、Dが監督する作品の主演はHという既定路線からは逃れられなくなっていた。「私は漫才トリオをやるために存しているかのように思うことが増えました」Kはため息を吐きながらその息に言葉を乗せるよう言った。「また新しい音がしない高下駄の用意せなアカンな」Dはため息とも乾いた笑いとも取れる声を出しながら答えた。
最近の女優はもっぱらモデル上がりだった、女優全員が170を超えるキャスティングもままある、しかし、女優の頭頂高はかならずHの目の位置と水平でなければならないつまりHの額上からの長さ分は必ずHは女優より高くなければならないそれが、スター足り得る担保だった。それを求められているのは、「トリオの一員たる」DとKが一番よく知っていた結果その絵面の担保の為、Hにシークレットブーツを何種類も用意しないといけなくなっていた。しかし、視聴者にはこの努力は最近に於いては隠蔽にはいかほどにもなってないようだった。視聴者は妄信的にそういう細工なぞないと言い張るかと思いきや、その不都合を心の端においた途端、その不都合さが神秘的なベールとなって実態の輪郭がぼやけ、画面の中の幻想的偶像たるHへの熱狂度を増長させているという逆説が闊歩していた。ファンたちはその都合の悪い事実に蓋をしていることで逆に愛着がわいているかのようで、今思えば、そのパラドックスな実情こそが実際のところもっと妄信的で聞き分けのない事実だったかもしれないが。
「おい、ぼく!」うどんを食べおえたKは仕立てたばかりのゴルティエのダブルスーツの内ポケットから一枚の紙切れを抜きだしNに向けて、覗き込むように言った。「この文章をな、まあその、、こころをこめていうてみ、君なりでええから」
暗闇の中あなたをずっとお待ちしておりました、さあ兄さん!世界を照らしてください!
Nはその紙切れをまるで卒業証書でも受け取るようにしてその手に持ち、じっと視線を放さず凝視した、ほんの数十秒だったはずだが、場にいた人間たちにはその時間はあまりに長く感じられ、黙祷の時ように時間感覚を狂わせた。
Nが目を閉じて、その目を開くその直前には、もはや時間が止まっているようだった。
Nの瞼がゆっくりと開いた。
「暗闇の中↓・・・あなたを↓ずっーと↓お待ちしておりました↓、さあ↑兄さん!世界を↓照らしてください!↑」
Nは満面の笑みを浮かべた、まるで激しい夕立の後の夕日のようにまぶしく、瞳からあふれ出たあまたの光が乱反射し、その光で紅い花がたった今芽吹いたかのように唇はほんの少し濡れて紅いきらめきを放ち、その乱反射を増幅させていた。
「いた!」
三者は少なくともこの想いは共有した。
Nは本物だった。




