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       序章


感官から成る五感には訴えないものを人は信じることに客観的根拠を、とは最終的には不可能なのか、というより能わざるものなのか。

宇宙誕生、宇宙の果て、そしてその終焉、その問いに対し完全にアプリオリな数学という道具を駆使し作り上げた「万物の理論」がたとえ完全で揺るぎない堅強なロジカルさ、かつ透き通るほどの明瞭さを持ち合わせていたとして、さて、その時その優雅な万物の論理を見つけてしまった我々は、究極、自分達の直近の未来及び思惟さえ確定する論理を構築するということになる。

自らの行動も内心をもすべからく自らの理論で確定させられるならば論理上、人が人の未来をも「操る」こともできてしまうことになる。

そう、それは、あくまで理論的には。

創造主が創造主に然る、完全で、無条件な自由。科学とて人智がそれを獲得するという帰結、これは到達し得ぬ。

「魂」という何物にも触れがたい畏怖の観念がそこに閂をかけている故に。

人間は知的な生物(今はそう信じよう)であるがゆえ、そこは禁足地としてその扉を自らこじ開けるのは愚行として避け、決して踏み入れぬ。

科学が形而上学に憑依し不可分になるという本能的疾しさ以前に、人間の持つ最も原始的で、高貴な先験性、そうアプリオリな概念。

畢竟、実験という名の観察、記録から想像し、知覚し、結局それ以上の感覚を、つまり数学という記号によって事象を可視化することでしか説明できるすべを持たぬのが人間としたら、人間が持つ最も重要な心と言う名の観念、「魂」、その説明は永遠に不可能となるし、それでよい。

「魂」という人間の持つこの観念を既存の数学によっては決して説明できぬことは、物理学者たちにも禁足領域であり、観測されぬ、数値化されぬものは客観的論拠を欠くという古典的でかつ最も普遍的と断じてよい抗弁によって、ある意味、此岸の都合のよい万物の論理を追いかけ続けている事実から察しえよう。

その、五感を超えた「魂」という名の観念というものを排斥した「不完全な万物理論」を探求しているのが科学であり、それは不変に正当な在り方だろう、それを否定する科学者は身の程知らず、いや、もはや科学者ではない。

誰もが見え、聞こえ、匂いを感じ、触れないものには我々が確実な信憑性を持つことができない、信憑性の高さこそが真理、としても、依然として人が渇望する真理はその裏側にもある、つまりその魂という観念、人間が辿りつけぬからこそ「魂」もまた真理なのだと本能は知っている、そして根拠なき先験性が個別の実体験に変容するのを見る人生を送る人間たちもいるのも事実。

「魂」それは宇宙の果てより遥かに深く、遠い、そう無限、人間の説明なぞ決して許さない無限。

それゆえ、その経験、事象はもはや闇の中に姿を隠し当事者以外には姿を現さない。

そのすべてを生きたままの共有は有限な被造物でしかない人間には不能という事実、自然科学はもとより人間の思考に必然絶対的に「否」と断言できる視点にありながら、希求する、人の業とも言うようなジレンマ、二律背反、つまるところそれが現に実存の条件なのであろう。

此岸も彼岸も互いを排斥しながら結合しているのだから。


この物語は共有できぬ魂の断片に触れ、その欠片の総体たる観念に飲み込まれた人間たちの恍惚と畏怖を伝えるものである。


       


       第一章 

     

     Nの物語 1993年


Nは小さな田舎町で生まれた。

母親は大変な難産で20時間にも及ぶ格闘となった。

最後はうわさを聞きつけた川沿いのあばら家に住む元助産師Qがしわがれた骨ばった枯葉のような手のひらにて、長きにわたる母の母になるための戦いは終わった。

母親はわが子を見て絶句しかつ大いに納得した。なぜならそこに横たわる赤子の顔がみえなかったからだ。

あまりにも厚い胸板により小さな顔が覆われていたからである。

この難産は自分の身体的脆弱さのみに起因するものではないと、いや逆にこの体でこのような一面的には屈強そうな子を産めたものだと納得したのだ。

だが、そんな満足感もつかの間だった。

その手に抱いたときやっとその顔をうかがうことができた、その一瞬

また驚愕した、その赤子は目を見開きこちらを見ていたからである。

その顔立ちは母親とも父親となるべきだった男ともまったく非なるものだった。

目には豊かに光をたたえているが同時に深い海の底のように鉛が漂っているような得体のしれぬ鈍い淀みさえも感じた。

やがてその赤子は目をゆっくり閉じて満足そうに眠った。

赤子は成長するにつれなんとも表現しがたい美しい少年になっていた。

瞼に神がナイフを一閃して切り付けたかの様に深い溝のような二重と鼻は品位さに向けソリッドにフォーカスし追求したようなややとがった三角錐形、唇は厚くもなく、薄くもなく、下唇がやや厚くそれは中庸という最適解の表象そのものかのようで、何より燃えているように鮮明に赤い、そして顎のラインは冬の快晴の空に浮かぶ稜線のように際立ち、依然として厚い胸板に、まっすぐ伸びた細い手足、そして透き通るような純白の肌は見るものの目を見開かせた

ただ、その少年を美しいという形容詞にて称賛するものは少なかった。

各々の持つ美的価値観を超えていたのか、相応な言葉がみつからなかったかのように見えた。

やがて、それが各々の断固たる違和感となって各々に芽生えた時、Nの「無音」の違和感の契機にもなったといわざるを得ない。


5歳にもなると社会は何らかの集団の統合体であると誰もが認識する。

分子がさまざまの原子の組み合わせで構成されるように

個々という原子はコミュニティーという分子となっていた

その分子たる集団においてNは自分自身を見いだせなった。

この社会から違和感をぶつけられたことで、本人が自らの生へ違和感を持っていった。


息子が帰ってこない、警察に連絡が入った。

Mは警察に行き、捜索願を念のため提出し警察とともにあたりを探しまわったが、Nの姿は一向に確認されない。

日が落ち辺りは真っ暗になり、警察もそしてMまでもが捜索をあきらめ岐路に着いたその時

「バシャ」

小さな音がした。

眼下にあるのは小川とその川辺にそびえ立つ大きな柿の木

そこに小さな塊からにゅっと飛び出て川の中に入りの蛙のように川の中を漂うって再び川面から飛び出る何か、川の水しぶきに反射する白いというより真冬の朝にまばゆくきらめくシガのようにきらきらと光を放つ何かが見えた。

Nの細く純白の腕だった。

川を一心不乱に凝視し何かに聞き耳を立て探しているようだった。

母は激昂した、あまりの憤慨にNを平手に付した。

家に帰ると何度も何度もNをたたいた。

時間の経過とともに、はたして母は何ゆえ彼を打っているのかわからなくなりながらも打ち続けた。

無論N自身もなぜここまで怒りに母が飲まれているのかわからなった。


彼はただ、自分の安らぎをこの外の社会のいかなる世界にも見出すことに敗北した感覚だけを噛みしめ、その敗北感に取りこまれ母に打たれるがままにし、やがて母親が打ち続けるのに疲れ果て体を大の字にして倒れこんだとき自らも体を横たえると、暑い胸板にその細い手足を包み白い繭のようになって目を閉じた。



Oは寂寥なこの田舎の娘としては容姿端麗といわれ本人もその自負を植え付けられ成長した

父は地元の名主と言われ、誰もが尊敬に付していた

6歳のおり、小学校に入学しNと出会った。

Oの同窓生及び保護者たちは盛んにOの美貌、上品さをほめたたえた

ただNを除いては。

Nはまるで浮浪者のように教室の隅で体をぐったりと投げ出し深い眠りについていた。

やがて担任Wが教室に入ると目に入ったその姿に激昂した。

だが、Nは悪びれる様子はなく首をWの方にねじってにっこりとほほ笑むだけだった

その微笑みを見た刹那、担任から平手が飛んで彼の微笑みをかき消した。

まるで、高速でシャッターが下りるように彼の瞼が閉じられた。

Oはその一連の光景をスローモーションのように凝視し、駆り立てられるような何とも言葉にできぬ感情の沸き立ちを感じた

微笑みが逡巡しつつやがて確固たる悪意に代わるのを見た。

今まで知らなかった世界、その一旦をみたような

歓喜から当惑に沸き立ち、そしてその深い海の底のような闇の色に瞳の色が変わるのを瞬きもせず目に焼き付けた。

それはNが一瞬で否、一瞬であるから成立する故にみせたものだった。


Oはあの微笑みの永続性を子供ながらに考えた。

無論、それには永続性がない、極めて断片的、刹那的さゆえに魅力的であると知りながら、それだからこそその永続性を肯定したい所有欲に駆られた。


その後OはNにいろいろけしかけた

ありとあらゆる子供の遊び、なのだがNは興味を示さなかった

そもそもNのほほえみに長いこと疎遠になっていたからである

Oはやがて地団駄を踏むようになった

とは言え、Oはなぜそれに固執するのか自分でもわからなかった。


ある昼休みNはいつものように床に体を折り曲げるように寝ていた


彼女はしの無機質なその熱い胸板なる白い塊、そこにつつまれたあざだらけの白い肌、その指、それに触れてみたいという論拠なき思いを押さることができなくなった


Oは心に目覚める何か、それに駆られているだけなのでは、つまり子供ながらにはつくづく変な感情だとはたはた思いながらNに近づいた


近づいてまじまじと見ても、彼の細い手足が枯れ木のようでそれを折りたたんで分厚い胸板にしまいこんでいるさまは、やはり一つの白い塊でしかなかった


手を伸ばしたその時、くの字に横たわったあの枯れ木の塊のようなNから左手が伸びた

その瞬間、Oの耳のなかで轟音を立てるようにのびて、Oの右手をつかんだ


その手を自らの厚い胸へ持って行き

「何か感じる?」

ときいて、微笑んだ

その瞬間、Oは今まで体験したことのない焦燥に駆られた

「君のは早くて紅い、君の手がつたえてくれた」

またNは微笑んだ

Oはそのままでたい、もう少し踏み込みたい、逃げ出したい、頭の中で選択すべき3つの道筋がグルグル回り気が遠くなるのを感じめまいの中で、後づさりながらやがて出て行った。

彼女の後姿を首をもたげたまま見ていたNは起き上がると、自らの左手をを見つめ瞼を閉じた

Oの柔らかな肌の感覚とその体温がまだほのかに、だが依然としてじりじりとしびれる様に残っていた


その後、どうしたことかNは椅子にしっかり座るようになった

担任は積年の思いとともに彼を執拗に指名した

だが、彼はどんな質問、問題にも難なく答えた

地団駄を踏む担任にNは日食から漏れるかのような鈍い光をたたえた瞳でつぶやいた

「これは記号、先生、何も鳴ってない」

担任はNを畏れ、憎んだ

この気味の悪い少年を人生の視界から消したい衝動と闘いながら、

早くこの少年から逃げたいと念じながら、辛抱強く職務に就く以外道はなかった


10歳を超えたころOはといえば、Oは自分の体に女を感じ

Nの身体に男を感じ、「あーあの時の感情はこーいうことか」という確信と、言いようのない罪悪感の中にこの感情を回顧していた

学校の帰り道、Oは頭を一切揺らすことなく歩き帰宅するNに声をかけた

Nはすっと立ち止まり、大きな柿の木を取り囲むように満開に咲く彼岸花の群れに向かって川へと下っていた

花の群れをかき分けかき分け進むと神木ような柿木の裏手に小さなブリキ屋根の小屋が一つポツンとあった

Oは一度も出たことのないこの町の人間でも気付かない場所があることに驚いたが、「ああ、ここね」

と強がった

廃屋はNを取り上げたあの助産師Qの家だった。彼女は身寄りもなく、それでいて、この村の赤子を最初に取り上げたののはすべからく自分であるという無駄なプライドが災いし、ゲマインシャフトな世界に抗いここに追いやられ、最終的には酒屋の主人が納屋を改修して住居にしあげた、まさにとってつけたようなこのあばら家に住んでいた。

Nが生まれた2年後に彼女はこの世を去ると、町民たちは目の上のたんこぶが取れたような開放感の中で葬儀に参列した。

近親者は一人もおらず、東京にいるという遠い親類の墓に酒屋の組合長が下げたくもない頭を下げて石碑にその名前を刻んでもらった。

相続など必要もなかった、このブリキ屋根のあばら家しか財産がなかったから、無論、法的には財産だったが、何の価値もなく、にもかかわらず固定資産税だけはしっかり取られるこの家など誰も引き受けなかった

相続人には相続放棄以外選択の余地はありようはなかった。

そして2年がたち、柿木の周りには春はタンポポ、夏はひまわり、そして秋は彼岸花で囲まれ、冬は雪に埋もれた。その自然のヴェールにより、この廃屋は道からは目視できないのが常態となった。

これこそ僥倖とQの存在を町民たちは記憶の闇に追い込んだ。

2人はその小さな廃屋でむきあっていた。

引っ張り合っているようで、離れていかないのを抑えつけているようなこの感覚にじりじりといまだ残暑の湯気まで上がりそうな蒸しっけがシンクロした

Nはゆっくりと目を閉じると無表情に服を脱ぎ始めた、白い肌は夏の光の逆光の中で透明のようで、そこに刻まれた無数のあざがOの瞼を瞬きを忘れさせくぎずけにした。

そして、貝のようにふさがれた瞼が上にスライドするように開いたときNの微笑があった。

「また感じてみたい」

Nは小窓からこぼれる光の波に言霊を置くように言った。

Oはその瞬間、今心からあふれ出ているのは、紛れもなく欲情という純然なる欲望であり、この女として生きる悦楽はどこまでも貪欲にすべてわが物として感じたい、そう、これは女として芽生えた源泉から湧き立つ絶えない欲望、これを自分のすべての感覚を以て受け取りたいと思ったとき、あっという間に自らも一糸まとわぬ姿になっていた

OはNに抱きついた、そして無我夢中に体を前後させ、左右に自らの体の色を、ニオイを、何よりこの鼓動を塗りたくるように躰を押し付け、やがて擦れ合う皮膚と皮膚の間に互いの汗、総じて体液の膜ができ、互いの呼吸が二人の外界と遮断するような膜を作った。

だが、その二つの膜はシャボン玉のようにすぐにはじけることとなった。

熱い吐息の中の高まりと反比例してOは言いようのない違和観がせり出して来るのに気付いた。

Nの「なるべき部分」が「そうなってないなかった」からだ。

そしてNを見上げた顔をうかがったとき、Oはこれほどまでの憎悪を感じたことはなかった。もはや愚弄を越えた否定だ。

熱い吐息は怒りの唸りに代わった。

Nの瞳からは鉛の海のように光が消ていたからである。

Oはその右足のありったけの力でNを弾き飛ばすと、Nの左ほほに自分にこんな力があるのかというくらい激烈な平手打ちを見舞った。

Nは数歩飛ばされるとまた、何か納得したよう瞼を閉じ、ゆっくりとうずくまると、蛹のように丸まって横たわってしまった。

Nの閉じた瞼をOは苦々しく一瞥し、躰をこねくり回すように服を着、あばら家を走りい出た。


その濡れた服を着る格闘の渦中、彼女の中のNが消滅したように感じた。


そして、1年の月日は流れた。


トイレの壁に縦横3メートル四方の巨大な「えぬのばか」と刻まれたのは年も終わりのころだった。

トイレの壁を抉り取るように石か何かで刻み込まれたその落書き、そこに込められたのは、可視化された怨念のようで、かつ狂おしい愛憎の断末魔のようだった。

Wは、生徒に神妙かつ敬虔な面持ちにて滔々と説教をしながらも、心のうちから湧き上がる優越感と高揚感を禁じ得なかった。

Oは呪縛から逃れたような開放感をと自分に疑いが向けばいいのにと、一見相反するような思いで、それを眺めていた。


次の日Nは学校から、いや、生まれたこの地から姿を消した。

憎悪、情念の気配はもとより、Nはこの村には元から存在しなかったかのようにすっかり消えた。







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