51話 究極の選択とは不毛なもの
うんざりである。
この研究所は、根本的に致命的な問題を抱えている。千両研究室だけではなかった。
南棟はこんなのばかりか。あるいは三階がこんなのばかりか。
千両研究室の室長である千両が久々に研究室に顔を出した。と、思ったら有無を言わさず宵宮を連れ出した事については、新人四人も『まあ、千両博士だしな』で、今さら慌てる事もなくなった。
引き摺られていった宵宮のパソコンは、無操作時間経過によりログアウトされ電源が落ち、沈黙していた。
どうにか望月に『後はわかっているな……!?』というこのうえない不確かな指示だけは出せたので、卓上に広げられていた書類は、紛失や漏洩のないよう、片付けられていた。
それだけならそれなりによくある事ではあるが、土日を挟んでなおまだ宵宮は戻ってきていない。思っていたより千両博士の拘束は長くなるようだった。
千両は隣の研究室の室長である博士に声をかけていたらしい事からもわかる。
そう。『すまんが、長めに宵を連れ出すので、たまに様子を見てやってはくれんか』と。
それで、夜羽音新月が『千両博士より申しつかったので、留守を預かりに来た』と、実に意気揚々とやってきた。
なお、千両博士が残したのは、先ほどの『すまんが』から始まる一文のみである。その他引き継ぎ書類なども一切ない。当然、新月の『し』の字ひとつなかった。
そこを、だ。
『誰に』様子を見てほしいのかについての指示がなかったという事は、そこについて一考の必要がある――さらには不在となるのは柊宵宮である。やや不満ではあるが、年齢や、特例的な『副室長』ではない本来の研究所内においての宵宮の肩書き、研究実績などを考えれば、宵宮の代理を務められる同等の研究員というのは自分である。何より件の研究室には自分の妹が在籍しており、常から円滑なコミュニケーションを取っている。千両研究室の研究員と気の置けない関係をすでに構築している。これ以上の適任者はない。
――とまあ、ぺらぺらと。
千両博士が隣の研究室の博士に声をかけたのだから、『誰に』も何も、声をかけた博士に他ならないと思うし、『様子を見てほしい』も、朝晩声をかける程度と思われる。また、不測の事態が起きた場合、他研究室へのフォロー依頼の橋渡しをするには、室長相当でなければ事態が深刻であればあるほど即応性が求められる。
新月の完全な出しゃばりである。
とはいえ、これほど張り切っている新月を、隣の研究室の博士が止められるわけがなかった。隣の研究室の博士は、この研究所全体でも稀に見る人徳者である。……人徳者ではあるが、気が優しすぎる。人を押さえつける事ができない。問題が起きない限りはかわりに自分が涙を呑む。そんな博士なので、『あちらさんに迷惑だけはかけないように……』と、肩を落として送り出していった。
物を頼んだのは千両博士の方なのに、迷惑料の先払いのように、新月とセットで大きな菓子の箱詰めが千両研究室に贈られた。
千両研究室の茜、朱夕、透の三人は、面倒まで見てもらう上にこんな上等なお菓子までもらって至れり尽くせりだ。このままいっそ、宵宮の代わりに新月に副室長になってもらった方がいい。とのんきに笑っていた。
……その時の望月の顔は、なんと描き残せばいいのかわからないものだった。
描き残していないので、もう再現しようがないが、おそらくそれに近い表情を、今自分が浮かべているなと三人はそれぞれに思っていた。
「夜羽音のアニキ。今日は何もねえから、もう帰っていいって」
「なんだ、遠慮はしなくていい。私の方は自分の成すべき事はすべて前倒しで片付けてきている」
宵宮の代わりとして押し切って来ているならば、ちょうど空席の宵宮の席に座ればいいと思うが、新月はそれを固辞した。となると、物置と化している大谷部の席に座るのかといえばそうでもなく、休憩用の長椅子でもなく――なんだかんだで皆が遠慮して座る事のない千両博士の椅子に座っていた。本人はすまし顔のつもりかもしれないが、ニヤニヤしている。隣の研究室で自分が使っているノートパソコンをそこに広げ、簡易的に進められる作業を進めているようだった。研究所内のネットワークはあるが、各種制限も多く、研究室が違うだけで扱えないデータがたくさん出てくる。そしてその制限をクリアできるデータの扱いなら、新月は鼻歌を歌いながらでも進められる。……神経質なので、鼻歌まじりで行う事はないが、実力的には。
頭を悩ませながら研究をしている新人達からすれば、新月が悪いわけではないが、ピアノの鍵盤でも叩くようにご機嫌で軽い作業をしているので、面白くない。
気分転換のバカンスをされているようにすら見える。
「いや、でもさ、アンタんとこの研究室は、いつでも忙しそうにしてるじゃないか」
「まあな。我々の研究室が、研究所内全研究室の根幹を支えていると言っても、過言ではないな」
そこまでは言っていない。
いや、事実として間違いとは言えないが。自分で言う事ではないし、新月が研究室代表のような顔で語るのは違うと思う。
「だからといって私の手が忙しいだろうと遠慮する必要はない。君達がコモ……妹と同じく至らない事はわかっている。私が君達の頃にはもう自発的に各種研究会に参加してたとえ末席であろうと研究発表などに毎月、いや、毎週のように参加をしていたが」
「……」
「柊が自分以上の存在を置く事を危惧した結果、こんなに貧相な体制になっている事に同情はしている。何かあっても頼れる相手が柊では、頼るに頼れないだろう」
確かに、そこはそうだ。中間層がいない、どころの話ではない。ちょっとした事を気兼ねなく聞ける『先輩』的な立ち位置の人間がいない。宵宮がギリギリその範囲内かもしれないが、本人の気質もあるが、宵宮の研究実績が年齢に比して高いし多いせいで『先輩』より、少し上の層に食い込んでいて、少し気が引ける。
宵宮を押さえつける――宵宮を管理するべき層がごっそりいないのも問題だと思うが、実力主義の宵宮が上にいて納得できるような実績を持つ研究者を捕まえるのは事である。どこだって離したがらない。年功序列だけで椅子に座れる人間は、すべて宵宮と正面衝突して霧散していった。何より、条件を満たしつつ千両玲斎が自分の研究室に置いてよいとするほどの人間でなくてはならない。
……できない事を求めてはならない。
「君達の顔はここでコモとじゃれ合っている様子でしか見た事がない気がする。直近の研究発表は、確か所内のものだけだな?」
「ああそうだ。隣の研究室の奴らともやってる共同研究だけどな?アンタの、後輩の」
茜が苛立ちながら答える。
「彼らは外部に出せる研究にも参加させている。それに比べると、な」
茜が顔を顰めた。
「研究所の、何より千両博士の研究室員の看板を背負う以上、外部で恥をかかれても困るが……なんとも情けない。柊はこの程度で良しとしているのか?ずいぶん君達は甘やかされているんだな?」
「アイツが、甘やかしてるだあ?」
茜が身を乗り出した。
朱夕と透が、はらはらと見守っている。
「それとも、新人だから今までの他の研究員と比べて明言を控えられているだけで、もう見切りをつけられているのか」
「柊がアタシ達に見切りをつけていようがいなかろうが、それはどうでもいいけどな――」
ダン、ととうとう茜が机に手をついた。
新月はそれで怯むかと思えば、とても品の良い笑顔で笑った。こうすると、とても望月によく似ている。美人兄妹と噂されるのに納得感が出る。
「そうとも。柊の判断などどうでもいい。奴の判断はおおいに片寄っている。君達は千両博士のお眼鏡にかない、コモと机を並べているのだから、優秀なはずなのだ」
その笑みのまま、つらつらと喋り続ける。
「柊をどこの研究室も引き受けたがらないせいで千両博士が引き取り続けるしかなく、研究所の人事が日和っているせいだが、本来は、私こそがこの研究室にいるべきで、君達をよりよく指導し成長させる事ができたのに」
ともかくこういう感じである。
なんかこう……こう……
癇に障る。のだ。
透が自分の研究データ入力のかたわらで、隣の研究室の同期相手にSOSのメールを送る、題名は『回収要請』だった。
しばらくして、回収班がやってくる。
「夜羽音さん、千両研究室の朝礼は終わったんでしょう。戻ってきてくださいよ」
千両研究室は、朝は各人の軽い確認は行うものの、朝礼などというしっかりしたものは行っていない。それだけ隣の研究室が所属研究員の人数が多く、規模が大きいという事だった。
「朝は『ジョセフィーヌ』が目覚めるまで私にできる事はあまりないが?」
「『ジョセフィーヌ』はここ数日、朝からパッチリお目覚めですよ。夜羽音さんが大きなデータを夕方にしか食わせてないから消化不良を起こさずにすんで余裕があるんでしょう。バリバリやってもらいますよ」
隣の研究室はかなり様々なデータを扱うが、内容に応じて解析や分析などを行う装置が複数台ある。それぞれに愛称がついていた。製造番号をもじっているらしい。
「む。……わかった。君達。何かあれば、私に。この私にいつでも声をかけなさい。遠慮はいらない。コモも。いいな?」
「いいから新月お兄ちゃん、早く向こうに戻って」
毎日この調子だ。しかも、一度ではない。何かと『様子を見に』来る。兄妹だからこそ望月は素直に迷惑顔をしているが、残りの三人も、そろそろ表面を取り繕うのも面倒になってきた。茜あたりは明日にはもう限界かもしれない……明日まで、持つだろうか。
はっはっは。
新月は自分のノートパソコンをかかえ、機嫌よく笑いながら帰っていった。
「……夜羽音のアニキだから悪くは言わねえけど。……なんか、腹立つな?」
悪く言わない、という前置きのうえでそれを口にするという事は、茜が呑み込んだ言葉はいったい何だったのだろうか。
「茜さん。茜さん達はこの研究室にいる間だけですむけど、私は寮に帰ったらあとずっとなんだよ?特に今なんて、浮かれてるから、本当に……邪魔で……っ!」
ちょっと、望月の魂からの声が出てしまった。
「……すまんが、まだ心身の疲弊と疲労から回復しきっていない。進捗確認だけですませたい。今日はあまり喋りたくない」
今回はどこで何をしてきたかわからないが、ようやく生きて千両博士から解放されたらしい宵宮が研究室に出てきた。長めの不在となったが、その間ずっと引き摺りまわされていたのなら、出てきたのは夕方だったしそのまま寮に帰って休んでいてもよさそうだが、仕事の虫の傾向があるらしい。
千両博士は研究室には顔を出さず、テレビの生放送に出演中である。ひょろっと細い博士なのに、先端研究の世間への啓蒙、普及活動に対して実に精力的である。
「……なんだ。菓子はいらん。朝――昼か?今は何時だ。ともかく駅で食ってきてまだ消化しきれていない。千両博士のお守りの労いでなら、いらん。貴様らで食え。それとも何かやらかしているのか。……怒る元気もない。正直に言え」
「そうじゃないけどね。柊副室長は柊副室長なりに、かけがえのない人なんだなって」
「……やらかした内容を、簡潔に纏めろ。本当に。俺を。怒らせるな」
「そうじゃないってば!皆、それなりに柊副室長のありがたさを感じたんだって!」
「それなり?」
とりあえず、問題が無い事とこの間の各人の進捗を確認したところでちょうど研究所の終業時間を迎えたので、宵宮は施錠作業だけして帰っていった。
なお、宵宮は翌日には体力を戻しており、いつもどおりの暴君ぶりを戻してきた。
やっぱりありがたくない。宵宮も新月もどちらもいらない――新月側が新人から満票を得たため、とりあえず新人四人は宵宮で我慢するようだった。
※ 毎週【火曜日】【金曜日】に一話ずつ更新中。
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