49話 絡まるもの
毒でも盛られたか。
――そうではない。千両博士が研究室に差し入れとして有名スイーツ店のケーキを送ってよこしたのだ。皆は大喜びで食べた。そして、糖質と脂質に手を引かれて夢の国に誘われていった。もちろん今は研究室の時間中である。
隣の研究室は研究所全体で一番の分析作業を行うので、手前までなら人の行き来は多い。しかし、千両研究室はその奥。突き当たりなので、なんとなくで他の研究員が通りかかる事はない。まして、千両研究室には難物の宵宮がいる。用が無ければ関わりあいたくないので、交流は少ない。
万一何らかで人がやって来たら、『研究作業効率化のための瞑想中』とでも言い張るか。瞑想もシエスタの習慣もないが。普段なら声を張り上げて怒鳴りつけて起こすところだが。今日の宵宮に、そのつもりは無い。
ここしばらく、新人は新人に課せられている定期的な研究発表で連日ばたついていた。
宵宮も、『千両研究室所属の研究員』として送り出すからには、新人研究員同士の内輪的な発表会だからと甘い内容で送り出すわけにはいかなかった。宵宮はとりわけ厳しいが、きっと他の研究室の新人も、各研究所の威信を背負って発表するとして詰められ――先輩研究員からの指導や助力を大いに受けていた事だろう。
望月達は、それを労っての事だと思ってケーキを食べてうとうと高いびきをしている。
だが違う。
宵宮はわかっている。
これは、千両玲斎からの前払いであると。
きっと、とんでもなく面倒なお願いが舞い込んでくる。それを黙らせるためのケーキだ。宵宮はそれを覚悟して濃厚なチーズケーキを食べた。四人の点でバラバラな研究内容の指導監督も面倒だったが、それが何ほどの事かと思うほど面倒な事になる。胃に入ったチーズケーキには、それを乗りきるための血肉に速やかに変換される事を願うばかりだ。
ささやかな幸せを甘受している新人達も、こうしている間にチョコケーキやショートケーキを血肉に代えてくれているはずだ。そう思わないと、こののんきさに腹立たしくもなる。
「わかっているのか、貴様らは」
寝ている人間相手に言っても詮の無い事。とはいえ零したくもなる。と――
「わかってまふ……」
「あ?」
宵宮が小脇を見る。椅子に背を預けて眠る望月だった。
ちなみに、茜と朱夕は、普段宵宮が昼休みに仮眠で使っている長椅子に二人で寄りかかって寝ている。絵になる光景だ。南天は、その分余った茜と朱夕の椅子を借りて組み合わせて並べ、寝ている。限界研究員みたいだ。宵宮は昔を思い出してやや苦々しい。
今は退出時間についてうるさく言われる。このようにして泊まり込む事はまずない。南天はむしろ、宵宮や大谷部から当時の話を聞いて『限界研究員』ぶりたいだけなのだろう。微笑ましいかもしれない。知らないからできる事だ。
最終的には現代においても研究所の方針そっちのけで椅子どころか床で寝る羽目にもなりうる。その時の南天たちの顔が見ものである。
それはいいが――
「おい、望月。起きているのか。それならこの馬鹿どもの――望月?」
起きているわけではないらしい。乙女を自称するつもりでこの半開きの口でいるなら、たいしたものだ。どうやら寝ぼけているだけらしい。
「いい気なものだな」
「違……起きてまふ……」
「……おい、本当にどっちだ」
「ちゃんと……宿題はこの後するから……うるさく言わないで、新月お兄ちゃ……」
「――」
完全に寝ている。寝言だ。
それはいいが、よりにもよって新月に間違われるのが宵宮には面白くない。
新月と似ているところなど何もないはずだ。あんな女顔ではないし、口うるさいにしてもあんなヒステリーめいた感じではない。声の高さもトーンも違う。聞き間違えられるわけがないはずだ。
……役割だろうか。
新月は望月の兄であるが、幼い頃に両親を喪って以降は親代わりとして望月を育ててきた。
千両研究室所属で千両博士の監督はあるものの、日々の指導や監督は宵宮が行っている。研究者としての親――は流石に言い過ぎかもしれないが、そう考えれば新月と役割としてなら似ている。
……口うるさく、煩わしい存在であろうというところも含めて。
とはいえ面白くない。
なにせ新月である。夜羽音新月。あれと同類というのが、宵宮にはどうにも面白くない。
おそらく新月がこれを聞けば向こうも宵宮と同様の意見を返してきそうな気もするが。
今回の寝言の件もそうだが、望月は何かと新月と宵宮を近い存在と見ている節があると、宵宮は自覚している。それに気づかないほど愚かではない。出張だなんだと顔を見なければさみしがる。それが新月でも、宵宮でも。
それが――
何やら宵宮をざわつかせる。
あの新月と一緒に扱われる事が、もちろん面白くない。しかし、望月に悪意が無い事もわかっている。悪意あっての事ならば、当然けして許さない。悪意が無いのでそれを見過ごしてやればいいというのも納得できない。
悪意が無いのはいいが――では何だというのだ。
その甘えを向けられるような人間ではないと宵宮は自分の事を重々わかっている。さみしい、甘えたいというなら、もっとふさわしい人間がいくらでもいるだろう。
そもそも、新月で十分ではないか。
いつまでも兄に頼ってもいられない。兄離れ、親代わり離れ。そのつもりでいるなら、望月の成長なのだろうが、依存先を新月から別の物に挿げ替えるだけでは成長とは言えない。
依存でないのならば――
「……俺は、そういう人間同士の関わりあいというものは得意ではない」
朱夕のようにコミュニケーションお化けのような存在は例外すぎるが、並の人間関係の構築が上手くいかない。なんなりと折り合いをつければ生きやすい事は、言われなくてもわかっている。わかっているが、そこまで自分を曲げて、はたしてそれは生きやすいのか。
昨年度までと比べて研究室は比較的安定して回っている。しかし、宵宮自身の我慢はあるが、周囲が我慢してくれている事も、理解はしている。
……別に、向こうもそれが生きやすいから我慢しているのだから、お互い様だ。多少の感謝はしているが、そこまで。
もたっと望月の手が動いた。さまよって――ぐっと伸ばされた手が、宵宮の手に触れた。とりあえず触れたところをつかんだ。というような感じで宵宮の薬指と小指が掴まれた。力は思ったより強いが、考え合って掴んでいるような感じではない。すぐに滑り落ちてしまうだろう。
――それを、宵宮はわずかに指先を曲げ、滑り落とさないように絡めるようにして掴んだ。
「……」
「――」
「――お兄……ちゃ……」
「おい。貴様ら、本当にただの兄と妹なのか?」
以前流れていた妖しい噂。宵宮は本気にした事はない。
実際、二人のやり取りは、謎の距離感を時に醸し出すが、そこは兄一人妹一人で寄り添い生きてきた頼るところが無いからだろうし、そうでなければ、時々ビックリするほどドライだった。そのあたりは兄姉持ちの朱夕も似たところがあるのでそういうものとは思う。
兄妹ならそれもいいだろう。
しかし、それに巻き込まれるのは――
ぴくりと、指先に刺激が加わった。
それから、捕まれている指にじっとりと湿度が加わってきた。宵宮が首を傾ぐ。望月は目を閉じている。閉じているが――口元がわずかに震えている。眉間に皺がわずかに感じられ――頬が子どもが抱えて振り回していそうなお人形のように赤く染まってきた。
「望月」
「……」
「起きていてまだこのような事を続けるなら、その意図を聞きたいところだが?」
「ちがっ……!違います!何か、目が覚めたらこんな事になっていただけで!」
ばっと望月が椅子から身を起こして弁明を始めた。
「なんだ。望月。お前はその年でまだ夜羽音に手を握っていてもらわんと眠れんのか」
「違います!新月お兄ちゃんと一緒に寝ていたのは小さい頃だけです!これは、これは――」
そこまで言いかけて、まだ宵宮の指先を掴んでいたままに気づいて、望月は慌てて手を離した。宵宮はそれに任せた。……別に、それを惜しむ理由などないはずだ。
「何度も言うが。望月、お前が兄離れ中なのは理解しているが、俺はそのボランティアや指導員をするほど暇ではない」
「兄離れはとっくにできています!」
それはない。
その自認でいるなら、改めた方がいい。
「……何でもかまわんが――いや、かまうな。いつまでも子ども気分でいるな。もうまわりも甘やかしてはくれん」
「こんな寝ぼけ方はしないんです……今日はケーキが美味しくて……」
「どんな因果関係を成立させようとしている?ならば今度から、貴様に甘味は回さんぞ」
「そんな……ううう……どうせ寝ぼけているなら、もっと堪能しておけばよかった……」
「堪能する何があった?」
「こ、こっちの話です!」
この調子でいくなら、朱夕からサバ折りでも喰らうのだろうか。
朱夕曰く、『うちのお兄ちゃまはもちろんお姉ちゃまと柊副室長はまったくこれっぽっちも似ていないから!』と言われている。寝ぼけて勘違いされる事もないだろう。
そもそも、宵宮には『兄属性』だか『兄特性』なるものはないはずだ。新月が平均的なそれから飛び出しているせいで、奇跡的に宵宮と一部重なる部分があるだけで、また、望月がそこに何かしらを見出しているだけだ。
弁明のために大声をあげる望月の声に他の面々もむにゃむにゃなどといかにもな声をあげて目を覚まし始める。そして、居眠りしていた事と、宵宮に見つかった事で青い顔をしたが、宵宮から嫌味を言われるだけですんで胸をなでおろした。
なお、茜はどうやっても起きなかった。起きるは起きたが、『うるせえ、もう少し寝かせろ』と言って寝直した。たいした大物ぶりである。宵宮は茜だけは明日改めて説教する事にした。
午後の時間はもう僅かだ。今からでは書類整理ぐらいしかできる事もないだろう。
なんでもいい。余計な事を考えずにすませたい。
席についてわずかに目線を動かせば、望月はまだ顔のほてりが戻らないのか、赤い顔でやたら音を立ててキーボードを叩き始めていた。
寝ぼけて男の手を掴むなど、とんでもない問題を孕んでいるのではないだろうか。これは誰に伝えるべきだろうか。
朱夕や茜経由で注意をさせるべきか。新月から滾々と説教を受けさせるべきか。
望月本人が深く反省しているようなので、これ以上は触れずにおくべきか。
何にせよ、困ったものだと宵宮は思った。
……望月自身の腕の重さに任せておけば、すぐさま滑り落ちた。そうでなくても、振り払えばいいだけだった。
何を人に偉そうに言えたものか。
――本当に、困ったものだ。宵宮は心の中で繰り返した。
※ 毎週【火曜日】【金曜日】に一話ずつ更新中。
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