47話 再燃
「なんだ。早いな。しかも、夜羽音が来るのか」
「当然だ。このデータを新人に任せられるか」
隣り合う研究室で、スキップ数十歩で辿り着ける距離だ。とはいえ、その取り扱うデータの重要性を知っているからこそ、我が手でどうにか。という気持ちになる。
USBメモリで管理できる程度なので、データサイズとしてはそう大きなものではないが、重要性は桁違いなのだ。
場合によっては何人かが首をくくらねばならない事態も起こりうる。
普段はコーヒーが薄いのなんの、昼休憩で誰かが鳴らすギターがうるさいの、くだらないことで揉めている研究所だが、どの研究室も扱う研究内容はとてつもないものなのである。
そんなわけで、普段ならデータや資料のお使いは研究室の新人が持ち回りとなるが、今回は夜羽音新月から柊宵宮への受け渡しとなっている。
中間や上位層の研究員がごっそりいないために副室長という肩書きが宵宮にはくっついている。そのため、宵宮の研究所内における実際のところの地位はかえってわかりづらい。ただ、宵宮と同様に若手最有力の呼び声高い夜羽音がこうして出向いているので、かなり重要なデータの受け渡しらしい。自分達の研究作業もそこそこに、新人達はちらちら二人のやり取りを見ている。確かに受領した旨のサインを宵宮が行い、複写分を控えとして受け取った。
「ついでなので、こちらが引き取るものがあるなら、私の方で持ち帰るが?」
「そんなもの――」
研究室ごとで得意分野があるので、よその研究室から依頼を受けて協力体制を取っている事は多い。宵宮自身に遺恨を抱える研究員は多いが、それはそれとして背に腹は代えられない実力や実績を持っているから余計に恨みを買っている。
「ああ、あったな」
データ解析そのものは新月が所属する隣の研究室が最も得意とするところだが、解析データを受けてのさらなる扱いは各研究室に下ろされる事が多い。隣の研究室は、時期的な問題もあるが、研究所内全体からの解析依頼をこなすだけで手一杯となっている。
「望月。あれはもう終わっているか。黒鉄と協調して進めろと言っておいた――」
「え、どれですか。茜さんとのは、三つぐらいあるんですけど。茜さん以外とのも色々ありますよ?茜さんとので間違いありませんか?」
「俺が言っているんだからそれでいい。うるさく言うな。今は他の話をしとらん」
舌打ちをしながら宵宮が望月の元に向かう。
パソコンのフォルダを開いている望月の横からそれを眺めて指示を出す。どうやら終盤には差し掛かっているものの、まだもうしばらく精査には時間がかかる。それをさらに戻そうとなると体裁を整える必要があるので、今すぐに、とは到底いかないようだった。
「すみません。なかなかちょっと……」
「いや、そもそも抱えている内容が大きい。順調な方だ。確認作業にかかる時間と俺の作業の手がすくタイミングを考えれば、精査は終えていてほしかったが。どうせ今すぐ渡しても、これの主責任者は一階のデータ解析で死にかけている。すぐには取りかかれん。かまわん」
進捗を確認すると、宵宮は顔をあげた。扉のあたりで待機している新月の元に向かい、概算の受け渡し日について伝える。ついでに持ち帰れるものは、というだけの話で、必ず今すぐに必要というものではない。新月も、そもそもその手の依頼があったかどうかすら把握していない、完全なついでだ。
手ぶらで帰す事にはなるが、依頼を受けた時に見込んでいた日程よりやや早まる。文句はないだろう。
――と思っていたのに、新月は不満たっぷりの顔をしていた。
「急ぎだったなら、依頼をかけた奴を咎めろ。当初の予定に間に合う段取りは、望月達がしっかりとつけている」
「……そこではない」
「ではなんだ」
「やはり、お前がうちのコモ――妹を呼ぶ、その呼び方が気に食わない。どうしてうちの妹だけ名前で呼ばれている?」
「その話については、夜羽音の妹が所属となった当初で終わらせただろうが。最終的には納得したのではなかったのか」
夜羽音なんて変わった苗字で十分唯一無二であるはずだ。しかし、兄妹が揃ってこの研究所に配属になった事により区別化が必要となった。
望月本人が当初の呼び方を拒絶したのが事の起こりだった。宵宮は今でも『夜羽音妹』で十分だと思っている。
「貴様がこの研究所から出て行ってくれるなら、その問題は解決すると思うが」
「どうしてオレが出ていかねばならない!?」
なんなら新月は、この研究所の千両研究室への異動を今でも諦めていない。今回も研究所の本館にコピペで異動願を出していると聞いている。本人から。
……ただ、今回も異動は叶わないだろう。研究所間の人員バランスというものがある。
そして、宵宮は先ほどあんな言い方をしたが新月の研究者としての能力や特に管理能力の高さは認めている。研究所全体の分析の要である隣の研究室において、新月は欠かせない人員だ。よその研究所や研究施設に放出するなど、もってのほかである。
……それは理解していても、新月個人が気に入らないので、いらぬ波風を立ててしまうが。
「……コホン。柊がどう言おうと、オレ――私は多くの人に求められているからな。貴様がどう吼えようと、研究所が私を手放すわけがない」
さらに言うなれば、隣の研究室の博士こそ手放したがらないはずだ。懇切丁寧に新月を研究者として育てている。……なのに新月は、自分の研究室ではなく千両博士にご執心なのである。あまりに報われない。新月も恩義は感じているようだが。それはそれ、らしい。
自身が必要とされている事を新月は重々理解している。
宵宮も研究者として必要としている事も。……翻って新月も宵宮を研究者として認めている。でなければ、異動発表を歯噛みするだけで終わらせはしないだろう。千両博士への直談判だけでなく『実力行使』に出てくる。
ともあれ。
そういう現状であれば、夜羽音が二人いる以上区別は必要になる。
「俺だって、望月を望月と呼びたいわけではない」
異性の名前呼びは、いらぬ誤解を受ける。
実際、くだらない言いがかりを受けた事もある。
「なら、呼ばねばいいだけじゃないか」
「それはもっともだが――」
今さらこの話を蒸し返さねばならないのも面倒だ。
「だいたい、どうしてそんなに偉そうなんだ」
「偉そうにしているわけではない。新人の指導をしているのだから、そう聞こえるだけだろう」
……そうだろうか?
口を挟みはしないが、新人達は皆、疑惑の目を向けていた。
新月ははっきり口にしてくる。
「ふざけた事を言うな。柊のその口ぶりは明らかに威圧的だ。私とお前であれば対等であるからこその言い方もあるが、入ったばかりの新人研究員にその態度は問題がある」
「対等?」
引っかかったのは、そちららしい。
なお、この種の話については、特に新人配属前、各研究室の指導担当者向けに説明会が研究所全体で開かれている。宵宮に関しては個別に呼び出されて数日に分けてまでの釘刺しが行われた。そんなに新人指導に問題があると研究所で把握しているなら、専任の指導担当を置けばいいだけの話だ。指導者の負担軽減の施策も何もなしに、通常の研究業務を行いながら新人の指導も行え、そのうえで研究結果も出せとは、研究所はどんな面の皮をしているのか。今でも宵宮は文句がある。
「検査機器に不用意に手を突っ込んで、望月がマウスをクリックできなくなっても困るだろう。先々の危険を回避するためにはきつい言い回しになるのも致し方ない」
「……よくもそんな事を」
「ああ、望月と呼ぶのが気に入らんのだったな。では夜羽音と呼ぶほかない。ではなんだ。こちらの夜羽音を夜羽音と呼ぶ以上、そっちの夜羽音を新月と呼べと?」
――それでいいか?新月。
宵宮が、明らかに煽るように新月に語り掛けた。
「は!?どうしてオレが柊に名前呼びをされねばならない!?」
「区別のためには仕方ないだろう」
「いやいやいや、そんな気味の悪い……」
気味が悪いのは、新月だってそうである。自分だけが被害者面をするあたり、兄妹らしさを感じる。
「妹のために、多少の気味悪さは甘受したらどうだ。兄なんだろう」
「うっ……いや、そうだが。しかし、そんな仲良しこよしみたいな事……」
名前呼びだけで仲がいいのどうのという考えがよくわからない。案外、新月は表面上の付き合いだけですべてをすませているのかもしれない。
「いや、しかし。コモのためならば……」
新月がぶつぶつ言っている。
「わ、わかった。俺を名で呼ぶのは承服するから、妹の事は今後――」
「あああー!新月お兄ちゃん、何勝手に決めてるの!?」
事の成り行きを見守っていた望月だが、とうとう口を挟んできた。
「もうこれは決まってる事なの!まわりだってやっと慣れ始めてるんだから!」
確かに、最初の頃は、データや書類のやり取りで顔を見せた他の研究室の研究員が、『新人にまで強権を振るっている』などと顔を顰めていたし、匿名の投書がハラスメント委員会にも届いていた。最近は、兄妹の区別のためという事で、引っかかりを覚える研究者はまだいるものの、理解を得ている。
「今さら呼び方が変わったら、『今度はなんだ?』ってまた悪目立ちしちゃうから!これはこれでいいの!偉そうな言い方についてだって、新月お兄ちゃんと変わらないから!なんなら、新月お兄ちゃんの方が家では偉そうだもん!」
「おい夜羽音。お前、そうなのか?」
「いや、そこまででは……」
「ともかく!」
パン!と望月は区切りをつけるように手を打った。
「兄妹が同じところにいるんだから、何らか区別をつけなきゃいけないのは、仕方が無い事なの!宵宮さんに『この出来損ない』とか言われるよりは『望月』でいいの、望月がいいの」
「おい待て、俺はまだ今の段階でそこまでの見切りをつけた呼び方はせんぞ!?」
見切りをつければ、そう呼ぶらしい。実際、多少の差異はあれど呼び方について数例のファイルがハラスメント委員会にはある。もちろん、柊宵宮の見出しがつけてある棚に。
新人という事でいくらか目溢ししてもらえるうちにその恐れを払拭しておかなければならないようだ。
「……呼び方については保留とするが、言動については以降も目を光らせておくからな。何かあれば、柊、私は匿名などと言わず、署名と証拠を持って委員会の人間と共に乗り込むからな。いいな――」
「わかったから!新月お兄ちゃんは受け渡しの書類を忘れずに持って!向こうの研究室に戻って!」
細面に加え、体躯もほっそりしている新月は、華奢に見える望月にどんどこ背中を押されて追い出されてしまった。平和が訪れた。
「相変わらず、夜羽音が来ると騒がしくなるな……」
宵宮はぼやきながら、そもそもの要件であった、隣の研究室に依頼していた分析結果の入ったUSBメモリを、専用のスロットに差し込んで事前チェックをかけながら取り込み準備を始めている。
「あのさ」
こそこそと透が口を開く。
「単純に『夜羽音君』『夜羽音さん』『夜羽音ちゃん』とか、敬称で分けるだけでいいんじゃないの?」
実に明快な解決策だったが、望月の気迫で口を挟めなかった。望月は、『夜羽音妹』で学生時代を通す事になった。新しい環境に身を置く今は、名前で呼ばれる貴重な機会だ。最初の段階でしくじれば、大きな異動などが起きない限り、ずっと引きずる事になる。
朱夕からの『もっちー』呼びや、宵宮からの『望月』呼びは譲れないらしい。三人机の島の横から、望月の無言の圧がかかってくる。
「柊が夜羽音のアニキを『夜羽音君』呼びもだけど、夜羽音を『夜羽音ちゃん』とか呼び始める方がキモいから、今のままでいいんじゃねえか?」
「もっちーがいいなら、何でもいいよ」
どうでも。
……そんな朱夕の声が、聞こえたような、聞こえなかったような。
※ 毎週【火曜日】【金曜日】に一話ずつ更新中。
各話独立、続き物ではないので登場人物さえ覚えれば、多少読み飛ばしても大丈夫!
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