42話 落とし物いただき物
手帳が落ちている。
不用心だ。宵宮は顔を顰めた。
中身を確認するまでもない。柔らかなピンク色。普段から目にしている。望月がメモ帳代わりに使っている手帳だ。何より、表紙にベタベタとハートだの星だの、キラキラしたシールが貼られている。学生気分が抜けていない子どものような手帳だった。
「望月。おい、望月」
さっさと拾えと言いたいが、あいにく不在だ。そう言えば先ほど、二階の研究室で出力されたデータの現物を取りに行けと使いに出したばかりだ。さっさと帰ってくればいいものをと思うが、新人研究員はどこの部署でも物珍しさで可愛がられるものだ。初々しいだけで可愛いものなのに望月は単純に見目がいい。変わり映えのない日々の研究、数字やグラフを追うばかりの日々に現れたオアシスの潤いを、そう簡単に手放したくはないのだろう。……どこぞのメーカーの試供品ボールペンを、山ほど貰って帰ってくるのだろうか。
なんにせよ、落ちた手帳を床に放置もよろしくない。
踏みつけて滑って転ぶなど、絶対に避けたい。
「南天」
「はーい?」
机についていた透が、顔をあげた。
「ここに、手帳が落ちている。おそらく望月のものだ」
「……はい?」
「拾って望月の机の上にでも、置いておいてやれ」
「……はい?」
ここに、というからには、宵宮の足元、その視線の先にあるのだろうと透は理解した。
……足元にあるなら、自分で拾って置いてあげては?
距離的にも、透の席は扉側で、一番遠い。
曖昧な返事をしただけで行動を起こさない透に、宵宮が顔を顰める。
「研究内容以外のくだらん事を書いていそうだ。持ち主はわかっている。わざわざ中を覗き見るつもりもないが、俺が手に取れば、望月は不快に思うかもしれん」
ある程度理屈は通っているかもしれないが、だからといって透がわざわざ歩いて行って拾うほどの事ではないと思う。宵宮で不快なら、透だって不快に思うかもしれない。そもそもそんな心配、杞憂だろう。悪意あって何かイタズラでもするならともかく、善意の行動に対して望月が不快に思うとは思えない。宵宮は望月の何を見ているのか。
「それなら、僕じゃない方がいいと思うけど……」
距離的に一番近いのは、朱夕だ。並んだ机の位置関係程度なので、わずかの差ではあるが。朱夕の方は、それとなくやりとりを聞いていたらしいが、声がかかってあらためて顔をあげた。にまっと笑顔を見せている。
「高いよー?」
物を拾う程度の事でお菓子なりなんなり、お代を請求しようという魂胆らしい。本気ではないにせよ、そのやり取りが煩わしいから宵宮は朱夕に声をかけなかったのだろう。朱夕は黙っていれば品の良い日本人形のような静謐さを醸し出すのに、中身は結構ひょうきんだった。
透とそう距離間の違わない席に茜もいる。物を拾って置くぐらいで茜は文句を言わないだろうが、それが宵宮からの命令となると、素直に聞くわけがなかった。今も、作業の手を止め、腕を組んでどういうつもりかと挑みかかるような目をしている。
「ん?なんだ、柊。アタシに何か用か?……言い方次第だな」
丁寧にお願いをすれば機嫌よく拾ってくれるだろうが、今度は宵宮が丁寧にお願いするわけもないのがわかっている。
つまり、宵宮の選択肢として、一番気兼ねなく指図ができて、それに従う人間というのが透という事だった。簡易的なピラミッドの中で、自分がどの位置に座しているのかが容易に想像できて、透は少し悲しくなった。
「やっぱり僕が拾うからいいよ、二人とも」
よいしょっと。
若者らしくない掛け声だが、気の重さを払拭するには、その手の掛け声はどうしても必要だった。望月の手帳は本来の手帳のページに様々な貼り込みなどがなされているようだ。ずいぶん嵩張っていた。もう、総ページ数の半分ほどは書き込んでいるようだ。
日常的なメモもあるのかもしれないが、日々、宵宮からの細かな指示に対してこまめにメモを取り、都度不明点も確認している。その几帳面さや学習意欲の高さが見て取れた。
きっとためになるような事がたくさん書いてあるんだろうなと透は興味を持ったが、宵宮でさえプライバシーに配慮している。流石に興味本位で盗み見る事はできない。
それに、どうしても気になるなら、それは望月本人に、どんなメモの取り方をしているのかなど直接聞けばいい。場合によっては見せてもらえるかもしれない。
……そういえば、研究所の中庭に迷い込んだ仔猫が可愛かったと、望月からメモ書きを見せてもらった事がある。確かこの手帳だったはずだ。猫の話という前置きが無ければ、毛玉が二つ転がっているようにしか見えなかった。あれは仔猫の絵だったらしい。下手とは違うが、なんとも独特な絵だったのを思い出す。
たいした埃はついていないが、念のため軽く払って、望月の机の上に置いておく。
席に戻って、透がデータを確認する。様々に開いたディスプレイ上のウインドウをあちこち開き直す。もっと効率的な確認の仕方があるような気もするが、それは次の時に何とかしよう。――というのを、ここ何回か繰り返している。このどんくささを何とかしたい。
カチャカチャとクリック音がやたら多い透と違い、宵宮の方は口元に手をやりながらディスプレイを睨んでいる時間の方が多い。スクロールをかけ、睨みつけ――たまに何かを手元の仮刷りした用紙に書き込んでいる。申請書類や注文用紙の紙媒体の多さに宵宮は文句をつける事は多い。しかし、宵宮本人もアナログなところがある。ディスプレイのみだと目が滑って見落としてしまうそうだ。そうかと思えばけたたましくキーボードを打っている時もある。機嫌が良いのか悪いのか判断がつかないので、やはり宵宮の応対は望月に任せるしかない。
「ただいま戻りましたー」
にこにこと笑って望月が帰ってきた。何やら色々持っている。南天達三人が机をつけて作った島の方に立ち寄ると、白衣からザラザラと個包装されたペンを出してきた。出入りの業者が宣伝も兼ねて置いていく粗品のペンだ。商品名や会社名などがペンの側面に印字されている。
「これ、たくさんいただいてきたので、よければ皆もどうぞ」
案の定だった。新人が使いで他の研究室に出入りするのはよくある事だ。だが、先輩としては手ぶらで帰すのも申し訳ないと、何かしら手元にあるものを渡そうとするから、こうなる。あとは茶菓子。
「望月。そんな事はどうでもいい。俺が頼んだ物は、どうなった。そちらが先だ」
「あ、はい、柊さん、すみません」
小脇に抱えていた書類ケースを慌てて宵宮の机へと持ち運んだ。
その間に、三人は粗品のボールペンを手に取る。パソコン作業が主体とはいえ、それでもペンを使うことはまだまだ多い。
「柊は書きやすいペンをさっさと取っちまうから、その前に貰っとこうぜ」
「あ!このシリーズ、わたしもーらいっ!」
朱夕はデザインの可愛さを優先するようだ。メーカーのマスコットキャラクターが印刷されている可愛らしいペンを一本取るとそれで満足なようだった。透は残ったものを引き取るので十分だし、なんならこの粗品ペンは、別の研究室の使いが来た時に渡される可能性もある。そんな感じでグルグル回遊しているのだ。
「あ」
宵宮にお使いした書類を渡したところで、戻った自分の席に手帳が置かれていたのに望月が気づいた。当然、白衣のポケットを叩くがそこに手ごたえはない。
「これ――」
望月が宵宮の方を振り返る。
「南天が拾って望月の席に置いていたぞ。礼を言っておけ」
「そうなんですか。……透君、ありがとう」
望月が目を細めて笑顔を見せる。見慣れてきたが、それでも目を瞠る可愛らしさだ。透の目には望月と周囲がキラキラ光って見えた。
「あー……えへへ。いや、別に」
確かにそのとおりなんだけど。無駄に手間を取られた気もするけど、たいした事でもないのに感謝されると嬉しい。けど、先に気づいたのは宵宮だ。なんだか悪いような気もしたが、宵宮の方は、特に気にもしていないようだった。
「宵宮さんも、ありがとうございます」
「……何の事だ。俺は知らん」
「そうですか?」
望月はそれだけ言うと、席についた。それ以上その話題には触れないようだが、宵宮は少し居心地が悪いというか、落ち着かないような顔をしている。
宵宮の中で、望月はピラミッドのどこに位置させたいのだろうか。……やはり、宵宮の応対は望月に任せるのが一番だなと、三人は思った。




