30話 デスクリジェクト
千両研究室所属研究員の中では最年長であるが、大谷部はまだ十分若い方だ。なお、研究員として籍を置いているが、大谷部が個人的に研究論文を書いたのはもうずいぶん以前の事になる。研究者としてなら、今年入った新人達の方に師事を請わねばならない立場だろう。
研究者としてはそのような始末であるが、人間としての経験は、若輩者とはいえその新人達と比べれば、流石に豊かである。
今や一人の女性のためにしか囁く事もなくなった愛の言葉の数々についても、是非後進に伝授したいと考えている。しかし、宵宮は聞く耳を持たないし、透は熱心に耳を傾けてくれるが、実践するにはあまりにキャラが違い過ぎて、そのまま使えば不幸な事故が起きるだろう。実際、起きたのを見た事がある。まあ、若いうちはどんどん失敗をしておいた方がいい。年を重ねるほどに、失敗する事に憶病になり、挑戦を行わなくなるのだから。
――というわけで。
これはそういった控えめな昨今の若者に踏み出すきっかけを与えているだけだ。
別に、面白がっているわけではない。
大谷部はそう結論づけた。
なお、ずいぶん昔に書いた大谷部の論文は、『論理が飛躍している』『結論に至る理由が不明』という、学生に向けたような指摘がついて即戻されている。大谷部も乗り気でもなく書いていた論文だったため、結局形になる事なく、ログインパスワードもあやふやなパソコンに残っているはずだ。
※ ※
そこからの成長が見られない大谷部だが、今回のからかう相手――もとい。導くべき後輩として不幸にもターゲットにされたのは望月だった。
天気がいいので研究所の中庭で弁当を食べた帰りのようだった。
「おう、『もっちー』!」
あだ名で呼ばれて望月がきょとんとする。キョロキョロとあたりを見回している。間もなく、ひょろっとした人間ばかりの中で異質に存在感を放つ筋肉質な大谷部を発見し、歩を進めた。
「どうしました、大谷部さん」
「飯食った帰りか?また昼からも机に座ってとか、夜羽音達はよくやるよなあ」
「ずっと走り続けるとか、そっちの方が、私は大変だと思いますけど……」
謙遜などではなく、研究者なのだからまず机に向かわないと何もできない。そして何よりサンプルとして必要であれば、何時間でも走り続ける大谷部の方が望月には理解できない事だった。仲は良くとも、わかり合うというのは難しい事だった。
だからこそ面白いのだ。
大谷部は、笑い出してしまわぬよう注意をして、小さな茶色の小瓶を取り出した。大谷部の手が大きいので、ことさら小さく見える
「いいもんをやるよ」
「なんですか、それ」
そこで大谷部は大きな体を折ってわざとらしく芝居がかった様子で声を潜める。
「惚れ薬だよ、惚れ薬」
「ほれっ……!?」
大きな声を出しかけて、慌てて望月が口を閉じる。子どものようなリアクションは、大谷部を大変楽しませた。これはここからよりゆかいな事になってくれそうだ。
「夜羽音は真面目ないい子だから、ちょっとしたご褒美にやるよ。誰か使いたい奴、いるか?」
「そんな……お、怒られます」
――おや意外。いや、意外でもないのか。
怒られます。なんて反応は、まず怒る相手が想起されたという事だ。それは、ろくでもない事をしてのお叱りという事なら当然親代わりである兄の新月の事だろう。しかし、今の口ごもり方は、最終的な叱責ではなく、単純に使用した相手からお怒りを喰らう、という感じだった。大谷部は望月のプライベートまで把握しているわけではない。必然的に選択肢は研究所内の誰か程度しか浮かばないが、相手から返ってくる反応の第一に『怒る』が出てくる人物はおおよそ絞られる。
「これ以上宵宮さんを怒らせたら、夢でうなされます……」
答え合わせまで、できてしまった。
大谷部の予測では宵宮に使うのが一番面白くなりそうだとは思っていた。しかし、そうかそうか。惚れ薬を使いたい奴と言われて、望月がまず連想するのは宵宮だったらしい。大谷部の意図を先回りしてかもしれないが、それなら『怒られます』よりも『嫌ですよ』とか『どうしてですか』あたりが返答として出るはずだ。
怒られますよはまだまだ今後の発展が必要そうだが、これは生暖かく見守ってやろうと大谷部は先輩として心に留め置く事にした。
「それに……そもそも、惚れ薬って何ですか」
続いた望月の反応もごもっともだった。
「あれですか。クラブの非合法の……とかですか。そ、そんなのはいけません!」
海外ドラマの見過ぎだ。国内でもあるところにはあるかもしれないが、そこまでイケイケドンドンな愉快な気質の人間は、研究所を主体として研究員やその関係者で構成されるこの町にいるだろうか。それならよほど――
「はっ!もしかして、研究室の研究物……」
望月が落ち着きのない顔で周囲の研究員達の顔色を窺っている。研究者倫理を皆守っているはずだが、身近の研究者が千両玲斎と柊宵宮では、その倫理のほどを疑うのも無理はない。なお、法律上まったく問題のない範囲でなら、それにほど近い研究は他の研究室で行われている。本当にこの研究所の専門分野とは何なのだろうか。国内の天才と呼ばれる奇人のるつぼになって久しい。
「ヤバいもんじゃねえけど、まあ惚れ薬なんだから似たようなもんだ」
大谷部の手にあるものに関しては、大嘘である。
「惚れ薬っていっても、実験段階だからな。完全に惚れさせるもんじゃねえよ。こう、ぽーっと体が熱くなってのぼせあがる程度だな」
「なるほど……」
嘘は大胆に。要所要所でキュッと締めておくのがコツである。
大谷部の準備したこの『惚れ薬』は、ラベルを取り外しただけのただの精力剤だ。そこらの薬局にも並んでいる。ただし、棚の高いところにあって、桁が一つほど違うかなりお高いものだ。個人的にどんなものかと大谷部は『正しい用途』で使用してみたが、効果は覿面。先ほど大谷部が告げた効果自体に嘘はない。愛しい百合香がいつも以上に愛おしく思えた。
なので、惚れ薬を名乗らせても、問題はないだろうとの大抜擢である。
「じゃあこれを、柊に飲ませてみろって」
「よ、宵宮さんにですか!?どうして、惚れ薬を!?」
「さっき、夜羽音が自分で言っただろ?」
「え?わ、私、言いましたっけ?」
直接的にではないが。まあ、言ったようなものだろう。望月の反応も、どうしてその事をという感じで、対象者が違うという言葉はなかった。
「あの生意気な柊が、ぽーっと恋に浮かされてペラペラ愛の言葉を喋り始めたら愉快だろ?二人で笑ってやろうぜ」
「わ、笑うのは……いや、でも、そ、そうですね。からかうだけですよね。深い意味なんてないですから!」
慎ましやかと自認しているらしい望月の性格では、惚れたのなんのに腰は引けるが、冗談としてなら惚れ薬を使える、使ってもいいとの判断らしい。大谷部にはどうでもいい。面白ければ。
※ ※
「え。今ですか」
「どうせ他の三人は、昼休憩が終わるまで研究室に戻って来ねえだろ?」
なんなら昼休憩が完全に終わってからゆっくり戻って来る、まである。腹頃の良くなった宵宮は、いつものように休憩時間が終わるまで研究室の長椅子で横になっている。大変都合がいい。
「なんかあって襲われそうになったら、止める奴が必要だろ?付き添ってやるよ。……お?それとも、そんな事になった時は、おれは余計な事をせずドロンした方がいいか?」
古臭いジェスチャーを大谷部が取る。
「い、いいえ!いてください!」
大谷部のような言い方をされて、『ならそのように』とはなかなか答えづらい。本人の思いはどうあれ、監視役を頼む展開になる。大谷部だって、一万円に手が届く値段をかけているのだ。知らぬところで愉快な事になってもらっても面白くない。あと、それだと笑えない。
※ ※
「……栄養剤?」
「そそそ、そうです。宵宮さん、この頃お疲れのようなので!」
結果的に、『惚れ薬』は本来の用途にほど近い感じで宵宮の手に渡る事になった。精力剤も栄養剤も、流通品なら成分は似通ってくるものだ。
「……栄養剤?」
宵宮は、『栄養剤』を渡した望月ではなく『何故か』一緒にいる大谷部の方に問うている。望月は惚れ薬の行く末が気になって宵宮の視線の先どころではない。
宵宮は手のひらにやや余る大きさの茶色の小瓶を照明に透かしている。大谷部のろくでもないいたずらに何度となく巻き込まれてきた経験が活きている。
栄養剤をどうするか。望月に突き返すか大谷部に突き返すか程度の選択肢を宵宮は即座に想いついているようだ。しかし、それらの選択肢を取れば、悪戯を気取られまいと望月が想定外の動きを見せる恐れがあった。
宵宮にとって望月は、思考や言動、行動が推測しづらい危険人物だった。
宵宮にとって大谷部はロクでもない人物ではあるが、悪ふざけが過ぎたとしても、それは常識の範囲内にギリギリ収まる。望月の事を考えれば、下手に何かするよりはこのまま騙されたふりをする方が面倒がないはずだ。
――などと宵宮が考えているのが、大谷部にはよくわかった。なまじ頭がいいと、二手三手と先の手や選択肢にまで考えを巡らせるので大変だなと大谷部は思った。あと、宵宮は宵宮自身が考えているほど冷静でもない。ものの考え方は意外とわかりやすい。なので年若い奴らをからかうのは面白い。
「わかった。気づかい感謝する」
「あのっ、今ここでお飲みには……?私、かわりに片付けてきますよ?」
家に帰ってから飲むとして、こっそり捨てる手を封じられた。宵宮は顔を顰めている。
「……ふう」
覚悟したようにため息をつくと、小瓶を開栓した。手ごたえで、この瞬間まで未開封であったことが確認されて、内心ほっとしているようだった。研究室の中には、施栓できる機会もあるが、よそを巻き込んでまでのいたずらを大谷部はしないとの理解はある。
様子見として一口飲んだ瞬間、宵宮は目を白黒させた。しかし、以前まともに一気飲みする羽目になった海外輸入品のチリソースに比べれば、味が独特なだけで嚥下は容易だった。本当にただの栄養剤ではないか、何が狙いかと宵宮の目が訴えている。
ともあれ、宵宮は望月から『栄養剤』として渡された『栄養剤』らしきものをただ飲んだだけだ。文句としては不味い、程度しか口にする事もない。
「……まあ、目は覚めた」
「目、覚めましたか。そ、それで?」
「それで、とは?望月。やはり何か企んでいるのか、貴様らは」
「い、いいえ!」
そうは言いつつも、その日の午後はずっと望月は落ち着きなく宵宮の様子を観察し続け、宵宮はたいそう居心地の悪い顔をしていた。とはいえ万年お疲れ気味の宵宮の体には、栄養剤と似た成分で構成されているお高い精力剤はずいぶん効き目があったらしい。午後からの研究作業が快調に進んでいた。
望月が『惚れ薬』を誰に使うかについて、大谷部内のオッズでは宵宮が本命だった。いたずらに巻き込むとして、宵宮が損するだけにはならぬようにという配慮は、功を奏したようだった。少し面白みに欠けるが。
※ ※
宵宮の反応は大谷部の期待を上回るものではなかったが、望月の方は上々だった。
騙されたと業後に怒ってくるかと大谷部は考えた。しかし、『効果があった気がします!すごいです!』と、望月は不測の事態に備えて研究室の長椅子で雑誌を読み待機していた大谷部に業後報告に来たのだ。
効果?
単純に、精力剤の栄養効果で元気が出た分、心身に余裕ができて宵宮は無駄に怒らなかっただけだ。それを望月は惚れ薬効果で優しくなったと都合よく解釈したらしい。一緒にいた他の新人三人どころか、宵宮自身すら、宵宮の変化にまったく気づいていないようなのに。
そういうものの考え方ができるから、新月や宵宮という面倒極まりない人間のほど近くにいても病まずにいられるのだろう。
……今日も実に楽しい一日だった!
大谷部は日記をつけるタチではないが、もし日記を書くなら、小学生の絵日記的な文章で、今日一日を締めくくった事だろう。
※ 毎週【火曜日】【金曜日】に一話ずつ更新中。
各話独立、続き物ではないので登場人物さえ覚えれば、多少読み飛ばしても大丈夫!
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