27話 誤った情報の流布
「……」
宵宮がげんなりしている。
そのそばには、首にタオルを巻いた、ラフな格好の大谷部がいた。きっと今日もどこかの研究室のサンプルとして体を動かしてきたのだろう。血の巡りがよくなって舌が回りやすいのか、まあよく喋っていた。
宵宮も最初の内ならうるさいうせろなどと言っていたが、大谷部が全く意に介さないので、諦めたようだ。
宵宮は別にヒョロヒョロもやし男ではない。しかし、大谷部の前では並大抵の成人男子が力で太刀打ちできるものではなかった。大谷部が実験以外でその恵まれた体格を行使した事はないが、見ただけで反抗する気が失せるほどの体格なのだ。それでも宵宮なら必要と判断すればたとえ無駄でも立ち向かいそうだ。今は必要とは感じていないのだろう。不在の千両博士に代わって研究所内の紙書類や電子書類にサインを入れている。
もはや、大谷部の無駄なお喋りをBGMと割り切っているようだ。雨音や雑踏など、無駄な音声を垂れ流している方が、集中力が増す事は多い。
宵宮の胸中を知ってか知らずか、大谷部はいかつい風体を思わせないほどにこにこ笑顔で機嫌もよく喋り続けていた。
勝手に囀る分には好きにしてもらっていいが、ちょいちょい宵宮を話に引き込もうとしてくるので、次第に宵宮の苛立ちが再燃してくる。
「で、な?その時百合香がどう言ったと思う?それがもう、かっわいいったら――」
「もういい!貴様自身のくだらん話はともかくとして、他人の話まで貴様が話していいものではないだろうが!」
ええ、聞きたかったのに。朱夕の声が離れた机の島から聞こえてきた事で、宵宮は朱夕を睨んだ。朱夕はおお怖い怖いと言うと、茜や透に向けて、反省の色を見せずペロリと舌を出した。恐れ知らずだ。
「なんだよ。おれの可愛い百合香の話を、機嫌よくさせてくれればいいだろうが」
「貴様の馬鹿話だけでもうんざりだが、当人のいないところで当人の話をおおっぴらにするのはよろしくないだろう。それに――」
内容が内容である。
大谷部と立花は恋人同士だ。
惚気話程度ならまだしも、興が乗ってくると、酒の席ですら閉口しかねる内容を話し出すのだ。朱夕からすれば『だから聞きたかったのに』らしいが。
ひと昔もふた昔も前に、デスクトップの卑猥なスクリーンセーバーやら卓上の業務にかかわらない卑猥な雑誌についてなどのハラスメント問題が世間では話題になった。それをさらに上回る大問題である。宵宮は、パワハラ主犯格としての扱いですら不服だが、このうえセクハラの共犯としてハラスメント委員会に呼び出されたくはない。
ハラスメント関係無く、個人の尊厳にもかかわる。
立花の前で言えないような事を、ペラペラ喋るものではない
いや、大谷部の場合は、立花がいても悪気なく言いそうだ。『だって可愛いから』などと。どうあれ、立花はおおいに怒り狂うだろうから、宵宮が止める事は何ら問題はないだろう。
「案外まともなんだな、柊って」
こそこそと茜が話す。新人のうち茜、朱夕、透の三人の机で構成された島は、反・宵宮前哨基地として今日も機能していた。完全に秘した行動ではなく、宵宮の目や耳に入るように活動しているので、反骨心の表明程度だ。なお、ちょいちょい前哨基地は宵宮の丈夫ではない堪忍袋の緒が切れて叱責という形で叩き潰される。
「黒鉄。案外とはどういう事だ」
「いや?大谷部さんの言うに任せてそうっていうか、むしろ意地悪く立花さんの弱みでも握りそうなのにと思って」
宵宮と立花は仲が悪い。
双方大人なので、どれほど険悪でも掴み合いの喧嘩はない。かわりに世紀末を思い出させる冷戦状態だ。千両研究所の秘書や事務的役割として立花は週に数度顔を見せるが、書類の受け渡しだけなのに周囲は背筋が凍る気がする。
「やっぱあれか?元カノだから?」
ドカンと茜が爆弾を投下した。
「おっ、いった!」
完全に朱夕が面白がって合いの手を入れる。
研究所内は多くの研究員がいるとはいえ、閉鎖された空間だ。研究者を囲い込むために街全体が研究者本位になっているため、基本的にプライベートでは内にこもりがちな研究者の世界は狭い。人間関係もだ。
「何だと!?」
宵宮の表情が豹変した。
あからさまにである。
え、マジ?と茜の方が怖じ気づいた。研究所内のカフェでそれとなく何度か耳にした話だったのだが。
ただ、宵宮の態度があまりに目立ったために皆は注目していないが、この中で宵宮に次いで表情を変化させていた者がいた。望月である。みんな元気よねと呆れながら自分のデータ作業をしていたのに、完全に手が止まっている。目を見開いて宵宮を注視しているが、皆と同じく宵宮も望月の表情の変化に気づいてはいない。
「おい黒鉄。貴様、そのくだらん話、どこで仕入れてきた。誰だ、まだ俺の名誉を棄損する愚か者は!」
何が悲しくて、あんな女と懇ろにならねばならない!
……言葉選びが独特であるが、噂話を否定したいらしい。
「えー?本当に噂話なのかよ。別にさあ、中学生や高校生でもないんだぜ?惚れた腫れた、くっついた別れたなんて、そう珍しい事でもないだろ」
海外ドラマでは、シーズンごとどころか、話数ごとに恋人が変わるようなドラマだってあるというのに。
むしろ、そういう事情があるなら、ある程度教えておいてもらわなければ、思わぬところでややこしい事になる。茜は冗談交じりでそう口にしたのだが、宵宮はどうやら本気で怒っているらしい。先週茜がまたやらかした、単位の読み替え間違いによる烈火の怒りをはるかに超えていた。
「貴様。俺が。あの立花のような鼻持ちならん女相手に現を抜かしていたと。そうぬかすんだな?」
宵宮は席を立つと、長い足をことさらに大きく使って、そう広くない千両研究室を横断するように茜の席にやってきた。ダン、と机に手をつくと、目を見開いて茜を睨みつけている。唇をわななかせていたため、獣めいた歯並びがよく観察できた。
「な……なんだよ。違うなら違うで、そう言やあいいだろ」
「違うに決まっている!黒鉄!貴様は俺の何を見てそう口にした!?」
「んっだよ……そんなマジな反応されると、本当みたいに見えんだろうが」
「事実の確認もなさず、推論とも言えぬ推論を口にする愚かしさに俺は腹を立てているんだ。研究者がそんな姿勢でどうする……!?」
「研究者って、これは関係無いだろ」
ギリリと、音でも鳴りそうなほど宵宮が歯を食いしばった。ヒッと茜が悲鳴に近い呼吸音をあげる。
「何も知らん貴様であろうと、外部から見れば、『内実を知る関係者』だ。そんな貴様が面白半分に口にした事が、どれほど俺の名誉と尊厳を傷つけるか……!」
かろうじて手は上げていないが、その限界がほど近いと感じさせる気迫があった。流石に茜も慌てる。いつもの軽口のつもりだったのに。
「おい、柊。その辺で許してやれよ。そういう過去がない事は、おれは一番よく知ってるんだから。百合子はおれに最初からベタ惚れなんだからよう」
「――最初からではなかっただろう。貴様は俺と同等か、場合によっては俺以上に嫌われていた」
大谷部のよく通る太い声で、宵宮は若干冷静さを取り戻したようだ。
まあ、そこも不思議ではある。
真面目な立花が、傍若無人な宵宮と相性が悪いのは当然だが、よく言えば人懐っこいが、悪く言えばデリカシーもなく大雑把な大谷部の彼女というのが不思議といえば不思議だ。しかも、恋人同士だから双方好き合っているのだが、大谷部が言うとおり、比重は立花の方が多くて重め。男と女というのはよくわからないものである。
「まあ、おれが人間として――いや、男として魅力に溢れているからだろうな」
「それだ、貴様あ!」
宵宮が今日一番の怒声をあげた。
「貴様がそんなふざけた事を吹聴して回ったせいで、俺は、『立花を寝取られた哀れな男』と事実に髪の毛先ほども触れていない捏造の下、玩弄され尽くしたんだぞ……!」
「おれは別にそういう事一言も言ってねえし、ちゃんと否定しただろうが」
過ぎた事をいつまでも、と言わんばかりに大谷部が呆れている。
だいたい、『男としての魅力』をそんな風に取る奴らが――などと言っているが、何にせよ、それで宵宮は今以上に怒り狂う事態になったらしい。
「そもそもがだ!俺が!俺の方が、あんな生意気極まりない女に惚れているという前提が胸糞悪いというのに、言うに事欠いて惚れるどころか関係を持っていたとまで捏造されたうえに、あげく寝取られた、だぞ!?」
何事においてもプライドの高い宵宮にすれば、ありとあらゆる意味で異なる事実をぶち上げられた上に結果として『劣った』『負けた』とされたのだから、許せるものではないのだろう。
恋愛においてそれらを優劣や勝ち負けの観点で語る事こそ愚かだと思うが、今ですらここまで怒りを再燃させる宵宮に対して、いったい誰がどう言えようか。
大谷部がのらりくらりといなしてくれる事でどうにか少しずつ落ち着かせている。
……おそらく、だが。宵宮と立花はそもそも仲が悪かった。そこにこの誤った噂話が研究所内に広まった事で、その不仲が決定的になったのだろう。
立花だって、付き合ってもいないどころか嫌っている男性と勝手に付き合っている事にされたうえに、別の男に乗り換えたように言われて気分がいいわけない。
なんにせよ、今でこれだ。当時ともなれば、それはもう宵宮の怒りはすさまじかった。
大谷部の無責任な発言に対する怒りもだが、そもそも宵宮はその性格と言動で、当時から研究所内に『敵』は多かった。研究で太刀打ちできず、くすぶるすぶるほかなかった若い研究者達は、いい嘲りのネタが降ってわいたと飛びついた。事実かどうかなどは問題ではなかった。
危うく二度だったか三度だったか、警察を呼ぶ羽目になりかけたと大谷部が軽い調子で話しているが、新人達は聞いているだけなのに生きた心地がしなかった。
なにせ、今視界の端にいる宵宮が、不用意な発言をした瞬間、喉笛を噛み切らんとする獣のように目を血走らせているからだ。
茜も深く反省した。
今後も宵宮に歯向かう事そのものはやめないが、おちょくるにしてもネタには気を付けようと。……反省、しているつもりらしい。
※ 毎週【火曜日】【金曜日】に一話ずつ更新中。
各話独立、続き物ではないので登場人物さえ覚えれば、多少読み飛ばしても大丈夫!
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