25話 迷子は心細いもの
「――ああ、あった」
なくすわけがないとはいえ、所在を確認して宵宮はホッと胸をなでおろした。寝に帰っているだけのような研究所の単身寮の自室、スーツのポケットからそれを取り出した。
黒いペン軸の万年筆。さして使っていないからと、千両博士から譲り受けたものだ。研究室でならともかく、外に出る時は、多少ハッタリを利かせた方がいい。――若いうちなら、それが虚勢とバレても、かえって愛嬌に取ってもらえると。……愛嬌とはまた、宵宮とは縁遠い言葉だ。
千両は、宵宮が使う粗品のボールペンの代わり程度に軽く渡してきたが、立花にそれがどれほど価値あるものか言われ、値段を調べて血の気が引いた。以降、千両が寄越してくるものに関しては総じて『おそらく高いもの』として、むしろ値段を考えない事にしている。
インクが詰まって使えなくなってはいけない。久々に宵宮は万年筆の手入れを始めた。
最近は研究室にこもりきりで、外に出る機会もなく、千両博士の万年筆を持ち歩く事も久しくない。
一時期はちょっとそこまで昼飯を。程度の気軽さで、海外に連れ出される事もあり、いつ何があってもいいように今も研究室にパスポートを置いているが、やや虚しくなってきた。……それにしても、連れ回された中にはビザが必要だった国もあるはずだが、いったいどんな手を使ったのか。元々そういう人なので、考えるだけ無駄か。
新入り達も少しは使えるようになってきた。……機材の使い方や、共有フォルダのどこに何のデータがあるとか、発表書式であるとか、研究外のところに説明が不要になった――ぐらいで、まだまだ先は長そうだが。
そろそろ大きな発表や、千両博士に随行して海外の講演や発表に出られるだろうか。書きかけの論文も仕上げたい。ワインではないのだ、寝かせておいてよくなるものでもない。
そういえば。
朱夕まで海外での宵宮の研究発表を見ていたというのは意外だった。今まで余計な口を利かなかった事も意外だったが、口を開くやいなや、余計な事ばかり喋っていた。誰が探偵だ。芝居がかっているだ。不愉快極まる。朱夕の話を聞いて笑う茜を思い出し、宵宮は眉間の皴を深めた。
そして、朱夕とは別の意味で不愉快――不可解なのは、望月だった。
望月も、宵宮の海外発表を見ているはずだ。覚えていられぬほど物心がつかない子どもというわけではなかった。あの年まで物心がついていないとすれば、気味が悪い。
とはいえ、興味がなかったので忘れている可能性もあった。外国語がまず理解しがたいうえに研究発表では、まったく興味も持てないだろう。宵宮も『見ていたとしてもおかしくない』程度の、状況を組み合わせた類推程度にとどめていた。特にその話題が出た事もなかったし。
しかしあの望月の様子だと、本人も『宵宮の海外での発表を見た』としっかり理解しているようだった。それなら朱夕と共にその話を披露してよさそうなものなのに、あくまで主体は朱夕に任せていた。
そこに何か――宵宮では意図を読み切れないものを感じる。
※ ※
「馬鹿じゃないのか、あの馬鹿は!」
馬鹿とはそう、夜羽音新月の事である。
それは数年前の事だった。
とある国で開かれた大規模な学会に、研究所の博士達が数名参加する事になった。千両博士は基調講演も行う。宵宮達いくつかの研究室に所属する若手研究員は、併設された小さなホールで研究発表を行う機会も得た。そうはない晴れ舞台に、配偶者や家族を同伴させる研究員もいた。しかし――
「初の海外で、妹を放置するなど、正気とは思えん!」
おかげで、自分の研究発表の準備を控えているのに、宵宮達は手分けをして探し回る羽目になっている。
宵宮からすれば、正直知った事かという話だ。
新月は今回がはじめての海外での研究発表だった。事あるごとに妹について語るあの男が、その目の中に入れても痛くない妹に、晴れ姿を見せてやりたいと思ったのか、虚勢だけは一丁前だったが、びびってついてきて欲しくなり無理やり引っ張ってきたのか――両方のような気もする。ともかく、連れてきておいてそのあと放置とはどういう事か。所在が知れないとは。
「発表の準備で私も忙しい。そうはない貴重な機会だから、色々と見て回ってかまわないと伝えておいた。私の発表時間と場所は伝えてある。その時には必ず、一番いい席で見ているはずだ。だから何の心配もいらない」
……妹なのか彼女なのかわからないような愛でっぷりのようなのに、時折出てくるその雑さに、研究所の人間は騒然とした。
ここは海外である。その新月の妹に至っては初海外旅行。新月の普段の言動を信じるならば美少女。それを一人で。放置。
スラムに置いてきたわけではない。理知的な人間が集う学会の場で、何の心配がと不思議がる新月の様子がむしろ不思議でしかない。研究員の一人が『その理知的な人間には柊も含まれているんだぞ、柊みたいな奴も、ここには大勢いるって事だぞ』と言い出した事で、途端に新月は事態の深刻さを理解し、おろおろし始めた。眼鏡を直す手がガタガタと震え、先ほどまで機嫌よくぴょろりと跳ねていた前髪が、くたりと垂れ下がる。
新月も研究員も失礼極まりない話だが、ともかく今、大捜索中である。
新月の妹がかどわかされてどんな目に遭っても、それは新月やその妹がうかつなだけだと宵宮は鼻で笑うだけだ。
しかし今回は研究所が関わっている。その中で家族とはいえ参加者に事件が起きたとなっては余計な問題に発展する。千両博士や宵宮も何らか名前が出る可能性もある。
そして、あの新月の狼狽。これからの研究発表、あれでまともにできるのか――宵宮は、新月の妹にたとえ何かあったとしても『それはそれ』として研究発表は敢行するべきと考えている。人の心がない。それに今後を考えれば、何かあれば、新月は研究者として生きてはいけないだろうと宵宮は考えている。何かと噛みついてくる腹の立つ男だが、優秀な研究者である事は認めざるを得ない。『そんな事』で研究を続けられなくなるのは惜しい。であればなおの事放置などせず、首に縄でもつけてそばに置いておけと腹立たしい。
「夜羽音妹!夜羽音妹はどこだ!」
人が多くて雑然としているが、声を張り上げて騒ぐわけにはいかない。それでもどうしても苛立ち、声は荒くなる。
いっそ年端もいかない子どもであれば、誘拐の恐れの何のと緊急体制を敷いてもらう手もあるだろうが、そのような年でもないらしい。なにより、新月のせいでそこまでオオゴトにするのも腹立たしい。
名前は教えてもらったが、たいした情報にはならない。そもそも『夜羽音』という目立つ苗字がわかれば十分だろう。
空調が効いているはずなのに、スーツのせいかやけに熱い。
「夜羽音妹。やばね――」
いた。
アイツだ。
……新月に似ているのに美少女だと感じてしまうあたりに気持ちの悪さを感じるが、きっとあれに間違いないと、宵宮は確信した。ぴょろんと跳ねた前髪が、何よりわかりやすい。一族全員、あんな前髪なのだろうか。
新月の普段の話しぶりからもっと幼い子どもを想像していたが、十分ものの判別がつきそうな年齢だった。なおさら海外で女性、少女、あるいは子ども――ともかく一人でいる事の危機感を持っていてしかるべきではないか。何をふらふらしているのか。怒りが増す。
宵宮は、長い足を最大限有効活用して距離を詰めた。
近づけば、その少女はいくらか心細げに視線をさまよわせている事に気づいたが、今さらだった。
「おいお前!何をのんきに口を開けて、ふらふらしている!」
「えっ……えっ……は、はろー……?」
外国で話しかけられたからといって、誰に対してもとりあえず英語で答えようとするなと宵宮は苛立った。だが、自分が何の言語を使って話しかけたかも思い出せなかった。色んな言語がまわりに飛び交っていると、混乱する。
宵宮は舌打ちをしてから一度呼吸を整えた。
「夜羽音の妹だな?お前の兄は、夜羽音新月か?」
「えっ、あ、はい。そうです。新月お兄ちゃんのお友達の方で――」
「奴と同じ研究所の研究員だ」
「では、お友達の方では――」
「ではないな。黙れ」
間違いないとは思っていたが、確認が取れた。宵宮が携帯電話を取り出し、若手の代表に『夜羽音妹を見つけた』と、連絡を取る。時間を確認する。ずいぶんなロスだった。
「そろそろ新月お兄ちゃんの発表を見に会場に戻りたかったんですけど、ここ、似たようなホールがいくつもあるし、どう繋がってるのかわからないしで……」
それについては会場利用の投書アンケートにでも放り込んでほしい。
「ああ、夜羽音の発表か……おい、夜羽音妹。このまま、そのホールに行く。妹の顔が見えた方があの男も安心するだろう。それに――アイツが腑抜けた発表をする様を真正面から見て笑ってやる」
「え?あの……」
「ついて来い、夜羽音妹」
「……はい」
各国の新人研究者達はいくつかの小さなホールで順番に研究発表をしている。分散しているのと、メインの基調講演が大ホールで順次開催されているため、席はまばらにしか埋まっていない。
新月達のグループは発表順が次に迫っていた。ホールの舞台脇で待機をしていた新月は、舞台中央の席に陣取った宵宮から一つ空けた席に妹を認め、ようやくホッとしたようだった。発見の連絡は回っていたようだが、心配だったらしい。
「あっ、見てください!あの端です、新月お兄ちゃんです」
「……わかっている。黙れ」
発表の中核はグループの代表、中堅研究者が行うが、一部専任的に担当した部分については担当が変わり、その中で新月の出番もあった。それを宵宮と一つ席を空けて座っている新月の妹はハラハラと祈るようにして見守っている。
「……わかるのか?」
「英語ですけど、これは練習で新月お兄ちゃんの発表以外も全部聞いているので、わかります」
「いや、理解できるのか?」
研究内容の発表だ。それも海外で行っても恥じない内容だ。専門用語も多い。
「え?わかりますよ?」
「――」
見栄を張っているにしては、あまりに自然な受け答え。むしろそんな問いを寄越される事に不信を感じているようにすら見えた。
「……そう、か。まあ、兄が夜羽音なら、わかるか」
発表については研究所でも何度も練習してきたから問題なかった。
ただ、その後の質疑応答はなかなか厳しいものとなる。
想定問答は研究所全体で行い、その問いが来るならば先に潰しておこうと日を追うごとに発表内容の底上げもしてきたのだが、さらにそれを上回る質問が入る。宵宮としても『確かにその質問は出て来る想定をせねばならなかった』と苦々しい。
別に質問を出させてはならないわけではない。痛い質問がくるのは、それだけ興味を持って見てもらえた証拠だ。しかし、見通しの甘さを痛感する。
「あああ……新月お兄ちゃん、頑張って……」
新月は、意表を突かれると、途端にいつもの余裕ぶった感じが消え失せる。そのあたりは中堅研究者が慣れたもので、上手く補足をして場を繋いだ。しどろもどろになったのは新月だけではなかったが、それだけ多くの人から興味を持たれる研究だったともいえる。
「新月お兄ちゃん、あんなに頑張ったのに……」
発表が終わった後、新月の妹は肩を落としていた。
研究発表の質疑応答としては、まあよくある感じだった。そんなに残念がる意味が、宵宮にはわからない。口惜しさはあるが、上々な部類だ。どうやらもっと華々しく格好いい姿が見られると思っていたらしい。あるいはよほど新月が妹にふかしたか。
「新月はよくやった。あからさまに動揺を見せたのが無様だっただけで、内容に不備はない。筆頭が過分なく受け答えしていたのだから、内容は全体共有できていたという事だ。どうしてそれをあの無駄によく回る口で喋らんのかは、謎だが」
「……新月お兄ちゃんの先輩は、褒めてくださってる……んですか?よくできていましたか?」
「先輩……?まあ、長くやってはいるが。褒めるも褒めんも、俺はそういう立場にはない。健闘は称えてもいいが、俺だって奴と同じ発表者だ」
「先輩も発表されるんですか?あ、もしかして、もう終わって……?だから私を探してくださってたんですか?」
そうだった。新月達の発表に意識を持って行かれていたが、今さらながらに怒りが再燃する。怒る相手は新月だが、目の前の新月の妹がまったく無実かといえばそんなわけもない。新月の言葉を真に受けてふらふらしてくれた事で、いらぬ混乱が起きた。
「――これからだ。なんなら、発表準備を放り出して、夜羽音妹探しをしていた」
「ええっ!?それはいけません!早く準備を!」
「言われなくてもそうする。だが、夜羽音妹。貴様を引き渡してからだ」
「大丈夫です、新月お兄ちゃんには舞台の方に行けば会えるんですよね?――私、聞きに行きます。このホールですか?何時から?」
「別のホールだ。道に迷っては同じ事の繰り返しになる。来なくていい。どうせわからない話だ」
「大丈夫です、教えて下さい」
「……」
宵宮の携帯電話が震えている。同じ発表グループの人間が『見つかったと聞いているのにどこで何をしている、準備を手伝え』と催促してきているのだろう。宵宮は、研究所から支給された、さして枚数の減るそぶりのない名刺を取り出した。裏に時間とホール名、簡単な地図を書く。どうせならもっと益のある事で、この万年筆を使いたかった。
「無理してこなくていい。夜羽音のそばにいろ――おい、こっちだ!」
名刺を渡していたところで宵宮と同じく新月の妹を探していた研究所の研究員に声をかける。こちらはさらに別のグループで発表を終えている。女性研究員なので、夜羽音への引き継ぎ程度なら、任せてかまわないだろう。
「宵宮君?夜羽音君の妹さんは見つかったらしいのに、アナタまだこんなところで、いったい何をしてるの!?準備は!?」
「今から向かう。これが夜羽音妹だ」
「わお。本当に女の子版夜羽音君じゃないの」
万年筆をポケットにしまいながら、慌ただしく女性研究員に新月の妹を押し付ける。
「え、あの――よ、宵宮さん。ありがとうございました。私、絶対見に行きますから」
「来なくていい。――早く夜羽音にそれを連れて行ってくれ」
宵宮の発表ホールは基調講演の大ホールに近かった事と、ちょうど基調講演の谷間で退出者がそのまま流れ込む形となった事もあり、盛況の内に終えた。
何故研究発表の質疑応答を目にした者の感想が『裁判ドラマを見ているみたいだった』かについては、目にすればその謎はすぐさま氷解しただろう。だが、見ないとわけがわからないのもまた事実だった。
ただ、柊宵宮の独擅場であった事は確かだ。
自分の基調講演を終えて見に来た千両博士が腹を抱えて笑い、その後知り合いの博士達に自慢気に宵宮を紹介した。
絶対見に行くと言っていた少女が実際にそれを目にしたのかは、あの盛況なフロアからは誰にも判別がつかなかった。
何より、壇上の宵宮にとって、研究者でもない人間など、存在する意味を持たなかった。なので、まったく頭になかった。
※ ※
「……見に来ていたなら、もう少し何かあってもよかったんじゃないのか」
たとえばそう――あらためての詫びであるとか。宵宮は、手入れを終えた万年筆をスーツのポケットにしまいながら、ぼそりと呟いた。
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各話独立、続き物ではないので登場人物さえ覚えれば、多少読み飛ばしても大丈夫!
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