35 母と子
ある昼下がり。スヤンとシャオは、もはや馴染みとなった牧人ルセロを呼んで、動物の世話について教えてもらっていた。
段々と陽射しも強くなる季節だというのに、ルセロは相も変わらず目元しか肌の見えない着込み様で、毛皮の円筒帽も外さない。
声色からしてまだ若いはずだが、また足を悪くしたのか、長杖も手放せないようだ。
今日はスヤンが彼から貰い受けた馬、コラソンの蹄鉄を打ち換える予定だ。
作業の前に、彼女の調子を見るべくその鮮やかな栗毛の馬体にブラシをかける。
普段ならスヤンがやることだが、片腕では危ないということで、シャオが請け負う。
「そうだ、毛の流れに沿って、彼女の顔もよく見るといい」
「鬣を梳いたらまた三つ編みにしましょうね」
シャオが櫛を片手に、細い指で首を掻いてやると、コラソンはうっとりと目を細めて喜んだ。
スヤンは馬房の端、逆さに置いたバケツに腰かけ、その光景を眺めていたが、部屋の主人たる牝馬はそれが気に入らないらしく、左の袖を食んでぐいぐいと引き寄せようとする。
「おい何だ、やめろ」
「ふむ。どうやら君が顔を見せなくなったのを心配して不安がっているようだ。腕のことを話してやるといい。彼女は十分に理解できるから」
ルセロの言葉を肯定するように、彼女は大きな黒目でスヤンをじっと見つめていた。
スヤンとしても思い当たる節がない訳でもない。
旅亭を開くことにしてから、厩舎を新築した。だからコラソンの馬房がスヤンの寝室の向かいでなくなってそれなりに経つのだが、その所為で顔を合わせなくなったともいえる。
今まで自分の世話をしていた主人が、大怪我をした気配をさせてからというものめっきり姿を現さなくなり、彼女なりに気を揉んでいた、ということらしい。
息を吐いたスヤンは徐に彼女の大きな馬体の前に立ち、淡々と簡潔に、事の経緯を言ってみることにした。
「……という訳だが、お前を食わせていくには何ら問題ない。分かったか?」
もういいかと頬に手を伸ばすと、さっと避けられてしまう。
更に、そういうことじゃない、と言わんばかりの頭突きを食らった。
それから、スヤンの前髪がべたべたになるまで甘噛みして、ようやくコラソンは満足そうに鼻を鳴らした。シャオが陰で吹き出す。
「さて、それでは蹄鉄を換えよう。コラソン、この足を上げよ」
一連の流れに、くすくすと笑っていたルセロだが、気を取り直して、大きなやっとこのような道具を手に取った。
右前肢を拳でこつこつ叩いて合図にすると、この気位の高い牝馬も素直に応じる。
抱え込んだ脚を作業台に置き、ルセロは慎重に覗き込む。
釘を抜いて蹄鉄を外す。
伸びた蹄を削り、やすりで形を整えていくと、どこか耳にも心地いい震動が響く。
「前のハミのほうが甘くてよかったか。それでは同じものを探しておこう」
甘えるように鼻先を寄せる馬に、ルセロは目を細めて頷く。
その姿に、スヤンは前髪を拭きつつ以前から気になっていたことを尋ねた。
「いつも、まるで動物の言葉が分かっているように話すのだな。その所為か、こいつもあなたの言うことだけはよく聞く」
「……ふふふ、そうだろうか?」
装蹄を終わらせ、屈んでずれた筒帽子を被り直しながら、ルセロは困ったようにはにかんだ。
スヤンは眉を上げた。
誰よりも物知りで、不思議に思ったことには何でも答えてくれる彼が、言葉を濁すなど珍しいことだと思った。
それでふと、先日エピに【彗星の一族】について、彼に聞けと言われたことも思い出した。
丁度いい、と重ねて口を開こうとしたものの、スヤンの小さな問いかけは、門前から飛び込んだ声に遮られてしまう。
「ルセロ! いるか?」
森番だ。村に住み着くとなってからはスヤンとも親しく、奇逢亭の工事でも随分世話になった。
「……しばし待たれよ」
ルセロは杖を突いて足早に彼の元へ向かうと、何やら話し込んでから肩を落として帰ってきた。
流石にそれを見落とすスヤンでもない。
「顔色が優れない。何かあったのか?」
「実は……」
ルセロは観念したように、彼を悩ませる新しい問題について話し始めた。
***
「牛が一頭、行方不明なんですか」
「うむ。年も経て大人しい子だから、何か危ない目に遭ったのやもと思い……顔の利く森番に方々へ話を聞きに行ってもらったのだが、これといった手がかりもなく」
ルセロが管理している牛ということは、彼の雇い主であるエピの資産である。
だからもし、例えば、盗まれたかもしれないとなれば、それなりの大事だ。
だが、それ以上に牧人の語り口は、もう一週間も行方が分からないという牛自体を案じていると感じられるものだった。
沈痛そうな面持ちのルセロに、スヤンは一応、ありきたりな質問を済ませる。
「心当たりはほかにないのか」
「実は……去年がひどい難産であったから、身体を休ませたのだ。放牧先もほかの親子とは分けている。それで少し、気落ちしているようなところがあったが……」
長く良い仔を育ててきてくれた母牛だから、以後も無理をさせなくていいとエピからも許可を受け、離れた休耕地に放していた。
それでも急には生活の変化を受け入れられなかったのか、仔牛の声が聞こえるほうへ、柵まで寄って離れず、日がな一日過ごしているそうだ。
スヤンは頷いて呟いた。
「元の放牧場に戻ろうとして道に迷ったのかもしれないな」
「ううむ……」
すると、それまで大人しくしていたコラソンが、急に嘶いて、地面に前足を叩きつけた。慌ててシャオが頭絡を掴み、身体を撫でて宥めようとする。
「どうしたのでしょうか」
鼻息が荒く、頻りに耳を動かしているが、その目は真っ直ぐにスヤンを見ていた。
この馬が毎朝、脱走して村中を散歩する癖があることをスヤンはよく知っている。
「少し、歩かせよう。何か見たらしい」
***
馬房を開け、栗毛の巨体を好きに進ませていくと、竜の渡りが来ている峡谷に程近い、村の南の森の中に入っていった。
何百年とかけて背を高く伸ばした針葉樹林だ。
今はあまり人が立ち入らないためか、あちこちの木漏れ日に夏の草花の茂みができて、幻想的な雰囲気だった。
「コラソン、こんなところまで遊びに行っていたんですね……」
隣を歩くシャオの呆れた顔を見て、コラソンはばつが悪そうに目を逸らす。
「叱るのはまた今度だ。癪だが、おかげで迷い牛の場所が分かる」
スヤンはそう言うと、いつも差している赤い番傘を閉じた。
森の中では何が出てくるか分からない。日差しも然程届かないようだから、一本しかない腕は剣に使うことにする。
しばらくして、コラソンが足を止め、ある方角へ耳を立てるようになった。
木苺の茂みの向こうだ。微かに牛の鈴の音が聞こえる。
「メイ!」
「待て、何かいる」
飛び出すルセロを追って、スヤンとシャオも茂みを掻き分ける。
先は、古木が倒れ、ぽっかりと開けた、陽だまりの中の花畑だった。
そこには、茶色い牝牛が一頭と、見たことのない黄緑色の、鱗の生えた鳥のような生き物がいた。
立ち尽くすルセロに、シャオが恐る恐る尋ねる。
「それは……?」
「竜だ。今春生まれの雛と見えるが……この時期にしては小さい」
「親の気配もないな」
「……孵るのが遅く、群れに置いていかれたのかもしれぬな」
足元を転げまわる仔竜を見下ろし、ルセロが呟いた。
スヤンは鯉口を切り、親指で鍔を構えて問う。
「危険な竜か?」
「いや、草木を好んで食す、温厚な種である」
ルセロは首を振る。
ぱちん、とハバキを鞘に戻した。剣は必要ないようだ。
「どうする」
「少し、様子を見ようと思う。彼女は……子どもの面倒を見るのが楽しくて仕方ないようだ」
彼がそういう通り、牛は心穏やかそうに草を食んでは、仔竜のおぼつかない羽ばたきを眺めている。彼女の長い舌で愛おしげに舐められて、竜は甲高い歓声を上げていた。
草食の竜はほかの動物の例に漏れず育つのが早く、程なく自力で飛んでいけるようになるそうだ。
そう思えば、ようやく寂しさを埋めてくれた新しい娘と牛を、せっかちに引き離してしまうのも気の毒なのかもしれない。
牛の無事に気が抜けたルセロが少し休みたい、と言うので、しばらくこの陽だまりに留まることにする。スヤンは木苺を摘んで時間を潰すことにした。
何分か経ったあとのことだ。
「あ、兄上ぇ……」
弱った声に振り向くと、シャオが竜に擦りつかれて困り果てていた。
麻の衣の端を食んで、遊んでいるようだ。
猫のように大きなトカゲの額を、スヤンは軽く指で小突いた。
「このトッケビめ」
暴れる竜をそっと放してやれば、転げながら逃げていく。
叱られた、と竜は優しい母親のもとへ帰って泣きついた。
それを見て、ルセロは楽しげに言った。
「今のは面白い響きであるな。どういう意味だろうか」
「……俺が何か言ったか?」
「はい。……トッケビ、と」
シャオも頷き、スヤンは首を傾げた。
何の気なしに言ったことだが、確かに奇妙だった。
何故、自分はその言葉を選んだのだろう。
考えてみて、ぼんやりと自分も小突かれた記憶が浮かび上がってきて、腑に落ちる。
「ああ。小鬼とか、鬼火とか、そんな感じだ」
「私も聞き慣れない言い回しですが、どこで聞いたので?」
そう言われてみれば、都の言葉らしくはないなと思った。
どこで、どうして言われたのだったか。
かつて剣を交え、殺してきた相手の言葉にしては、湧き上がるこの感覚は温かい。
イェリンかとも思ったが、彼は生粋の都育ちだ。
「……確かに、誰に言われたのだったか」
思い出せない。
自分さえも誤魔化すように、スヤンは首を横に振った。
────この、いたずら小僧め!
────まったく、楽しくって仕方ないな!
触れてもないのに刀が震える。
柔らかい手の平が頭を撫でた、そんな気がした。
いつもお読みくださりありがとうございます。
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