34 満酌辞するを須いず
紫煙と酒精、遠くに吐瀉物。
陽射しの届かない裏路地には、つんとした堕落の匂いが漂っている。
瀟洒な羽織を翻し、灰色の壁の隙間を抜けて、スヤンは一人、メルカードの外れにある盛り場を訪れていた。
ごみ山の上でいびきをかく小汚い酔漢を横目に、やはりシャオを置いてきてよかったことだと心の中で溜息をついた。
近頃はようやく一人でも転ばず歩けるようになってきたところだ。それでも彼女は留守番をすることになかなか納得せず、ついていくと限界までごねていたが。
ある程度、通りの喧騒から離れた奥までやってくると、物陰に人の気配を感じるようになる。
あまりよいものではない。
十中八九、大きな荷物を背負っているのを、金目のものと見ているのだろう。
彼らが期待しているようなことは、実際にはまったくの見当違いなのだが、スヤンが正直にそう言ったところで信じて引き下がるような人種でもない。
明天────常と違い右手側に差した、刀の鍔に手をかける。
スヤンのささやかな警告にも気づかず、禿頭の大男が死角を取ったつもりで角材を振り上げた。
半歩、スヤンは進む。
一瞥もくれず強打を躱し、振り返り様に鍔を親指で弾く。
浮いた柄を順手に抜いて、そのまま角材を断ち切った。
かつてなら手首にしていたが、今はよろめいてうっかりどこを落としてしまうか分からない。忌々しい話、加減を覚えなければならないだろう。
男は逃げ出した。図体はあっても、その使い方は知らないらしい。
残りの追剥は、何が起きたのかも分かっていないような程度の者たちだったが、初めの男が逃げ出したので尻込みして、それ以上追ってくる気配もない。
スヤンはつまらなさそうに目を細めてから再び歩き始めた。
すると、騒ぎを離れて見ていた別の男が、口笛を吹いて話しかけてくる。
「見ねえ顔だが、慣れてるな。誰に用だ」
「【山小屋の一夜】という店を探している」
「一本向こうの三軒目だ」
「分かった」
言うなりスヤンが銀貨を一枚投げてやると、男は慣れた手つきで受け取った。
どこに行っても路地裏でやるべきことは変わらないな。
スヤンは内心で独り言ちた。
男の言う通りに歩くと、目当ての酒場【山小屋の一夜】亭の看板が見えた。
寒い夜に身体を温める一杯を。そんな誘い文句が戸に書きつけられている。
スヤンは鞄を背負い直し、中へ入った。
まだ午前中だというにも関わらず、店内は盛況だった。
否、恐らくは客のほとんどが、昨晩から居ついているのだろう。もしかすれば、その前かもしれない。
零れた酒で薄っすらと湿った床を踏んで、スヤンはそっと室内を見渡し、もっとも目立たない隅の卓に目を止める。
そこには浅黒い肌の、珈琲色の長い髪を荒く縛った若い男が座っていた。
スヤンはずかずかと近づくと、臆することなく対面に着く。
それから、寄ってきた女給に、男の飲んでいる酒の瓶を指差してみせた。
「同じものを」
「いや、二つ星に上げてくれ!」
間髪入れず口を挟んだ男に、スヤンは眉をひそめる。
すると、彼はきょとんとして言った。
「何だ? 己に飲ませてくれるのであろう」
「……好きにしろ」
程なくして、安酒を脱した程度の瓶と追加の杯が届き、スヤンは男と自分にそれぞれ注いだ。
自分でも軽く呷ってから、向かいで嬉しそうにしている上戸の浮薄な顔を見る。
「【無頼工房】。今日は仮面をつけないのか?」
「馬鹿め。それでは己が工房の人間だと喧伝しているようなものではないか」
男は声を潜めてそう答えてから、そのまま右手を差し出してきた。
「アラクと呼べ」
「スヤンだ」
無頼工房は、歪曲災害のあった日、シャオに剣をくれた工房だ。
普段は顔や名前、正体を明かさず、隠れて武器を作り続けている。
思うに、アラクというのも偽名なのだろう。見るからに戦闘能力のない男だが、その分、上手く立ち回っているようだ。
無頼工房には数日前、先の件についての礼と新しい依頼の相談を兼ねて、メルカードの商館長を通じて連絡を取っていた。
今、目の前にいる男はドゥルシネーアを打った技術者本人ではないそうだが、スヤンの頼みについて最も適した人物だと商館長には聞いている。
疑いつつもアラクの手を取って挨拶を交わすと、それを見た、ほかの技術者らしき客ががやがやと集まってきた。
「アラクにご指名か? 明日は槍が降るな!」
「騎士サマよう、こんな呑んだくれは止めて、うちにしとけよ!」
「ほざけ。蓬酒三杯飲んだとて己のほうがマシに作る」
冷たく言い放つアラクの肩に組み付き、赤ら顔の職人たちが口々に声を上げる。
「知ってるか、こいつ、弟が中央でお抱え研究者をやってんだ」
「魔術学者の有名な一族だってのに、弟に出世の先を越されて居場所がなくなって、こんな場末まで流れてきたって訳よ」
客たちは大声を上げて屈託もなく笑う。
それは彼を馬鹿にしたようにも取れる言葉の数々だったが、意外にもアラクは気にした素振りもなく鼻を鳴らして満足げに答えた。
「フン、あれは己より頭が悪いからそんなことをやっておるのだ」
それでようやく、あれは彼らがアラクへ贈る最大の賛辞なのだとスヤンにも分かった。
多かれ少なかれここにいる人間は似たような落伍者で、彼らなりの価値観があり、だからこそ奇妙な結束が生まれている。
杯を乾かし、彼はにやりと笑ってスヤンを見る。
「宮仕えほどすまじきものはあるまいにな」
「……そうかもしれないな」
彼の杯に注ぎ足しながら、スヤンは素っ気なく同意した。
気が済んだのか、アラクは酒を置き、本題に入るよう促す。
「大体の話は商館長から聞いている。物は持ってきたな?」
「ああ」
頷いて、持ち込んだ鞄の中からあの大きな缶詰を取り出した。
覗き窓から、緑の澄んだ液体に浸かったスヤンの左腕が浮いて見える。
スヤンは義手の製作を、このアラクと名乗る男に頼むことにした。
無頼漢の技術者は、浅黒い肌でもそうと分かるほど頬を赤らめて、うっとりとして叫んだ。
「おほ~~~♡ これほど酷い断面はなかなかないぞ! 本当にこれを斬ったのがうちの鍛冶師の作品なのか? あやつめ、まだ三年は馬鹿にしていいな!」
「……」
彼が【可愛い子ちゃん】と呼ぶ何某の失態に、アラクは手を叩いて大喜びしている。
スヤンは何か言いたげに彼を睨めつけていたが、すぐに諦めて話を進めることにした。
「義手を作るのに元の腕が要るのか?」
「うむ。使いようはいくらでもあるからな。希望はあるか?」
「いや、特にはないが……」
いくら元は自分の腕とはいえ、これは多分、生ごみだ。
有意義な使い道など思いつきもしないので素直にそう答えると、また周囲の職人たちが群がってきて、好き勝手に缶を覗き込み始めた。
「それなら王道に骨を削り出してだな」
「いやいや、ここは死霊魔術で!」
「細胞増殖で自走式に……」
「分かった。なるべく素材を活かさない方向で頼む」
言葉の意味は大半分からなかったが、ろくでもないことだけは伝わってきた。
夕飯は何でもいいと告げると「それじゃ困る」と言ってくれるストラスに、スヤンは初めて感謝の念を抱いた。これからは意識して自分の意見を言っていこうと思う。
そんなスヤンをからかうように、立ち上がったアラクが背を叩いてくる。
彼は自信ありげな微笑を浮かべ、腕入りの缶を手元へ引き寄せた。
「まあ、自走は冗談にしても、寸法を取りたいのでな。これは己が持ち帰るぞ」
「それは構わない」
「目途がついたらまた呼ぶ。また会おう、朋よ」
そう言うなり、アラクは缶を抱えてそそくさと帰ってしまった。
また呼ぶというからには、商館長宛に連絡を寄越すのだろう。
ツケが溜まっているのにと怒る店主の愚痴を聞きながら、スヤンは黙って、残った酒を一気に飲み干した。




