33 むず痒さ
思えば、日が昇るのも随分早くなった。
シャオの朝は忙しい。
起床してすぐに寝台を調え、洗面と整髪の後、素朴な藍染の衣に着替える。
畑を見回り、水を与え、収穫ができそうなものをチェックしておく。
奇逢亭を支える動物たち────大柄な栗毛の牝馬コラソンと、番犬のレイユン、それから最近飼い始めた雌鶏たちの世話も欠かせない。
それらが済んだら、ようやく自主鍛錬の時間だ。
都にいた頃はスヤンから剣を教わることなどなかったが、最近、通りがかると、目についた部分を指摘してくれるようになった。
なお、かなり感覚に則ったアドバイスであるため、噛み砕くのには時間がかかる。
日々の労働に、まだ身体の癒えないスヤンの世話、その上、鍛錬も欠かさない。
何故それほど頑張るのか、と問われれば、それはシャオが自分の無力さを噛み締めたからに相違ない。
スヤンの腕がなくなったのは自分が技量を欠いていたからだ。
そもそも、彼があんな姿になってしまったことでさえ、自分の及ばなさが招いたことだろう。
初夏の朝日の下、シャオは無頼工房の剣、ドゥルシネーアを振る。
汗に混じって、もっと大きな雫が乾いた地面に零れ落ちた。
合計二時間半ほどで家に帰り、洗い場で汗を流して廊下に戻ってくると、丁度、スヤンの部屋から話し声が漏れてきた。
相手はストラスのようだ。何の気なしに耳を傾ける。
「暴れないでおくれよ。じっとしておいで」
「でも、変な感じがして……」
「痛いよりいいだろう。それじゃあもう一度入れるからね」
────何をしている?
顔を青くして桶を取り落とす。
「ちょっ……何してるんですか!?」
居ても立っても居られず、シャオが突入すると、そこではなんと敬愛する頭目が、あの居候の女によって耳に何か棒状のものを突っ込まれているところだった。
「キャーーーッ!!」
「おお、シャオ。おかえり」
魔術協会の狩人は串のように細い棒を片手に、絹を裂く悲鳴も意に介さず呑気に労う。
シャオは震えた。
仲間と思ったのが間違いだったのかもしれない。
少し気を許してみればこの有様だ。この得体の知れない女は、またぞろスヤンに危害を加えようとしているに違いない。
一歩、二歩、三歩、二人のもとへ、のしのしと詰め寄る。
「あ、頭を割るだけでは飽き足らず、今度は耳から脳みそを掻き出そうと!?」
「違うよ」
あっさりと否定されたが、納得ができるはずもない。
頬を膨らませて睨むシャオに、二月も前のことをいつまで、とストラスは反省の色もなく肩を竦める。
二人がまったく誤解を解こうとしないので、スヤンは寝台に腰かけたまま、急いで事の始まりから説明しなくてはならなかった。
***
「……耳掃除?」
シャオが反芻するように言う。
こくり、と頷くスヤンは、今もしきりに左耳を気にして、顔をくしゃくしゃにしかめていた。
その横で、細い耳かきに綿を巻きつけながら、ストラスは何でもないことかのように答えた。
「朝からあんまり痒そうにしているものだから、教えてやったのさ。昔のイザリアには今よりもずっと恐ろしい怪物が住んでいてね」
趾の間では鉄板のネタだと言って、彼女は耳掃除の片手間に、とある昔話を語り始めた。
黄金時代よりも古い時代のことだ。
ある戦場で、一人の遍歴騎士が突然、耳奥の違和感を訴えるようになったという。
「それから段々、白目が赤くなり始めて、次に鼻水も出るようになった。誰もが、それはきっと木の花粉のせいだと言ったんだがね」
それは丁度、深い森の中でのことだったから、皆がそう思ったのも無理はない。
まさか、もっと致命的な症状だとは、誰も見抜けなかったのだ。
「しばらくして騎士は、野営から出てくるなり、魂の抜けた顔で、訳の分からない言葉を垂れ流すようになった。なんと、耳から入った虫に脳を食われて人格を乗っ取られてしまったのさ! ハハハ!」
すぐに騎士は裸でどこかに走り去ってしまって、とうとう行方は分からずじまいだった。
間もなく、支配者たちの合意でイザリア中を総動員した虫狩りが行われ、その怪物は駆逐されたと言われている。
しかし、今でも時折、似たような証言を残して失踪する人間がいないこともない、ということだ。
「という話をしたら、鏡の前から離れなくなった」
「怖い」
「なんでそんなこと言ったんですか!?」
渾身の笑い話だというのに若者たちの反応が芳しくないことを嘆いて、ストラスは額に手を当てる。
「そりゃただの思い出話で……だから責任を取って耳の中を見てやったんじゃないか。ほら、血が固まって貼りついていたんだよ。左耳だから自分じゃうまく拭えなかったんだろう」
彼女が差し出した綿には、黒く乾いた血がぽろぽろと付いて、これがこびりついていたと考えるだけで二人は耳の奥がむずむずした。
生ぬるい血の雨の感触は今でもよく覚えている。
そう思えば、これも、あの日に歪曲災害を克服した証なのかもしれない。
スヤンは調子を確かめるように首を振ったあと、満足そうな顔で礼を言った。
「すっきりした。ありがとう」
「どういたしまして」
スヤンが立ち上がろうとすると、そこに耳かきを手にしたシャオが立ちはだかった。
「兄上! 反対側は私がやります!」
スヤンは困ったように答えた。
「シャオ? そも、俺はだな、右耳は何ともなくて……」
「やります!!!」
「……」
あまりにも目が輝いていて、断り切れなかった。
スヤンは再び寝台に座り、為すがままに耳を掴まれる。
前任に綿の巻き方を教わり、シャオはうきうきと声を弾ませた。
「懐かしいですね~! 昔、よくイェリンさまにこうして耳掃除をしてもらったんですよ」
その言葉に、先生の剣として、睡花会の頭目として暮らしていたときのことを思い出す。
剣であることだけで精一杯の自分の代わりに、ずっと会をまとめてくれていた副頭、イェリン。
孤児だったスヤンを男手ひとつで育ててくれたのも彼だ。だからだろうか。
『耳掃除してやろうか?』
そう聞かれる度、本当はもう自分一人でできるのに、断ったときの寂しそうな顔が見たくなくて、つい身体を預けた。そんな彼とさえ、まともに目を合わせなくなったのは、一体いつからだったか。
物思いに耽るスヤンと対照的に、楽しそうなシャオは、彼の薄い耳たぶをつついて言った
「ここ、かりかり~ってしますからね」
「わざわざ言わなくていい……」
撫でるように軟骨の縁をなぞり、くじるように溝を拭う。
そっと先を耳に入れ、掻き出すように、少しずつ、少しずつ。
心地良い震動が脳裏に伝わり、スヤンは目を閉じた。
「なんだ、思ったより綺麗……あ、いや、汚い! 汚いですよ~」
「おい」
誤魔化すように笑っていたシャオだったが、段々と真剣な面持ちで作業に集中し始めた。
それからしばらく彼女は黙り込んでいたが、ふと、手を止めてぽつりと言った。
「……痛くないですか?」
「それは、まあ、痛くは……」
うとうととしていたスヤンは、その問いかけに取り留めもなく返事をしようとして、やめる。膝の上に預けていた右手で、左の肩の少し下、先のない断面に、袖越しに触れた。
「……少しも痛くない。だから、そう心配するな」
「……はい」
スヤンの不器用な微笑みに、雪解けのような安堵を滲ませて、シャオは小さく頷いた。
その直後。裂いた拍子に舞い飛んだ綿が、彼女の鼻をくすぐった。
「あ、くしゃみ出そうです」
「えっ? いや、待……」
朝のベレタ村に、声にならない叫びが響き、小鳥が逃げ出す。
一刻も早く、義腕を買おう。
スヤンは涙目になって固く決意した。




