31 結びに代えて
雨が止んだ。あれほど降りやまなかった冷たい雨が。
赤い傘は地べたに転がっていた。
スヤンは両翼をだらりと落としたまま、言葉を紡いだ。
「剣を抜くと、糸が絡まる。縁も、因縁も。離れようと斬れば斬るほど刃は巻き取られて、重く、鈍くなっていく」
初めは、一本の名もない護剣でいるつもりだった。
振りは軽く、斬撃だけがどこまでも残り、刻まれる一振りの刀。
自我などなく、いつか儚く折れ、誰の気にも留められず、記憶にも残らず、道端で果てればそれでよかろうと思っていた。
気がつけば、長く生き延びすぎていた。
いつしかその剣には、スヤン自身に向けられた思慕、恨み、羨望が、もつれ、纏わりつき、どこにも逃げられなくなっていた。
「だからお前には、無縁でいてほしかった」
スヤンは掠れた声で言った。
「この濡れた羽では卵を台無しにしてしまうと思ったから」
ただの気まぐれに拾った子どもが、少しずつ大きくなる度、狭かった世界に自分の知らないことが増えていった。幼い自分の得られなかったものを与えてやる度、これで正しいのか不安になった。
こんな鳥籠からは早く、軽やかに飛び去ってしまえ。
先を歩く小さな頭が、嬉しそうにこちらを振り向く度、そう思って目を逸らした。
スヤンの独白に、シャオはそっと返した。
「だからこそ、鳥は繕い合うのでしょう」
スヤンに咲いた花が散っていく。
けれども、まったく寂しくはない。
また季節が巡ったときに、記憶は香気を纏い満開に咲き誇る。
生きている限り、何度でも。
スヤンは、疲労で力が抜けていくのを感じながら小さく呟いた。
「俺は……ここにいても、良いのだろうか」
「良いんですよ」
僅かな隙もなく、凛とした声が響いた。エピだ。
エピは、頬についた花弁を拭いながら、力強く繰り返す。
「良いんです。道に迷いながら辿り着いた人たちを、風見鶏はいつだって歓迎します」
ルセロも、ストラスも後ろで頷く。
スヤンは唇を噛み締めた。
かあっと瞼が熱くなって、初めての感覚に慌てて右手で目を擦る。
すると鼻から温かい液が垂れてきて、それがまた先日ストラスに脳を割られたときの感触にそっくりで、焦ってシャオから身を反らした。
「……離れろシャオ、鼻血が出たかもしれない」
「ただの鼻水ですよ。第一、何を今さら」
歪曲によって飛び散った血のせいで、辺り一面びちゃびちゃだ。
シャオは呆れながら、ぐすぐすと鼻を鳴らすスヤンの顔を拭いてやる。
すると、いつの間に目を覚ましていたのか、もはや聞きなれた声が頭上から降ってきた。
「なーにをベソかいとんねん。殺る気ィ削がれるわ、も~」
大剣を担ぎ、ラディアンテスは心の底からしらけたと言わんばかりに鼻を掻く。
表情を険しくしたシャオに、彼は指を向けて口を尖らせた。
「嬢ちゃん、もう兄貴から手ぇ離したらあかんで。ここには腹空かせた獣がぎょうさん住んでんのや。次はパクッ、やからな。ほんまに」
脅しか忠告かそう言うとラディアンテスは、退散、退散とぼやいていつかのようにのしのしと帰っていく。
エミリオが小さく会釈をし、小走りに主人の後を追っていったので、後に残された人間たちは肩を竦めるばかりだった。
***
金槌の音が快晴の空に響く。
歪曲災害から二週間後、工房市の熱気もひと段落したベレタ村では、村を挙げての大工事が行われていた。
かつては家畜小屋だった赤い屋根の上、身軽な森番が大きな板を抱えて飛んでいく。
彼は板を軒下に吊るすように提げると、地上を覗き込んで叫んだ。
「こんなもんかー?」
「うーん、もう少し右に寄せてくださーい!」
大きな手振りと共にシャオが叫び返すと、森番があちこち移して比べて見せてくれる。
数分にもわたる熟慮の末、その看板は無事に街道へ面した一番見栄えのする位置に取り付けられた。
その下には新しい入り口が開けられ、コラソンとレイユンが興味津々に匂いを嗅いでいる。
歓声が上がるのを、スヤンは少し遠巻きに、木陰で涼みながら眺めていた。
いつの間にか横にストラスが座り、茶を半分取られる。
「己が一城の完成というのに、主人が掉尾も飾らず眺めるだけとは」
「性に合わない。それに、今の身体で無理をするとシャオが怒るからな」
二週間が経っても、歪曲災害として暴走した負担はなかなか癒えず、スヤンの身体は包帯だらけだった。文字通り、尾羽打ち枯らすまで狂騒したのだから無理もない。
それに、何事も万事解決とはいかず、取り返しのつかなくなったこともある。
しかし、あえてそれについては触れず、ストラスはくすりと笑って小屋に付けられた看板を指差した。
「何と書いてあるんだい」
「奇逢亭。数奇な巡り合わせという意味だ」
森番に選んでもらった木材に、シャオが字を書き、エピの伝手で彫り上げてもらった。
「趣味がいい。文字も達者だしね」
「そうだろう。シャオは何でもできるぞ」
自慢げに鼻を鳴らすと、スヤンは立ち上がり、人々の中に分け入っていく。
梯子を下りてきた森番はエピの背中をばしばし叩いて笑みを溢す。
「よかったなあ旦那! とうとう、うちの村にも旅亭ができたぜ」
「はい、僕はとても嬉しいです。なんといっても、住人が増えて、もっと村が賑やかになりますからね!」
エピの言葉に、スヤンは恥ずかしそうに微笑んだ。
奇逢亭。
あれから、スヤンとシャオは話し合い、ベレタ村で宿を開くことに決めた。
今はまだ南方の渓谷は封鎖されているが、竜の渡りが終わればまた交易商人や遍歴騎士が通るようになる。小屋にはまだまだ部屋が余っている。それを旅人に貸し出し、食事を提供する。
今まではメルカードまで行かなければならなかったが、ベレタ村にも滞在できるようになれば、村はますます発展していくだろう。
「しかし、よろしいのか? 君らは元々、南を目指すという話ではなかったか」
首を傾げるルセロに、スヤンは静かに答える。
「……考えていた以上に滞在が延びそうだからな。いつまでも小遣いをもらっている訳にもいかないだろう」
そう言って左の腕────中身のなくなった羽織の袖を弄ぶ。
まだ重心の変化に身体が慣れず、歩いているとふらつきが出て何度も転ぶ。
満足に剣を振れるまで勘を戻すのも、気の長い話になりそうだ。
「まだしばらく世話になる。覚悟しておけ、面倒を山のように押し付けるぞ」
「ふふ! それは退屈しないで済みそうですね~?」
いたずらっぽく見上げるスヤンに、エピは栗色の長髪を揺らして、嬉しそうに立ち直る。
「それではもう一度、改めまして!」
差し出された手のひらに、スヤンは頷き、一歩踏み出した。
ベレタ村にようこそ。
ここにいると、きっと明日の自分が楽しみになる。
うまくいっても、うまくいかなくても。
スローライフ。それが、人生。
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