30 花様年華
薄鈍に艶めく、銀色の金属鞘。
握り締めれば、仄かな冷たさが沁み入ってくる。
「────ドゥルシネーア」
自らを奮い立たせるようにシャオが名を呼ぶが、当然、剣はスヤンの刀と違い何の返事も寄越さない。
正式な銘を、無頼工房・戯作:世に比類なく理想的な貴婦人に捧ぐ七詩篇。
執念深い設計の上に組み立てられた機械剣は、絡繰仕掛けの変形機構によって七つの形態に入れ替わる。
赤蹄騎士団から救援要請が来たとき、偶然、話を聞いていた工房の店番が持たせてくれた。
無頼工房は、繊細な意匠に反して劣悪な環境や長期戦に耐え得る堅固な性能で知られる武器工房だ。
顔、名、出身、あらゆる正体を表に出さない気難しい天才技術者が集まるこの工房は、一切の魔術を必要としない製品を作ることを至上の命題としている。
経済的に、魔術式を取り入れた武器を所有できないシャオにはぴったりの品だ。
戯作と称する通りの手遊び、世に出回る予定のなかった剣をシャオが譲ってもらった条件は三つ。
修理、調整は必ず無頼工房に依頼すること。
使用した所感、改善案を定期的に書面で提出すること。
そして必ず、この歪曲災害に打ち克つことだ。
***
シャオが踏み込み、スヤンは目の前に現れた小蝿を払おうと一刀を振るう。
また千切れ、混濁した記憶がスヤンの太刀筋を鈍らせる。
追い、縋るように聞き馴染みのある声がする。
────うちはむさ苦しい男所帯ですよ、子どもの面倒を見るなんて無理ですって!
────特に女の子は、何かとお金もかけてやらなきゃならないんですから……。
記憶の中、顔に傷のついた青年がぺしぺしと床を叩いて文句を言う。
スヤンはその夢幻に朦朧として頷いた。
《そうか》
────そうか……って、拾ってきたのは頭目じゃないですかあ!
すると、イェリンが見かねたように口を挟む。
────まあまあ、俺が何とかするよ。
────副頭……。
────なんたって、スヤンをここまで育てたのは俺だしな? もう一人くらい、きっと平気だろ。
────え? だから心配なんですけど……。
こういう風に、イェリンは出来もしないのに安請け合いをするきらいがあった。
それで最後にスヤンが何とかしなければならない事態に陥ることもしばしばあったが、イェリンの実力に見合わない自信を悪いものだとは誰も思っていなかった。
スヤンがはっきり言わないことで、皆から不満が出そうになったとき。部下に詰められ、スヤンが答えに困っているとき。
イェリンは必ず傍にいて、うまく行くよう助けてくれた。
────大丈夫、大丈夫だって! それに……
────あの子がいると、スヤンが楽しそうだ!
イェリンの言葉に、青年は呆れかえってしまった。
結局彼は最後まで、シャオを睡花会に置くことには反対していたはずだ。しかしその分、育てると決まってからは、誰よりも真剣に彼女へ武道を教えた。
臆病なところがあって殺し合いの緊張にはめっぽう弱かったが、心は気高く、居合が得意で、剣を抜くことの意味をよく知っていた。
イェリンも、彼も、今はいない。
《……しい》
傘の中の瞳がぐるぐる揺らぐ。
大粒の涙が、雨垂れとなって滴り落ちて、また花を濡らしていく。
《苦しい…………》
あの夜には、死体の数を数える時間もなかった。
誰が死んで、誰が逃げられたか。
ある意味では希望的な観測だが、ある意味では最悪の事態を否定しない。
月と星とが沈み、まもなく身を焼く朝日が昇ることを分かっていても、短く途絶えた糸に縋って、一人、いつまでも空の中途で回っている。
《どこに行ったんだ、俺の、小さな……たった一つ、残った……》
血に染まり、切り刻まれた、記憶の中の古屋敷を彷徨い、あるはずもないものを探している。
スヤンは呻き、蹲った。
翼に枝垂れる海棠の羽根が、震え、細波打ち、致命的な攻撃を予感させる。
「!」
シャオが咄嗟に飛び退こうとした瞬間、鉄砲水めいて花弁と泥血の入り混じった暴雨に飲み込まれる。
「シャオさん!」
「……っ問題、ありません!」
ドゥルシネーア第三変形【盾】。
展開した鞘が墓標のごとき盾となり、凶悪な濁流を完璧に防ぐ。
血を振り払い、シャオは再び歪みと相見える。
大技の反動で僅かに隙が見えた。
「すみません、頭目!」
ドゥルシネーア第五変形【槍】。
使い慣れた武器ではないが、余計な枝を払うには十分だ。
空中一閃、左翼の根を断つ。
間髪入れず、ついた膝で体勢を立て直す。
ドゥルシネーア第二変形【弓】。
最大に引き絞った矢が、一条の流星となって怪鳥の右肩に放たれる。
しかし、不怯。
怪鳥の脚が地を抉り抜く。
スヤンは声一つ上げず、明天を閃かせた。
何もおかしなことはない。人であった頃ですら、彼は痛みに怯むことはなかったのだから。
予想外の反撃に、シャオは離脱が間に合わない。
エピ、ルセロも割って入れる位置になかった。
振り下ろされる殺人剣を、シャオは目を逸らすことなく真正面から睨みつける。
距離、一寸。
鈍ら刀がシャオの額を砕く直前だ。
スヤンの手が不自然に止まった。
《…………明天》
スヤンは低く唸るように吐き出した。
《それがお前の、忠義のつもりか?》
見下ろした腕が強く震え、奇妙な反発力によってそれ以上振り下ろすことができない。
スヤンの言葉には、先ほどまでの錯乱した気配はなく、その目は明らかに正気を取り戻しつつあった。
しかし、だからこそ、彼の声色は怒りに満ち、苛立ちを顕にしていく。
《どうして誰も彼も俺に構う》
────どうした? スヤン。
《呼ぶな》
────今日のは痛そうですね。手当てしましょう。
《触るな》
────君がいる限り、私の夢は終わらないんだ。
《……期待、するな!》
スヤンは絶叫し、明天を手放した。
身を屈め、羽を拡げ、暴れ狂って花を潰す。
《ああ、クソ! 何なんだこの糸は………!》
無数の細糸が彼の羽を、足爪を縫い付ける。
《そんなに俺が恨めしいか!》
スヤンにはそれが、地獄の底から伸びて裾を掴む、死んだ者たちの手のようにしか見えなかった。
《憎いのか。期待外れの俺が、弱いお前らを守れなかった俺が……っ》
「頭目……!」
《だから、翼を奪うのか? 二度と飛べないように、縛るのか……》
それはあまりに弱々しく、戸惑うような声だった。
シャオは、初めて彼の心の底からの感情を聞いたように思えた。
「違いますよ」
刃を下げ、怪物の前に立ち尽くす。
「どうか、よく見てください。その細い糸たちは、あなたがこれ以上誰も傷つけないよう……傷つかないよう、止めているんじゃありませんか……」
飛べもしないのに飛ぼうとする度、糸はどんどん絡まっていくが、それ以上締め付けはしない。
ただ、柔らかく、温かな巣のようにスヤンを包んでいる。
あなたはあなたが思うほど悪い人間じゃない。
シャオは眉を下げて言った。
またちらつく、いつかの日、二人で近所の菓子屋に出かけたときの記憶。
────旦那、あんたんとこのシャオちゃんは学校には行かないのかい。
《学……校?》
────今どきは女の子だって学校に通わせてやるもんだよ。友だちもできるし、読み書き算盤くらいできたほうがいいと思わないかい?
《それは……分からない》
────分からないってねえ……自分の子どものことだろう。
《俺も行ったことがない。学校とは何をする場所だ》
────あ……そりゃ失敬。
帰り道、スヤンは傘を傾げて考えた。
シャオを学校に通わせる。
そうするのが普通なのだろうか。
もし、それをしなかったら、シャオもいつか今日の自分のように、誰かに馬鹿にされることがあるだろうか。
寝る前に、最も信頼できる男の元へ行った。
《イェリン、シャオを学校とやらに行かせるにはどうしたらいい?》
────行かせる、ったって……道具や謝礼はどうするんだ。今月もあいつらの食費で精一杯で……
《それならまあ、もう二、三人斬ってくれば足りるだろう。先生に仕事がないか聞いてみる》
それで先生がまとまった金を出してくれることになって、何人かの寿命は少し延びた。
結局、学校にはあまり馴染めず、数年もしないで辞めてしまったけれど、お陰でシャオは今でも人並みには読み書きができる。
「不安でも、分からなくても、あなたは必死に応えてくれるのを知っているから、皆があなたを慕ったんです」
どうしようもないくらい不器用で、どうしようもないくらい目が離せない。
精一杯頑張っているから、同じくらい応えたい。
《勝手なことを言うな》
スヤンは傘の奥で歯を軋ませ翼をもたげ、シャオはドゥルシネーア────第五変形【槍】を構える。
最後の仕合が、始まった。
スヤンは呻く。
《面倒だった》
弾く。
《もう疲れた》
打ち合う。
《何も、考えたくなかったのに》
鍔迫り合う。
《一人にしてくれ》
スヤンの攻撃には今や何の気力もなく、ただ、力任せの投げやりな行動が続く。
それにも油断せず、シャオはひたすらに攻め入る。
「それがあなたの幸せであれば私はきっとそうしたでしょうね」
《俺にまだ苦しめと言うのか》
「頭目はご自分の心を見失っておいでです」
糸が切れる度、スヤンの中に蘇るものがある。
何度途切れても、糸はまた結ばれる。
だから何度でも、思い出せる。
「あなたが本当に辛かったことは、何でしたか」
ドゥルシネーア第一変形【剣】。
初歩にして、基本。
勇敢なる騎士は、これを手にすべての苦難へ挑むのだ。
「かつて私に、本当の幸せを見失うなと仰ったのはあなたですよ、スヤン頭目」
一刀、両断。
シャオが右の翼を断ち切ると共に、最後の記憶がはらりと解ける。
────ダァーッ!! おいてめえ! 野菜も食えって言ってんだろ!
────イヤッ! イヤー!! シャオは青虫じゃありません!
────チックショ……頭目! 頭目も何か言ってやってください!
それで、自分は、何と言ったか。
《シャオ》
その場に座り込み、スヤンは答えた。
尾羽を揺らすと、花がまた散った。
《嫌でも食べないと大きくなれない。俺より大きくなるんだろう》
「はい。だから私は、食事のあとに尋ねましたね」
────頭目にも嫌なことがありますか?
《…………たくさん、ある》
もう一度、繰り返す。
《それでも、やらなきゃいけないのは》
俯いたスヤンの身体を、シャオが受け止め、抱き締める。今度は優しく、温かく。
《そうして初めて幸せが、色鮮やかに残るからだ。得られることが当たり前に変わったとき、その一瞬は色褪せる》
金も、水も、食い物も、果ては生ですら、普遍的になった瞬間、人はその価値を見失う。
《毎日魚を食べていたら、いつか魚を食べられることを幸せだと思わなくなる。雨があるから空の青さに憧れて、晴れがあるから雨の匂いを懐かしむ》
だから、嫌なことにも向き合っていく。
挑み、克服し、よりよい自分に変わっていく。
間違えて、後悔して、やり直せなくて、それでも生きていく。
《俺は……》
泣きたくなるほど暖かい。
シャオの腕の中で、スヤンは目を閉じて呟いた。
《煩わしいのも、騒がしいのもまったく好きじゃなかったが」
今となっては遠い記憶、あの海棠の花が咲く五月の庭を、きっと、いつまでも思い出す。
「それでも眺めることをやめられないくらい、皆が、眩しくて────愛おしかったんだ…………」




