28 濡れ、羽搏けぬスヤン
何時間そうしていただろう。
明かりもつけないまま、スヤンは苛立ちを隠すように、目を閉じて椅子に腰かけていた。
突然、静寂が破られた。来客のようだ。
小さなノックの音に、スヤンは身じろぎもせず言葉を投げかけた。
「エピか? 悪いが、やはり俺は……」
しかし、音は止まなかった。
スヤンは目を開けた。
シャオやストラスではない。彼女たちは合鍵を持っている。
ラディアンテスか? それならもっと騒がしいだろう。
スヤンは叩かれ続ける戸の前に立ち、問うた。
「……誰だ?」
まだ音は止まない。
しかし、返事もなかった。
ただ、無機質な固い叩打音だけが繰り返される。
夜間に客を入れるな。ストラスにもルセロにも何度も言い聞かせられたことだ。
それでスヤンが思い出したのは、いつかの晩に出会った彼女のことだった。
「……ディエゴ?」
期待を込めて名前を呼んだ。
ひたり、と音が止まった。
スヤンは忠告も忘れ、扉を開けた。
外は満天の星空だった。
そこにいたのは、あの青い服の騎士ではなかった。
戸に立てかけられていた、棒状の何かが倒れ込む。
「明天?」
スヤンが呼ぶと、微かに鞘が震えて見えた。
戸口に転がる白い革鞘を拾い、スヤンは首を傾げる。
その項に、甘い吐息がかけられた。
「ね、いま、一人?」
返事の代わりに鯉口を切った。
踏鳴、零秒。振り返り様、微かに見えた細首めがけて重横断を放つ。
しかし、手応えがない。
目を細めたスヤンは、振り抜いた刀身の異変に気付く。
「溶け……」
ぐにゃり、と鈍色が垂れ落ちる。
熱に耐えられず、重力に抗えず、その身を崩していくように。
否、溶けていくのは明天ばかりでない。
身の丈ほどもある杖を携えた、気味の悪い少女を中心に、部屋のすべてが焼いた酪のように歪んでいく。
交じり合うことなく垂れ流れる空間の中、少女だけが作り物めいて実体を持っていた。
戸は開けたが、外には誰もいなかったはずだった。
この女がどうやって中に這入り込んだか、さっぱり見当がつかない。
流石のスヤンも肝を潰し、無意識に後ずさる。
背にした扉は開けたままだった。外に出なければならない。一刻も早く、この歪曲された部屋から離れるべきだ。
しかし、もう一歩下がろうとした踵すらも崩れ始めた床に呑まれ、動けなくなる。
虎挟みにかかった獣のように這いつくばるスヤンの前に少女が立つ。
二つに結んで下げた長い金髪がさらりと揺れた。
「君にはお友だちがたくさんいるみたいだね。それに……あの子と会ったことがあるのかな。でも、今は一人」
少女は噛み締めるように繰り返した。
可憐な白い装いの胸元には、壊れて歪んだ金の時計が首飾りのように掛けられている。
「ダリって呼んで。二度と間違えないでね」
虹色を纏う瞳が一段と輝いて、その光には怖れすら抱いてしまう。
スヤンは拘束を解こうと力を込めながら、時間稼ぎに口を開いた。
「お前は、あの人の……知り合いか?」
ダリは鏡の騎士────ディエゴの名前に反応した。
正体を知るための手がかりになればとあえて踏み込んでみる。
すると、ダリは飾り布のついた杖を強く握り締め、眉間を寄せた。
「理性。私は嫌い。外見ばかり取り繕って、本当の熱を覆い隠して、自分で自分の可能性を閉ざしてしまうから。どうして好き勝手に生きないの? したいことだけしたらいいのに!」
ダリの言葉の間にもスヤンは脱出を図るが、右足が足首まで床に呑み込まれて逃げ出せない。
一度、斬り落としてしまおうかとも思ったが、欠損した身体で村の人家まで辿り着ける自信がない。
スヤンは意を決して顔を上げた。
「何をしに来た?」
ダリは答えた。
「私、みんなを幸せにしてあげたいの。この不思議な力で、みんなの願いを叶えてあげられるんだよ」
直感が危険を告げている。
スヤンは歪んだ明天の柄を握り直し、少女を見据えた。
「……俺は望みを抱いたことはない」
しかしダリは不思議そうに首を傾げ、スヤンに一歩近づく。
「嘘だね。忘れてるつもり? 覗いてあげようか」
「やめろ」
「玉ねぎの皮を剥いていけばいつか答えが出てくるの」
「離せ」
引き攣った顔でスヤンは叫ぶ。
陶器のような指が彼の頬に触れる。
記憶がめくられていく感覚は吐き気に似ていた。
「そっか、君は……」
「嫌だ、聞きたくない────」
それは、自分では気づかない振りをしてきたことで。
あまりにも取り返しのつかない、向き合うことすらできない真実だ。
「ずっと一人になりたかったんだ!」
本当の罪の記憶が甦る。
池の腐臭。はらわたの白。降り出した雨の匂い。散る花、死体の山。
地獄の中で初めに抱いた、幼い喜び。
スヤンは仲間の遺体を前に、ほっとしていた。
ようやく、自由になれたのだと。
自分を慕い、慈しむ人々がいなくなったことを、心の片隅で喜んでいた。
茫然と動かなくなったスヤンの顎を、ダリがそっと掻き上げた。
青白く汗ばんだ額に、桜色の唇を落とす。
「それが君の渇望なら、私が毛皮を被せてあげる」
目が眩む。地を這う鐘の音、不気味な振動が、スヤンのすべてを歪曲していく。
身体がぐずぐずに溶け、作り直される激痛に転がりのたうつ。
いつの間にか、部屋も明天も元通りになっていた。
否、おかしかったのは部屋ではなく端から自分の視界だけだったのだと悟った。
「ふ、ゔ……」
無限にも思える苦しみの後、ようやく、スヤンは熱が引くような快感に身を震わせた。
明天が震え、鍔を鳴らす。
手を伸ばそうとすると、乾いた羽毛が掠れる微かな音がした。
「綺麗。それが君の本当の姿なんだね」
ダリがそう言った。
「君の美しさはどうしようもなく人を惹きつけてしまうけど、君にとっては好意も、敵意も、信頼も、嫉妬も、等しく苦痛でしかない」
どろどろと血が滴り落ちる。
とめどなく溢れる瘀血が林檎にも似た淡い花の翼を穢し、鈍重に塗り替えていく。
「繋がれた赤い糸に皮と肉とが千切れて、擦り減って、ゆっくり弱って死んでいく。生きるべき場所、生きるべき時間から引き離された可哀想な生きもの」
絢爛に花の乱れ咲く羽翼はあまりに大きく、地上にあっては羽ばたくこともできない。
そもそも、その鱗と蹴爪のついた両足は、空を飛ぶ鳥のものではないのだろう。
「飛び立てば助かるのに、君にあるのは飛べない羽だったんだね」
スヤンは是も非も答えない。
顔まで覆う赤い傘。朽ちかけ、穴の開いた奥底に、怯えた金色の目が覗くばかりだった。
「憎くて堪らなかったでしょ。弱くて、鬱陶しい人たち。その癖、自分にはない風切羽根を見せびらかすみたいに空を飛んでいく彼らは」
雨が降り始める。雲もない夜の天気雨。血の雨だ。
しとどに濡れゆく身体で地に伏せて、スヤンは羽に埋もれる手で明天を掴む。
「違う、俺は、それでも……」
喘鳴するスヤンを、ダリはつまらなさそうに見下ろした。
「やっぱり、またあの子に邪魔されたな」
歪曲したスヤンの身体を、赤い糸が縫い留める。
飛び立とうと這いずって暴れる度に、糸が絡まっては千切れていく。
濡れた羽をばたつかせては、辺りに澱んだ赤色が撒き散らされて、晩春の草むらを悍ましく染め上げていった。
ダリは心から憐れむようにスヤンの身体を撫でた。
「苦しいよね。大丈夫。暴れていれば、いつか鎖は壊れるの。全部壊して、君の願いを叶えよう」
遠くに野営の灯りがちらつく。
どこかで花火の音がした。
少女の柔らかい声が脳に染み入る。
「そのほうがずっと楽しくて、きっと幸せになれるよ」
真っ赤な傘の隙間から、今にも泣きそうな声がした。




