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25 虫の命が絶えるとき

 シャオたちが家に帰ると、戸の横でレイユンが寝ぼけた様子で出迎えてくれる。


 静まり返った室内に、余燼の弾ける音が響いていた。

 レイユンはシャオを見上げて尾を振ると、舌をはみ出させたまま再び眠りに落ちていった。


「もうお眠りなさい。あれは私が見ておくから」


 ストラスが外套を脱ぎながらそう言うので、シャオは言葉に甘えることにした。

 心配に思う気持ちもあるが、今は自分(こども)が行かないほうがいいような気がしていた。


 瞼を擦りながらロフトに上がっていくシャオを見送り、ストラスは奥の廊下へ歩を進める。


 最奥の厩舎でコラソンが不安げに鼻を震わせる気配がした。

 ノックするまでもなく鍵を【引力(アトラクション)】で開け、中に押し入る。


 病人の匂いがする。

 眼下、部屋の主の姿を認め、ストラスは溜息混じりに皮肉った。


「ああ、元気なようで何よりだ」


 肩を大きく上下させて、荒い息が返ってくる。

 スヤンは寝台に縋りつくようにへたり込んで、じっとりと疲労の滲んだ視線でストラスを睨めつけた。

 汗か、涙か、胃液なのか、シーツをぐっしょりと濡らし、悪心に眉根を寄せる。


 ストラスは、本能がくすぐられるのを抑えて歩み寄る。

 腕を引いて立ち上がらせると、随分と弱っているようで、スヤンは素直に従った。


「シーツを替えてやろうね。椅子に座って、水は飲めるかい」


 椅子に座らせ、冷たい水を一杯、飲ませてやると顔色が僅かに和らぐ。

 しかしまだ気分が悪いのか、背中を丸めて、スヤンはぽつりと口を開いた。


「……シャオは」

「あの子は大丈夫さ。気になるならまた明日、ちゃんと謝ったらいい」


 ストラスはシーツを洗濯かごに詰めながら、何でもないかのように答えた。

 窓を開け、夜風を通す。

 火照った頬が冷まされて心地好いのか、スヤンはじっと目を伏せ黙っていた。


「水飴は好んで食べると聞いていたがね」

「…………」


 寝台の仕度をしながらストラスは軽口を叩く。

 気難しいスヤンに明快な返事を期待していた訳ではなかったが、意外にもきちんとした答えが返ってきた。


「……別に、好きじゃない」


 背もたれに背を預けるようにして、スヤンは腕を組む。


「甘いばかりで、食べづらいし、あちこちべたべたして気持ち悪い。……でも」

「でも?」

「一人殺すと、先生(・・)がご褒美にくれた。舐めていると、難しいことを考えなくてよくなった」


 ストラスは僅かに手を止め、スヤンのほうへ振り返った。


「ただの習慣だ」


 そう言った彼の口元には嘲るような微笑が浮かんでいて、いつになく、感情が昂っているらしいことが分かった。

 ストラスは、また水差しを手に取った。


「まだ眠れやしないだろう。もう少しお前の話を聞いてみたいものだが」

「……構わない」


 ストラスの望みにスヤンは少しだけ躊躇ったが、程なくしてゆったりと語り始めた。


「先生には大恩がある」


 第一に、スヤンはそう断じた。

 何から語ればいいのか迷ったが、自分の心を打ち明けるよりも、まずは事実を述べたほうが、自分でも話しやすいように思われた。


「俺を……育てたのは、貧しい官人だ。まったく、褒められたことじゃない。俺を拾ったせいで出世にも障りが出て、共倒れになるのは火を見るより明らかだった。そんな折、俺たちを召し抱えてくださったのが先生だ」


 都は仁を失って久しく、政の腐敗した臭いが水路を辿って北方三山まで届くとさえ言われていた時代のことだ。

 そのような中、智に秀で、徳に優れると評判の若い参議が、二人を見止めて拾い上げてくれたのだ。彼は落ちぶれた国家を改革しようと、見込みのある若者を集めては自ら学問を説いていた。


「先生の仰ることは俺には少し難しかったが、国と民のことを心から思っている、志のある人だった」


 初め、スヤンは、街道に出る野党や逃げた重罪人を捕まえることが仕事だった。

 ゆくゆくは武官にでも取り立ててもらえれば幸いだと養父が言うので、スヤンもそのようにするつもりだった。


「ある日のことだ。先生に呼ばれて、庭に出ると(むしろ)に人が座っていた」


 それは罪人のようで、顔には薄い布をかけられ、(くつわ)を食み、後ろ手に縛られて俯いていた。


 何だろうと思って眺めていると、罪人はスヤンのほうを見て呻き出す。

 流石に恐ろしくなって尻込みするスヤンに、先生は白い革鞘の刀を一本手渡した。


────お前が頸を刎ねなさい。


 そのとき、スヤンはまだ人を殺めたことがなかった。

 そう言ったはずだが、だからだ、と返された。


 罪人はそんな会話を聞いて、一層唸り声を強めた。その勢いと言ったら、今に轡を噛み切ってしまうのではないかと思うほどだった。


 気圧され、スヤンが鯉口を切った瞬間だ。

 罪人は地の底から響くような絶叫を上げ、縄を千切って先生に跳びかかった。


「驚いて、俺は咄嗟に斬り捨てた」


 俺を褒める先生の顔を今でもよく覚えている、とスヤンは言ったが、それが彼の選択を肯定する言葉なのか、ストラスには判別がつかなかった。


 ストラスがそう判断するに足りるほど、はっきりと滲み始めた自嘲の響きに、スヤンは自らも気づいているのか、いないのか、それとも気づかないようにしているのかもしれなかった。


「それからというもの、俺の仕事は変わった」


 民を守るためではなく、先生を守るために剣を振るうようになった。


 陰謀術数の渦巻く宮廷で改革を進めるのは生半可な道ではない。

 どの参議も自身の勢家を持ち、夜闇に紛れて殺し合う。


 気づけばスヤンも、晴天を仰ぐより、月下を歩く時間のほうが長くなっていた。


「先生には敵が多い。政敵、間者、敵方の暗殺者。斬らねばならない人間はたくさんいた」


 そこでスヤンは言葉を止め、何か言いたげに指を重ねて遊ばせた。


 数秒か、数分か。

 奇妙な間を置いて、スヤンはとうとう口を開いた。


「ストラス、お前は人を殺すことを愉しむか」


 見様によっては、この上なく礼を欠いた問いかけではあったが、ストラスは至って真面目に言葉を交わした。


「いいや、まったく。狩りを命じられれば心躍るが、獲物が呆気なく息絶えようものなら、かえってがっかりするものだ」

「そうか」


 スヤンは満足そうに頷くと、初めてくすりと笑って言った。


「俺はな、楽しかった」


 興奮しているのか、瞳の金色が色濃く煌めく。

 スヤンは繰り返し唇を小さく舐めて、何かを思い返すように考え込んでいた。


「そうだな……蜚蠊を知っているか」

「ヒレン?」

「何というか……いるだろう、家につく虫なんだが……皆が(こぞ)って嫌っている……」

「ああ……あれか」


 合点が行ったストラスが声を漏らすと、スヤンは会心の手ごたえでもあったように繰り返し頷いた。


「あれを殺したときの高揚感が一番近いな」


 どういう意味かとストラスが問うと、スヤンはまたよく喋った。


「シャオはな、迷い込んだ蜘蛛(くも)を逃がす。イェリン……副頭は、青菜についた芋虫を庭に放す。鈴虫を飼うことが睡花会で流行ったこともある」


 ストラスは驚き、僅かに眉を上げた。

 シャオが「どうでもよかったのだろう」と評した日々を、スヤンはとてもよく記憶し、嬉しそうに話した。


「だから大抵の虫には、殺すと聞くと躊躇を覚える部分がある。それが、蜚蠊にはない」


 殺す理由がある虫。殺すと喜ぶ人がいる虫。殺しても咎める人がいない虫。

 人間も同じだ。何の非もない人間を手にかければ、誰だって心がちくちくするだろう。


 しかしそれが、万人に死を望まれた人間だったらどうだろうか。

 憎くて仕方ない、復讐しなければ気の済まない相手ならどうだろう。


 その手足の痙攣が止み、息絶えたことを実感したとき、湧き上がる感動と甘く痺れる達成感の中に、後悔の余地はあるだろうか?


「殺していいと確信した相手を殺すのは、耐え難いほどの快楽なんだ」


 満たされた英雄願望に、ほんの少しの背徳感を乗せると、眩暈がするほど舌触りがいい。


「だから先生の言う通りにした。そういう話だ」


 そう言うと、スヤンは満足したらしく、またいつも通り、静かに顎を引いて黙り込んだ。


 この支離滅裂な主張が、好かない水飴を食べる理由になっていると思う人間はそう多くないだろうな、とストラスは内心で呆れた。


 この話を聞かせれば、百人中九十九人がこの男の望む通り(・・・・・・・・)、彼を異常者と認識し、この世から排除することを選ぶだろう。


 だが、これで今日の出来事についてはおおよそ見当がつこうというものだ。

 ストラスは、台所から持ってきたもう一つの水飴を彼の目の前に置いた。


「成程、お前にとって血肉は甘露なのだろう。強く結びつけられているからこそ、お前はその味を思い出すのを躊躇った」


 スヤンは(がえ)んじるように視線を泳がせる。

 その手を取り、ストラスは言った。


「だが、興味深い矛盾だ。お前は褒美を『好きじゃなかった』と言った。すると、人を斬ることもまた同じく、お前の好まないものであるべきだっただろうに」


 白い痩せた手に箸を握らせ、水飴をそっと押しやる。


「確かめてみるかい? きっと、お前が恐れているようなことは起こらないさ」


 反論はなかった。

 それでもなお、スヤンは踏ん切りがつかないらしく、腹も減っているだろうに、容器の中でとろとろと流れる水飴を眺めるばかりだった。


 だからストラスは容器の口を指差し、くるくると円を描いて示してみせた。


「あの子は魔法を知っていたよ。この棒で練ってみるといい」

「…………」


 スヤンは、怪訝そうな顔で箸を握り直した。

 見よう見まねで練り上げる。澄んだ蜜のようだった水飴が、いつしか気泡で淡く色づき、ふっくらと丸い塊になって現れた。


 目を丸くする。

 思わず、といった風に小さく齧りついた。


 鈴を転がしたような笑い声が、夜更けの風に混じって消えた。


「なんだ」


 スヤンは机に俯せて呟いた。


「全然、甘くないな」

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