24 傷つきながら生きること
声の震えを押し殺すように、シャオが言った。
「……お口に合いませんでしたか?」
器を取り落とし、口元を押さえたまま、スヤンは否定の言葉を口にしようとして、その度に嗚咽に遮られた。息が吸えなくて、ぞっとした。
とんでもないことをしたと思った次の瞬間には、それすらもう覚えていられなかった。
もう片方の手で探るように机を掴む。視界は暗く歪んで、踏み出すべき先も分からなかった。
「いや……もう、部屋に戻る」
ふらふらと立ち上がったスヤンは、短い文節ばかりを絞り出して踵を返す。
惨めな姿を見られたくなかった。
ただ、一人で横になり、苦痛が過ぎるのを待ちたかった。
しかし、いつになく力がないその声に、ただならぬ異変を感じ、シャオが追い縋る。
「大丈夫ですか、顔色が……」
途端、癇が立ったかのように、スヤンはその手を弾いた。
「構うな!」
「……っ!」
びくり、と震えてシャオが引き下がる。
振り返ったスヤンは、僅かに瞳孔を縮め、どこか怯えた顔をして、しかし何も言わず足早に自室へと消えていった。
その背中があまりにも小さく見えて、シャオは行き場を失った手で宙を掻く。
「何で、あなたがそんな顔をするんですか……」
シャオは喘ぐように呟くと、堪らず外へ出ていった。
外はもう陽が落ちて、ぬるんだ風が吹き込んだ。
「やれやれ。手がかかるというべきかね、それとも、ようやく動き出したというべきかね」
この騒ぎの中、一切を意に介さず静観していたストラスは、カップに残る最後の一滴までを飲み干して、ようやくゆらりと立ち上がった。
***
ストラスが外套を羽織って表に出ると、シャオは庭の裏手の川辺で一人座り込んでいた。
「悪い子だね。こんな月の綺麗な真夜中に、一人で外にいるなんて」
ランタン代わりにぼんやり光る鳥籠を掲げて見せると、シャオは顔も上げずに答えた。
「……兄上のほうへ行くかと思ってました」
「ハ、あれは少し放っておいたほうがいい。私たちが帰る頃には多少落ち着いているだろう」
夜露を払い、ストラスは少女の隣に腰かける。そっとハンカチーフを差し出してやると、シャオは小さく礼を述べた。
「……すみません。ちょっと、びっくりして。あんな風に声を荒げられたのは、初めてだったので」
「へえ? それはそれは、あのぼんくらが、随分と大切にしてきたものだ」
ストラスが、からかうようにそう言うと、シャオは微かに笑って首を振った。
「それはどうでしょうか。あの人は何もかも、どうでもよかったんだと思います。ずっと……少なくとも、ここに来るまでは」
「どうしてそう思う?」
「この村に留まって、あの人の見たことがない姿を見る度、元気になっていくのを確かめる度、嬉しくなる自分と、恐ろしくなる自分がいるんです」
この数週間、スヤンが見せる姿は、どれもシャオの記憶の中のものとは違っていた。
古屋敷の日当たりのよい部屋で、隠れるように眠ってばかりいたのが、今や誰より早く起き、誰より早く床に就く。
誰に何を言われても頷くばかりで意見を言ったところは見たことがなかったが、近頃は自分からよく喋るようになった。
血溜まりを踏みつけ、興奮で爛々と目を輝かせ、鍔を鳴らすスヤンはもうどこにもいない。
「あれが頭目の、本当にあるべき姿だったとしたら──────」
ずっと自分たちがスヤンだと思っていたものは誰かに歪められた鏡像でしかなくて。
本当はお喋りで、人懐こくて、平穏に暮らすほうが楽しくて。
古屋敷で、剣を握って生きることすら、彼にとっては『向いてない』ことだったとしたら。
シャオは膝の上で拳を握り、ぽつりと呟いた。
「私たちは、とても、酷いことをしていたんじゃないかと思いました」
ストラスはそれを否定も肯定もしなかった。
穏やかに見つめ、耳を傾けた。
「ストラス」
それは、これまでと打って変わった、力強い声だった。
川のどこかで小魚が跳ねる。
雲一つない夜空に浮かぶ、青白い月の眼差しに鼻先を照らされて、シャオはストラスの彩度のない目を見つめ返した。
「知っているなら、教えてください。星の使者とは……歪曲災害とは、いったい何なんですか」
「…………」
「そいつらは、また私の前から、頭目を奪おうとしますか」
ストラスはしばらく穏やかに微笑んだまま、黙り込んでいた。
それから、決心したかのように目を伏せると、これは私の解釈に過ぎないが、と前置きをして話し始めた。
「……人は」
ストラスは少し躊躇って、言葉を選ぶように続けた。
「人は誰しも心の中に獣を潜ませる。それはお前たちが、欲や願いと呼ぶものだ」
それは人間が生きるのに無くてはならないものでもあり、理性によって正しく手綱を握れば、とても大きな善の力を生むものでもあった。
「だが、獣が肥大し、身に余ると、いつしか人の肌を食い破って表に出てくる。それが歪みだ」
故に、原初、歪みは人からのみ生まれる存在だった。
最初から獣として全力を尽くす動物には、意味がない理屈だったからだ。
「歪曲災害とは言い得て妙だ。星の使者はその者自身でさえ気づかぬほど小さな願いを引き延ばし、捻じ曲げ、無理やり表出させるのだろう」
巷では、忌々しい異神の存在を伝える人々を『星の使者』だというが、そうではない。
魔術協会は知っている。
彼らは端から、人間ではないのだ。
「私がストラスになったときのことだが」
先代の第三十六趾が死んだとき、次のストラスに選ばれた少女がいた。
鎖と羽の擦れる音だけが響く地下牢で、少女はたった一つの、無限で、大きく、小さな影と向かい合った。
影は囁いた。
────愛し子、お前の夢を答えなさい。お前はどんな姿になりたい?
少女は鳥籠を抱え、答えた。
『私は────■■■■■■■になりたいです』
────そうか、そうか。それでは……。
願いを叶えてやろうと影は言い、少女の胸を通り抜け、彼女の周りを三度回って、鳥籠に入った。以来、少女は趾になった。
「私は、私がそのとき何と言ったか、今となっては思い出せない」
夢を食べられてしまったからだ、とストラスは言った。
「私が私である限り、きっとその願いは叶えられている。だが、自分を構成する要素のどれをとっても私にはぴんと来ない」
お金持ちになりたかったのだろうか。
偉大な魔術師になりたかったのだろうか。
まさか、永遠の若さが欲しかったのだろうか。
確かなのは、そのどれもが、今のストラスにとっては無価値な、何の感慨もないものだということだ。
「故に私が、星に魅入られることはないだろう。星と目が合うのは、星を見上げる者だけだからだ」
そのようにして、魔術協会を止まり木にする七十二羽の趾たちは、星の使者を狩るべく永遠に彷徨い続けなければならない。魔術規制違反者を捕らえることなど、つかの間の菓子時のようなものでしかないのだ。
「夢が叶ったと気づくことはなく、二度と新たな夢を持つこともできず。そんな自分に向ける憐憫さえ失い、空っぽなままに獲物を屠り続けるのだろう」
「……」
「こういう存在に、心当たりがあるんじゃないかね」
「……兄上の、ことですか」
シャオが苦々しげに言うと、ストラスは満足そうに頷いた。
「そうだ。かつてのスヤンであれば、歪む資格など無かっただろう。だが……」
月も落ち始め、いよいよ夜は更けていく。
帰ろう、とストラスは少女に手を差し伸べた。
「シャオ。お前が、あれの心に芽生えた蕾を慈しみ、育もうというのであれば。……付く虫にはよくよく気を払うことだ」




