23 性質の移り変わること
じっとりと湿った手のひらを眺めて、シャオは黙り込んでしまった。
いつの間にか、過去の想起に引きずり込まれていた。
途端、急かすようなラディアンテスのからからとした声が、シャオをイザリアの陽の下に引き戻す。
「んで、その水飴っちゅうのはすぐに作れるもんなんか?」
我に返ったシャオは足元の麻袋に目を落とし、慌てて答えた。
「はい。麦芽がここにありますし……あとはそうですね、芋を使いましょうか」
丁度、ルセロの放牧の手伝いをした礼で芋の箱を幾つか貰ったところだ。
材料は揃っている。道具も特別なものは必要ない。今から作ることは充分に可能だ。
「よおし、ワシ直々に拵えた水飴、これでもう断るとは言わせんわ、スヤン!」
手拭いを額に巻いて、ラディアンテスは腕をまくる。
そんな彼の目の前に、シャオは芋が山のように積まれた籠を置いた。
「すりおろしてください」
固まるラディアンテスに、小さなおろし金を一つ、握らせる。ラディアンテスはつぶらな瞳でシャオを見つめた。
「全部?」
「全員分となるとそれなりの量が必要なんです」
背中を丸めて芋をすり始めたラディアンテスを、ストラスはカップを片手にニヤニヤと笑って眺めている。
そんな彼女の目の前に、これまたこんもりと皿に盛られた麦芽と、すり鉢が差し出された。
「すりつぶしてください」
「全部かい」
「量が足りないとうまくいかないですよ」
ストラスは神妙な顔ですり鉢を抱え、黙って麦芽を潰し始めた。
二人が黙々と単純作業に勤しむ中、シャオは裏手の井戸から水を汲み上げて、樽に詰める。それから、外にも新しく作った調理台に、薪を入れて火を熾しておく。
支度を終えて顔を上げると、丁度、優秀な助手たちも下ごしらえを済ませたところのようだった。
疲れ切ったラディアンテスからドロドロになった芋を受け取り、四分の一ほどを椀に水と一緒に流し込む。少し混ぜてから、白い綿布を間に挟み、今度は透明なガラスの瓶に移す。
「芋を布で濾します」
綿布に残った滓を絞り切ると、瓶には茶色っぽく濁った水分だけが入ることになる。
芋の量が多いので、同じことを少しずつ繰り返してようやく大きな椀を空にすることができた。
しかし、その濾した液には、やはり布目をすり抜けた繊維や皮の欠片などが混じっているので、泥水のようでなんだか汚らしい。
本当にこれがスヤンの気にいる菓子になるのだろうかと怪訝そうに覗き込むラディアンテスに対し、シャオは笑って休憩の時間だと伝えた。
「しばらく置いた後、分離した水だけ捨ててまた水を足す、これを繰り返すと白い粉が底に溜まると思います」
ラディアンテスが半信半疑で犬と遊んでいると、いつの間にか、瓶の中身は不純物の浮いた茶色い水と、底面に溜まった純白の泥に分かれていた。澱粉だ。
シャオが器用に水だけを捨て、抽出した澱粉だけを取り出すのを見ると、ラディアンテスは子どものように身を乗り出し、素直な声を上げた。
「ほんまや」
澱粉を鍋に移し、新しく水を注ぐ。
かねてから火を焚いておいたかまどにその鍋をかけて、シャオは木べらを手に取った。
「水で溶いて加熱します」
段々と澱粉が溶け、とろみのついた透明な液体に変わる。
「少し冷まして……麦芽の袋を入れてください」
ストラスが頷き、小さな袋に詰め替えた麦芽を鍋に入れる。
また休憩だ。今度はかなり待つ必要がある、とシャオが言うと、せっかちなラディアンテスが騒ぐので、ストラスが時間操作の略式魔術を貸してくれることになった。
貴重かつ高価な二等級魔術を組み込んだ品だが、ストラスは惜しむ様子もなく籠から取り出した。
礼を述べ、本来の四分の一の時間で済むように設定する。
庭仕事をして時間を潰し、再び鍋を取り出すと、あのどろどろとしていた澱粉は、甘い匂いを漂わせる、さらりとした液体に変わっていた。
「あとは煮詰めるだけですね」
ことこと、ぽこぽこ、泡が弾けて、時間が流れていく。
どんなに不思議なことが起きる場所でも、変わらないこと。
時間という不可逆の事象を代償に、この世界に比べればあまりに小さな鍋の中で起きていることこそが、とびきりの魔法なのだ。
しばらく鍋の底とにらめっこしていたシャオだったが、ある瞬間、意を決したように鍋を下ろし、火を消した。
「できた?」
「できました」
待ちくたびれた二人が肩越しに覗き込んでくるのも構わずに、シャオは小匙で水飴を軽く掬って味見する。
「うーん。やはり、甘さは控えめになってしまいましたね。米が手に入れば一番よかったのですが」
すると、ストラスがいつの間に持ち込んだのか、奇麗な小瓶を二つ、調理台に並べて置いた。シロップのようだ。
「せっかくだ、少しバリエイションというものを増やそうか」
ストラスは取り分けた水飴に、それぞれ鮮やかに色づいたシロップを垂らし、軽く混ぜる。
「こちらにはライラックを、こちらにはスミレを使おう」
宝石を溶かしたような甘い韓紅と、夏の訪れを待つ庭によく似合う青紫の雫。
無色透明の水飴と並べると、びいどろめいて可愛らしい。
シャオが目を輝かせるのを見て、ストラスは自慢げに微笑んだ。
「完成だ」
***
「食べるときは、こう……練ってみてください」
箸用に削り出した木の枝を渡し、シャオが手本を見せる。
円を描くように練られた水飴は気泡で一層と燦めき、硬く変わっていく。
混ぜ合わせるほど口当たりはまろやかになり、もちもちとした噛み応えを生む。
「おお、これおもろいわ! エミリオにも見せたろ!」
そう言うと、ラディアンテスは土産用に分けた水飴を掴んで飛び出していった。
その背を横目に箸を咥えて、ストラスは呆れたように呟いた。
「あやつ、初めの目的を忘れて帰ったね」
「そうですね……」
大人にならず猪突猛進に生きることも、ひとつの強みなのだろう。シャオは少しだけ羨ましく思ったあと、手元に残った塊を見下ろした。
***
「ということがありまして」
「そうか」
道理で途中から静かになったものだ、とスヤンは目を伏せて思い返す。
夕食の卓に三人が着くことにも慣れてきた。
純然たる聞き手がいるというのはどこか口を滑らかにするもので、スヤンもいつになく尋ね返すことが増えていた。
「楽しかったか」
「はい! とても」
「なら、いい」
食事を終え、ストラスの淹れる茶に身体を温める。
特に何か話すこともなく、カップを挟んで向かい合っていた。
徐にシャオが口を開いた。帰ってきてからというもの、シャオはずっとそわそわとしていたが、とうとう堪えきれなくなったようだった。
「それで、兄上。台所の棚に残りをしまっておいたので」
スヤンは少し黙り込んで、素っ気なく答えた。
「それなら明日、あのエピのところの娘が遊びに来たいそうだ。茶請けに出してやれ」
「……」
シャオは戸惑ったように僅かに眉をひそめたが、すぐに気を取り直して訂正する。
「茶請けならクッキーも砂糖がけもありますから、傷まないうちに食べてしまってください」
「……そうか」
スヤンは腕を組んだままそう返すと、力なく立ち上がって戸棚に向かう。
少し迷って、ライラックのほうを選んだ。いつもなら、青い色を選んでいたが。
もたつきながら瓶を開け、一瞬だけ、誰も気づかないほど微かに顔をしかめる。
瓶を傾け、紅色が浸食するように硝子を飲み込んでいく様子を見た。
棒で絡めとり、口に運ぶ。
常々、食べにくいと思っているが、誰も教えてくれないのだ。
だからスヤンは、それが間違っていることも知らない。
スヤンが知らないでいることも、誰も知らない。
────ああ、もう、そうやるんじゃないってば。
本当にそうだっただろうか。
飴が舌に触れる寸前で、手が止まる。
「兄上?」
シャオの呼びかける声が遠く感じて、それでようやく、何だか具合が悪いのだと分かった。
────それじゃ服を汚すだろ。よく混ぜて食べるんだって、前にも教えたじゃないか?
胃から心臓までひっくり返るような衝動に、青ざめ、目を白黒させて抗った。
「おぇ……っ」
いつかの日、心地良い薫風の中で過ごした光景。
決して酸鼻の念を思い起こすはずのない、美しい思い出が。
────美味いな、修養。
今はただ、恐ろしくて仕方がなかった。
私生活が落ち着いたので更新再開します
感想などで応援していただけると励みになります




