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22 彼が好んでいたものについての思い出

 スヤンの部屋に、鍵の壊れた小さな金庫があって、彼がそれを何より大切にしていることは睡花会の誰でも知っている話だった。


 壊れているといっても、それは鍵がかからなくなったというだけのことであって、玩具箱くらいの役には立つ。それで、不用心に蓋のちらつく、古くて黒い小さな金庫は、いつまでもスヤンの布団の枕元に置かれていた。


 商売道具の明天(かたな)でさえ、副頭に気軽に売られても、そのうち手元に戻ってくると呑気にしているスヤンが、その金庫だけは誰が近づくのも嫌がるので、なんだか面白いような、かえって怖いような、そういう扱いだ。


 しかし、スヤンが一人で仕事をする度、出処の分からない大金で古屋敷が潤うことは皆気づいていたから、あの金庫の中に依頼主から受け取った報酬をしまっているのだろうというのが専らの予想で、あの頭目が自分たちを信用しないのはもう仕方ないが、それならまず鍵のかかる金庫を買ってくれというのが酒の席でのお決まりの冗談だった。


 それが偶然、副頭の耳に入るまでは。


「いや、あいつの金は全部おれが管理しているぞ」

「えっ?」


 十年ほど昔の話だ。

 新入りの剣士が虚をつかれたような顔で声を上げたのを覚えている。

 菓子を頬張る幼いシャオを膝に乗せ、副頭は、美丈夫と評判の顔でくしゃりと笑った。


「だって、ほら、……あいつには無理だろ、帳簿の計算とか……」

「ああ……」


 睡花会に入ったばかりでも既にスヤンの無頓着さが身に染みていたのか、剣士は肩を竦めて頷く。

 猪口を傾けながら、副頭は懐かしむように呟いた。


「そも、初めて出会ったときなんか、手持ちの金は枕元に山積みだよ。そのときにはもうあの金庫もあったが、その隣に貯めこむんだ。まったく理解ができなかったさ」


 今にして思えば、副頭は初めから金庫の中身を知っていたのかもしれない。

 そんな会話があった、数日後のことだった。


 シャオが夜中に厠へ起き出し、ふと頭目の部屋のほうを見やると、まだ灯りが点いている。そのとき丁度、障子が閉まって、部屋の主が帰ってきたところなのだと分かった。


 瞼を擦りながら、シャオはスヤンに厠までついてきてもらおうと、部屋を覗き込んだ。


 それは妙な光景だった。

 今宵は人斬りの日だったらしく、スヤンは目元にまで返り血が跳ねたままだった。


 ぐっしょりと赤黒く濡れて重たげな服を換えようともせず、真っ先に金庫を開けたスヤンは中から小さな何かを取り出した。


 月の無い夜に行燈のぼんやりした橙色が揺らめいて、スヤンの手元を淡く照らしていた。


 それは、可愛らしい透き通った青色をした、瓶入りの水飴だった。

 とろりとした液体は触れた舌をも融かしてしまうのではと思うほど、甘そうで、毒々しく、美しかった。


 それからスヤンはその場で座り込み、黙々と水飴を平らげた。

 舌を小さく出して箸の先まで舐める有様は、まるで義務にも耽溺にも映った。

 シャオに見られていることには気がついていないようだった。


 そのままシャオは自分の布団に戻り、翌朝におねしょをした。


 皆に粗相をからかわれたのが悔しくて、シャオは昨晩自分が見たことを、一生懸命に説明した。


「じゃあ頭目は水飴なんかをあんな大層にしまい込んでいるってのかい」

「もしかしたら途方もなく美味い飴なのかもしらん。あの頭目が独り占めしたくなるほどだ。どんな味か気になるもんだね」


 大半の剣士は冗談めかして笑うだけだったが、本気にしてしまった者も何人かいたらしい。貧乏暮らしで甘味に飢えた時期だった所為もあるだろう。


 ある日のことだ。

 古屋敷の人間は一応、剣士の一党を名乗っていたから、鍛錬をしたり、仲間同士で試合をしたりして腕を磨くこともある。その日も数人の剣士が庭先に集まって、素振り稽古をしていた。


 一休みするとなってシャオが彼らに水を持っていくと、何人かの剣士が今朝、スヤンの金庫を開けてみたのだと言い出した。


「本当にあった。どこの駄菓子屋にでもありそうな、色付きの練り飴だ」


 大量に買い込んでいるという風でもなく、一つ、小ぢんまりと置かれているだけだったと彼らが言うので、古株の剣士が呆れた顔で咎めた。


「お前たち、頭目の部屋に入ったのか」

「掃除当番だったんだ。合法さね」


 自分たちに見る目がないだけで、どこぞの大店の高級品かもしれないぞと誰かが言うと、これまた不遜な剣士は腹を掻いて答えた。


「独り占めするほどのもんじゃない。むしろ、変に甘ったるくて不味かった」


 そのとき、庭前の部屋から稽古を見ていた副頭が、彼らに何かを言おうと口を開きかけて、しかし、それは襖を開けて乗り込んできたスヤンの声に遮られた。


 その日は珍しく、スヤンは朝から出かけていた。

 白昼堂々、仕事を終えて帰ってきたらしく、剣も置かず、汚れた衣服のまま、焦燥した口ぶりで小さく言った。


「飴がない」


 その顔が今にも泣き出しそうに見えて、シャオは学校の臆病な友だちを思い出した。

 スヤンはまるでほかの剣士たちは視界にもないという様子で、副頭だけを、縋りつくように見つめていた。


「あー……」


 副頭は何かを察したように庭の剣士たちを横目に見ると、とぼけた顔で答えた。


「すまん、おれが食った」


 その場に偶然、抜刀術だけは飛びぬけて上手かった仲間がいなければ、副頭の首はその瞬間に無くなっていただろう。


「……頭目!」


 あの頭目の初太刀を防いで副頭の命を救ったという紛れもない名誉を、後年、彼が一度も自慢しなかったのを見るに、相当肝を潰した出来事だったらしい。


 ともかく、彼の咄嗟の抜刀によって副頭は命拾いした。

 しかし、スヤンは弾かれたと見るやそのまま剣を手放し、代わりに副頭の胸倉を掴むと、圧し掛かるように彼を縁側に引きずり倒した。


「なんで……」


 スヤンは喉を震わせて呟いた。

 もはや、どちらが追い詰められているのか分からないような声色だった。


 副頭の背丈は一八〇を優に越すはずだ。それを決して恵まれた体格とはいえないスヤンが軽々と押し倒すのは、元より副頭が喧嘩に弱いことを差し引いても異様な光景だった。


 どこかに頭をぶつけたのか鼻血を滲ませながら、副頭はもう一度剣を握ろうとするスヤンの手をそっと押さえ、語りかけるように囁いた。


「……悪かった、スヤン。すぐ買ってくるよ」

「……」

「部屋にいなさい。持っていくから」

「……そうか」


 スヤンは我に返ったかのように呟くと、殺されかけた副頭よりも酷い顔色で、ふらふらと部屋に戻っていった。


 水飴を盗んだ剣士たちは、副頭に追い出されるまでもなく、自分から睡花会を抜けていった。後のことを思えば、それは英断だったとも取れるだろう。


 シャオが知る限り、スヤンが睡花会の人間に手を上げたのは後にも先にもそれだけだった。彼がそこまで何かに執着した姿も、とんと見たことがない。


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